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2023年2月28日 (火)

ヘンデル作曲《ヘラクレス》

ヘンデル作曲オラトリオ《ヘラクレス》を観た(カールスルーエ、州立劇場大ホール)。

今のところ二度観たのであるが、後述の小さな相違を除き演出、演奏に大きな違いは認められなかったのでまとめて記す。

今回の上演も、このところヘンデルのオラトリオ上演でよく見られるように、舞台装置を作り、歌手が演技をしかつ歌うというオペラ仕立ての上演である。一方、先日のオラトリオ《復活》は、小ホールでの上演であり、演奏会形式の上演で、歌手は身振りや演技もなく、コスチュームも無し。

オラトリオのオペラ化は、作品を馴染みやすくするメリットは大きいと感じる。ただし、オペラほどリブレットが突き詰めて書かれていないので、演出家が暴走すると歯止めがきかない面もありそうだ。

今回のフローリス・ヴィッサーの演出では、序曲から登場人物たちが動くのは通例だが何か木材が落ちるような大きな音、ドアをバーンとしめる大きな音をさせる。第二部の開始部のシンフォニアでもドアを大きな音で開け閉めするので閉口だった。静かにして音楽を聴くという暗黙の制度自体への反逆なのかもしれないが、そういう説教は余所でやってもらいたいものだ。その他にも意味不明の裁判場面があって裁判官が大きな音で木槌をたたく場面が何度もある。音に対するセンスが受け入れがたいものが筆者にはあった。

最近の演出でままあるが、登場人物の着替えをそのまま見せるシーンが何回かあったが、ドラマティックなアリアの途中での着替えは全く無用に思えた。この演出家はダ・カーポ・アリアのドラマ性を信じることができず、やたらにその間に何かをさせたり服を着替えさせたりして埋めなくては気が済まないように見えた。

レジーテアターでお決まりの精神病も出てきて、ヘラクレスの妻デイアニーラはドレスを脱いで拘禁服を着せられたりする。

英雄のドラマをホームドラマに矮小化する。その小道具としてテレビ(1950年代、60年代とおぼしき古い型のテレビ)が出てきて、例えばヘラクレスが見ているテレビをデイアニーラが消すといった具合。

最後にモック(歌わない)の秘書がタップダンスをする(何故か1度目には欠如していた)のはご愛敬。

これでは何の話かちんぷんかんぷんだと思うが、このリブレットはトマス・ブロートンという人によって書かれた。ブロートンは牧師だが実に多方面な著作をものしている。この作品は、古代ギリシアのソポクレスの戯曲『トラキスの女たち』と古代ローマのオウィディウスの『変身物語』をもとにしたものだ。

一言で言えば、ヘラクレスの妻デイアニーラが大変嫉妬深い女性で、その嫉妬のために愛する夫を死に至らしめた、という話である。

第一幕ではデイアニーラがヘラクレスの不在を嘆いている。息子ヒュルスが父を探しに行くと宣言する。そこへヘラクレスがオエカリア征伐を終え帰国の知らせ。ヒュルスはオエカリアの王女イオレに心惹かれる。

第二幕では、イオレを目的にヘラクレスはオエカリアを征伐したという噂をデイアニーラが信じこみ、イオレを責める。ヒュルスやヘラクレスが否定してもデイアニーラは聞く耳を持たない。ヘラクレスの愛を取り戻そうとデイアニーラはネッススの血の染みこんだ衣を従者リカスにゆだねる(あらすじ上ではリカスは端役だが、歌の出番は案外多い)。この後、イオレとデイアニーラが和解する。

第三幕 ネッススの血は実際には毒でヘラクレスはもだえ苦しむ。息子ヒュルスにオエタ山で火葬にするよう息子ヒュルスに頼む。これを知ったデイアニーラは半狂乱に。神官がヘラクレスの魂はユピテル神により神々の世界に上げられ、ヒュルスとイオレの結婚の神託があったことを告げられめでたしめでたし。最後の神官が歌うはずの部分は今回の上演では、ヘラクレス自身が歌っていた。

リブレットに関して。

今回の上演では英語字幕とドイツ語字幕が舞台上方に上下に重ねて投影されていた(小劇場でのオラトリオ《復活》では字幕は無し)。英語がリブレットの原文である。ヘンデルはオペラではイタリア語のリブレットを使用していたのだが、オラトリオでは英語のリブレットを用いるようになったのは周知の通り。

リブレットは韻文で書かれており、最も使用頻度が高いのは8音節詩行のカプレットである。即ち、1行に8つ母音があり、行末がAA,BB,CCのように2行ずつ韻を踏んでいく。レチタティーヴォなどでは韻を踏んでいない箇所も多い。また、7音節や9音節のカプレットになっていたりするところもある。さらに、カプレットではなくABABやABBA のような4行単位での押韻もある。細かく分類すれば例外もあるが、圧倒的に多いのは8音節のカプレットである。だからリブレットの段階での様式性は極めて高い。この時代の文学者・詩人のリーダーはアレクサンダー・ポウプであり、彼の最も得意とする詩形がヒロイック・カプレットと呼ばれる詩形だった。ただしポウプの場合は10音節詩行のカプレットであるが、ヘラクレスという英雄を扱うリブレットを書くにあたって台本作者のトマス・ブロートンがヒロイック・カプレットを少し約めた形を採用したのだと考えてよいだろう。18世紀の英文学にふさわしく、エレガントな文体で様式美のかたまりと言ってよい。また、それを実にヘンデルが対位法を駆使した様式にマッチさせている快感がある。

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ヘンデル作曲《復活》

ヘンデルのオラトリオ《復活》を観た(カールスルーエ、州立劇場小ホール)。

これはヘンデルがローマに遊学していた時代に書かれた作品で、リブレットを書いたのは、カルロ・シジスモンド・カペーチェという亡命していたポーランド女王の宮廷詩人だった人物。当時ヘンデルはローマの有力貴族ルスポリ家の世話になっていて、1706年4月8日復活祭の日曜日に初演された。場所は、ルスポリ家の屋敷パラッツォ・ルスポリである。

当時はローマでは教皇によりオペラが禁じられていたので、宗教的な題材(登場人物は、天使、悪魔、福音者ヨハネ、マグダラのマリア、クレオフェのマリア=クロパの妻マリア)で音楽的にはレチタティーボとアリアが交互にあらわれるオペラ的作品である。ちなみに、女性歌手を使ったことで初演時、教皇庁からおとがめがあったとのこと。

第一部と第二部からなる。第一部では天使と悪魔が論争する。

第二部では、天使が勝利を宣言する。マグダラのマリアとクロパの妻マリアはイエスの墓にむかい、その墓が空であることを見出す。

いろいろあってイエスの復活を信じてめでたしめでたし。

今回の上演では、初演時のオーケストラ編成をかなり忠実に再現していたようだ。当時としては大オーケストラで40人ほどの大編成だった。今回の上演でも同じく40人程度だったが、指揮者のまわりにヴァイオリン独奏、ヴィオラ・ダ・ガンバ独奏、チェロ独奏者らがいて、少し奥に10数名のヴァイオリン奏者、チェロ、ヴィオローネ(コントラバス)、トランペットなどが配されている。ここで効果的なのは、ヴァイオリンやチェロが一丁で弾く場面と全体で弾く場の交代が実に鮮やかなコントラストを描くこと。オーディオ的快感満載なのだ。どの程度のスピーカー、部屋ならこのコントラストが(そこそこ)再現出来るだろうかなどと考えてしまう。

歌手は, 天使が Carine Maree Tinney. イタリア語の発音が聞き取りにくい箇所はあったが、アジリタや声量は十分。ルシファー(悪魔)はダヴィッド・オストレック。非常に口跡のよいバス。マグダラのマリアは、フランチェスカ・ロンバルディ・マッズッリ。去年、神奈川県立音楽堂でヘンデルの《シッラ》が上演されたときにも出演しており、それはNHKで放映もされたのでご存じの方も少なくないだろう。クロパのマリアはカウンターテナーのラファル・トムキエヴィッチ。彼は抑制が効いてカント・バロッコの様式感をたたえつつそこに情感を込めることも自由に出来る優秀なカウンターテナーである。福音者ヨハネは韓国出身のテノール、ユン・ソン・シム。彼のパートは福音者であることもあって、オーケストラが鎮まり伴奏が指揮者のひくチェンバロになってしまうので音楽的なダイナミズムは他の歌手と比較すると乏しくなってしまうのだった。

オーケストラは、ハレのヘンデル音楽祭管弦楽団がやってきて演奏したのだが、独奏者がコンサートミストレス、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロどれも舌を巻くうまさ。指揮のアッティリオ・クレモネージの棒さばきも見事だが、彼らの間で交わされる微妙なニュアンスのやりとりに奏者自身が喜びを感じているのがよくわかった。非常に音楽的な感度の高い素晴らしいオーケストラである。さらに、ヘンデルが凝った仕掛け(ヴァイオリンのパートも独奏か全体で弾くか)を実に効果的に使っていて、本来であればコンチェルト・グロッソなどでも同様のオーディオ的な快感があってしかるべきなのだが、筆者は今回ほどのオーディオ的快感かつ音楽的快感をこういった編成から得たことはなかった。

宗教曲だから抹香臭いなどというステレオタイプからこれほど遠く、ドラマとしての魅力、音楽の愉しさ、オーディオ的快感に充ちた贅沢な時間だった。復活祭をこういうゴージャスな楽しみかたをするというのは、いかにもローマの貴族らしいとも思った次第。

この曲のいくつかのアリアは、後にオペラ《アグリッピーナ》などに転用されており、耳馴染みのある曲もいくつかあった。いつか、舞台化して天使や悪魔がでてくる上演を観てみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

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2023年2月27日 (月)

ヘンデル作曲《オットーネ》

ヘンデル作曲ニコラ・フランチェスコ・ハイム台本のオペラ《オットーネ》を観た(カールスルーエ、州立劇場大ホール)。

州立劇場はただいま改修工事中で、入り口も2年前とは異なる場所で、入ると目の前がクロークである。敷地内には、巨大なクレーン車が据え付けられ、地面に大きな穴があいて地下に何か新たな構造物が出来るものと思われる。劇場の壁は一部が壊されている状態で、不出来な現代芸術のようでもある。

ヘンデルのオペラ《オットーネ》は原題は Ottone, re di Germani なのでドイツ王オットーネである。歴史上のオットー1世とその息子オットー2世の話を適当にまぜて、その上で勝手な恋愛関係を混ぜて作った話。実在の人物が登場するが、恋愛や細部のエピソードは勝手に作り上げるというのは18世紀のオペラセリアにはよくあるパターンである。

あらすじは、オットーネが征服した領土に対して、ジスモンダという前領主の妻が息子を使って領土を取り返そうと策略をめぐらす話で、ジスモンダのキャラクターは相当に強烈だ。ヘンデルの作品でいえば《アグリッピーナ》のアグリッピーナやポルポラ作曲の《カルロ・イル・カルヴォ》のジュディッタと共通する。18世紀のオペラ・セリアには、権力欲、支配欲、征服欲に充ちた女性がまま登場する。19世紀のオペラのほうがはるかに政治・経済・権力が男の世界化している。

オットー(ユーリ・ミネンコ)はテオファーネ(ルシーア・マルティン=カルトン)と婚約しており彼女のもとへ向かっているが船が嵐にあい遅れている。そのスキをねらいジスモンダ(レーナ・ベルキナ)は息子アデルベルト(ラファエーレ・ペ)をオットーネに化けさせ、テオファーネと結婚させ領土を取り返そうともくろむ。テオファーネは手元のオットーネの似姿と突然あらわれオットーネを名乗るアデルベルトの容貌の違いに戸惑う。このあたりはかなりコミカルである。

ローマへの洋上で海賊と戦っていたオットーはエミレーノ(ナタナエル・タヴェルニエ(タフェルニエ?))を捕らえるが、このエミレーノがじつはテオファーネの弟であるというのもオペラ・セリアではよくあるパターンだ。そこへオットーの従姉妹マティルダ(ソニア・プリーナ)がオットーにジスモンダらの策略を知らせにやってくる。策略がバレたアデルベルトとエミレーノは一緒に牢に入れられる。ここまでが第一幕。

舞台は3階建ての建物の壁を取り払った各階を行ったり来たりする。衣装は皆18世紀風の衣装で統一感は取れている。特に違和感はない。いつもはショートカットのソニア・プリーナがフェミニンな髪型、ドレスで印象的だった。先日、ヘンデルの《シッラ》で歌舞伎風の悪役で隈取りまでしていたのとは180度反対なわけで、どちらも見事に演じる演技力は、歌唱力に加えて賞賛に値すると思う。《シッラ》では悪い男、《オットーネ》ではアデルベルトに思いを寄せ、弱いところも見せるマティルダ。外見だけでなく、性格も対象的だ。

オットーネ演じるミネンコは、ツェンチッチの代役で、彼としてはとてもよく歌っていたと思う。が、ツェンチッチで聴いてみたかったという思いが現れなかったと言えば嘘になる。

マルティン=カルトンは開演前に不調だが出るということが伝えられ、たしかに出だし声を落として歌っていたが二幕以降は調子が出てきた。

指揮のカルロ・イパータは、丁寧に歌手に寄り添うのはよいのだが、テンポが遅くなった時にレクーペロ(テンポを元にもどす)してくれないので、音楽に緩みがみられることがあった。とはいえ、全体はオケの有能さもあいまって破綻はない。

《オットーネ》という音楽劇の18世紀性を心ゆくまで楽しめる演奏であり演出であった。

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エクメニカルな教会礼拝音楽会

カールスルーエのヘンデル音楽祭とタイアップした教会礼拝音楽会に出た(カールスルーエ・シュタット教会)。

エクメニカルとついているのは、辞書的には全教会統一を促進するということだが、ここの地元での意味としてはプロテスタントとカトリックが一緒にやりましょうという意味になるかと思う。シュタットキルヒェ自体は、プロテスタントの(福音派の)教会である。

牧師の説話や会衆の歌う賛美歌の合間にヘンデルのアリアが歌われる。筆者のドイツ語力の低さのため、説話の内容は理解不能なのがまことに残念。ヴェネツィアのサン・マルコ寺院での荘厳ミサとはその点が大いに異なった。

最初と最後にヘンデルのコンチェルト・グロッソ・ト長調が奏でられた。途中で歌われたアリアは四曲。

《メサイア》から一曲と An Occasional Oratorio から三曲。

’An Occasional Oratorio'は、1745−46年にジャコバイトの反乱(ジェームズ2世の子孫がイングランドの奪還を図った)がスコットランドで起こった際に、1746年の初頭に作曲されたもので、第一部は戦争の悲惨さ、第二部は平和の祝福、第三部は勝利への感謝を歌ったものであり、極めて当時の政治状況との関わりが深い。

この日最初に歌われたのは An Occasional Oratorio の第二部24曲’How great and many perils enfold'

歌ったのはカウンター・テナーのルーカス・キウク・キム氏。韓国出身。2019年のヘンデル・アカデミーの受講生。

第二曲は《メサイア》の 'How beautiful are the feet of them' 。歌ったのはHyuneum Kim氏、韓国出身のソプラノである。

第三曲は 'An Occasional Oratorio' 第二部22曲で 'After long storms and tempests overblown' 上記の2人により歌われた。

第四曲は、'An Occasional Oratorio' 第二部19曲で 'Prophetic visions strike my eye'. ソプラノが歌った。このアリア、歌詞の続きは '

in vain our foes for help shall cry, war shall cease, welcome peace, and triumphs after victory' (敵が助けを求めても無駄だ、戦争を止めさせるぞ、平和歓迎、勝利して凱旋を)というもので、4曲を通じて、ウクライナ対ロシアの戦争とその行方に対する人々の思いを想起させずにはいかない。

 

 

 

 

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2023年2月24日 (金)

コルセッリ作曲《アキッレ・イン・シーロ》の上演評

フランチェスコ・コルセッリ作曲メタスタージオ台本のオペラ《アキッレ・イン・シーロ》を再び観た(マドリッド、テアトロ・レアル)

2回目になると、歌手の動きや演出がどうなるかのあらましが判っているのでより細部により精緻な見方が可能になる。音楽にしてもそうで、

このオペラのように蘇演の場合、予習は不可能なわけで(youtubeに序曲だけが別団体の演奏であがっていた)すべてのアリアが真新しい。その中で、二回目になるとテアジェーネの3つのアリアは技巧的であるし、オーケストレーションも他のアリアより派手だとわかる。デイダーミア(アキッレの恋人)のアスプロモンテの歌唱は素晴らしかったが、役としてはやや損な役回りで、デイダーミアは最初からアキッレの正体がばれてしまう、あるいは出征してしまうことを恐れるという存在で、キャラクターの劇的変化に乏しい。その点、デイダーミア(サビーナ・プエルトラス)は、最初は王からデイダーミアの婚約者として紹介されてその気になっているのだが、男前の娘ピッラ(実はアキッレ)に惹かれていく。アキッレの正体がばれてからは、こんな立派なカップルなら、自分は婚約者としての立場を放棄してこのカップル(アキッレとデイダーミア)を認めるという。デイダーミアは女性歌手が歌っているのだが、アリアの途中で凜々しい服を脱ぎ捨てまとめていた髪をほどき、女性性を強調して退場するアリアがあった。これは演出家クレマンがジェンダーの重層性と戯れ、このオペラにおける性の曖昧さが充満していることを強調したのだと思うが、同時にその後の場面でアキッレが女装をかなぐり捨てる場面の伏線にもなっていたのだろうと思う。ただし、この伏線が必要であったか、効果的であったかは意見が分かれるところかもしれない。

このオペラで案外活躍するのは合唱である。最初は冒頭でバッカスを讃えており、次にはオペラの中盤で退屈を追い払おうと歌い、最後はこのカップルの結婚を祝していた。

全体として個々の歌手は、中3日となったせいか声もよく出ていたし、オケも前回よりまとまりがよくなっていたという印象を受けた。

実に祝祭的な音楽に充ちていて、ストーリーもコミカルな場面、シリアスな場面が交錯する楽しいオペラである。とりわけ18世紀半ばぐらいまでは王、王子、王女の結婚や戴冠など祝賀行事とオペラが結びついていたことを強く認識させるオペラだった。だからホルンやトランペットがたびたび登場した。指揮をみていると、指揮のボールトンはレチタティーヴォになるとチェンバロを弾いていた。このオペラでは、レチタティーヴォとアリアの接続が非常にうまく行っている。コルセッリの作曲の腕なのか、3年越しで作り上げた役作り、曲作りがこういう所に良い意味で反映され歌手がレチタティーヴォまで徹底的にこなした結果が現れているのか、あるいはその両方なのか。ともかく、レチタティーヴォの部分も少しもだれず音楽的なのは素晴らしかった。

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《アキッレ・イン・シーロ》の演出家マリアム・クレマン

フランチェスコ・コルセッリ作曲、メタスタージオ台本のオペラ《アキッレ・イン・シーロ》についていくつかの項目を記したが、この項では、演出家マリアム・クレマンの考えを紹介したい。筆者は、オペラを観る時に、どんな演出かが関心の中心であることはほぼない。劇場で拍手をする時も歌手に対する拍手であったり、指揮者・オーケストラへの賞賛であったり、声には出さないがヘンデルやモーツァルト、ポルポラへの賛嘆の気持ちをこめて拍手をしていることが多い。そして時々、台本を書いた詩人(リブレッティスタ)の巧みな言葉遣いにもブラボーを心の中でそっとつぶやく。無論、そういう見方や聴き方が正しいなどというつもりは毛頭ない。ヴェルディやプッチーニ、モーツァルトやワーグナーのしかも人気作品の場合、聴衆の多くはそれを過去に何度も観たり聞いたりしていて、そこに新味を付け加えたいという意図、あるいは現代におけるアクチュアリティを持たせる意図が理解できなくはない。

だから、僕が演出に期待するものは、めったに上演されないものと、毎年のように上演されているものでは期待の方向が異なるのである。

今回の演出家マリアム・クレマンが Youtube で語ったり、プログラムで対話形式で語っていることは共感するところが多かったのである程度まとめて紹介したい。彼女はパリのエコール・ノルマルで文学史・美術史を学び、その後、ベルリンのシュターツ・オーパーでインターンをし、各地の劇場で演出助手をつとめた。演出家としてはローザンヌでロッシーニの《ブルスキーノ氏》、プッチーニの《ジャンニ・スキッキ》でデビュー。その後、ワーグナーのフランス初演もの、まったくの新作、蘇演のものなどを演出している。

 以下、今までの項目と一部重複するが彼女の主張をまとめておく。

このオペラを演出するにあたって、彼女は通常は当該のオペラの音楽を何度も聴くという。しかし今回は既録音がないので、リブレットを読んだ。しかしそれだけでは作品の半分なので、楽譜を入手し読み込んでいたところ、コレペティがスコアを全部弾いて歌ったものが配布された。

クレマンによれば、音楽の専門家に尋ねてもコルセッリって誰?と言われることが何度もあり、演出家にとっても、歌手にとっても、聴衆にとっても新しい存在、新しいオペラなわけだ。そのため演出はある意味でシンプルな方向性が打ち出せた。つまりストーリーテリングをすること。皆が知らない作品なのだから、ストーリーを伝えることが大事なわけである(この点大いに賛成)。ただし、メタスタージオの台本のト書きにまったく忠実かというとそうではない。本来、シーロという島で外部から隔絶した世界にアキッレ(アキレス、アキレウス)は閉じ込められている。そこでそれを表象するために洞窟が用いられている。クレマンによれば、洞窟は母の子宮をも意味する。アキッレの母はアキッレが将来トロイ戦争に行き戦死することを予言で知りそれを避けるためにシーロという島の王リコメーデに息子を女装させピッラという名で預けたのである。さらには、洞窟はセクシュアルに女性性も示している。演出家は、この英雄アキッレになる以前の若者アキッレ(ピッラという女性)が描かれているのが興味深いという。ウリッセ(オデュッセウス)がこの島にやってきてアキッレを刺激することにより、アキッレは自分の性的アイデンティティが揺れ動く。これがまさに今日的である。クレマンが注意を喚起しているのは、このオペラの前半では、アキッレ(ピッラ)と王の娘デイダミアは前半では、対等な二人の女性であること。それがウリッセが出てきて介入すると、ピッラがアキッレになって、男性となってしまい、19世紀的な「男は男、女は女」という世界に秩序づけられてしまう。秩序だった世界なのだが、以前にあった性別の自由は消えてしまうのである。だから演出家はこのオペラは17世紀的な性的曖昧さから19世紀的な「男は男、女は女」的世界への移行を示しており、初演は1744年でちょうどその中間点だという。

また、このオペラはスペイン王女とフランス王子の結婚を祝して書かれた。フランスではこのカップルを祝して書かれたのがラモーのオペラ《プラテー》である。そうした性格を反映して《アキッレ》では、最後の場面で王リコメーデが、劇場にいた本物の王に語りかけ祝福する。つまり劇の世界をはみ出て、現実の世界に語りかけるのである。合唱も同様。その場面を演出家として無視することも出来たわけだが、クレマンはあえて残し、むしろ舞台上に祝福されるカップルと花嫁の父であるスペイン王を載せてしまうことにしたのだ。彼女はまた、観客はみなアキッレが出征したあとトロイ戦争で死んでしまうことを知っているわけで、表面的なハッピーエンドの後にアキッレの死があることをどう受け止めたのかと自問している。

音楽に関しては、ダ・カーポ・アリアに関して、クリシェのようにそこで演劇的な動きが止まってしまうと判で押したように言われるわけだが、彼女はそうだろうかと疑問を投げかける。ほぼ一文が繰り返されるダ・カーポ・アリアだが、現実にも一つの文が様々な重みを持つことはあり得るし、五分が何も起こらずにすぎることなどいくらでもある。しかもダ・カーポ・アリアはすべてが同じではなく、一つ一つが異なった個性を持っている。だから、ダ・カーポ・アリアの間に歌手を動かして何かで埋めることは必要なく、音楽を信じることが大切なのである。埋めるよりも、音楽を感じることが重要だ。

以上、演出家クレマンの主張の主な点をまとめてみた。

 

 

 

 

 

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2023年2月22日 (水)

コルセッリ作曲《シーロのアキッレ》上演中止

2月21日の《シーロのアキッレ》の上演は中止となった(マドリッド、テアトロ・レアル)。

劇場から午前中にメールで連絡が来たのだが、タイトル・ロールを歌うはずだったフランコ・ファジョーリも一昨日2月19日に代役でうたったガブリエル・ディアスも健康上の理由で歌えなくなり、上演は中止にせざるを得なくなったとのこと。

その変わりの上演を2月26日(日曜日)にするので切符はそちらに振り替えるという。それが都合の悪い人は今日の夕方六時半までに、劇場に電話か直接来るように、とのことだった。

僕の場合は、2月26日より前にマドリッドを出発してしまうので、劇場の窓口に行って説明をし、クレジットカードを通じて返金してもらうことにした。振り替えでなくて返金にも応じてくれたのはありがたいが、公演が無くなってしまったのは実に残念だった。このオペラは以前の項目で記したように蘇演なのでCDもDVD/ブルーレイもない。コルセッリを3回聴いて、その音楽の特徴や聞き所を耳に刻みこもうという心積もりだったのだが、これで1回分は消滅してしまった。ファジョーリもディアスも病気だとすると、23日の上演はあるのか?と劇場の窓口で尋ねたが今のところやる予定と。そう答えるしかないのだろうな、という答えである。僕としては23日の公演があることを祈るのみである。

ファジョーリもディアスも健康上の理由でとのみ発表されているから、新型コロナが絡んでいるかどうかは定かではない。絡んでいるかもしれないし、絡んでいないかもしれない。

思い返すと1年前の2022年2月フィレンツェのマッジョ・フィオレンティーノ劇場でケルビーニのオペラ・ブッファ《Lo sposo di tre, e marito di nessuna》も上演が珍しいオペラなので複数回予約したのだが、最初の2回が劇場関係者の誰かが新型コロナに感染して中止となった。3回目以降は無事上演された。その際には、払い戻しは事実上極めて困難で、僕の場合は次の別の演目の切符に変えてもらうことになった。去年の今頃は、関係者にコロナが出ると災難であったのだ。

現在は、ほとんどの劇場でそこまで厳格な規制はなく、ファジョーリが仮にコロナだったとしても、公演全体が中止にはならずディアスという代役を立てればよかったのだ。新型コロナに関する規制は日本でもヨーロッパでも年ごとに大きく変化して行ったのである。それにしても二人とも病気になってタイトル・ロールを歌う人がいなくなってしまうという事態は、こちらはまったく予想していなかったし、おそらく劇場としても想定外だったのではないか。

舞台芸術を生の舞台で観る、接するということが一期一会的性質を多分に持っていることを認識させられた出来事だった。

チケットを買ったから、観られるのは当たり前と思いがちであったが、実際には必ずしもそうではないのだ。

 

 

 

 

 

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2023年2月21日 (火)

コルセッリ作曲《シーロのアキッレ》その2(上演および作品)

前項からの続き。

このオペラがスペイン王女とフランス王子の祝婚のためのオペラであることは前項に記した。

しかしここで祝福されたカップルのその後は悲しいもので、二人の仲はむつまじかったらしいのだが、最初の子の出産三日後に王女は死んでしまう。そしてルイ15世の息子である王子はルイ15世より先に亡くなってしまったのだった。

2月19日の上演の歌手は

王リコメーデがミルコ・パラッツィ。リコメーデの役は、ウィーンでカルダーラが作曲したときには カストラートによって歌われたのだが、マドリッドではアントニオ・モンタニャーナという初期のバス歌手によって歌われた。モンタニャーナはヘンデルも彼のためにあてがきをした優れた歌手だった。パラッツィはロッシーニ歌いらしく整った歌唱であった。ウリッセを歌ったのはティム・ミード。イギリスのカウンターテナーらしく劇的というよりは端正な歌いぶり。デイダミアはフランチェスカ・アスプロモンテ。安定したカント・バロッコを聞かせた。テアジェーネのサビーナ・プエルトラスはアリアは3曲なのだが、いずれも華やかな技巧を伴う派手な曲で満場の喝采をさらっていた。アキッレ(ピッラ)は予定ではフランコ・ファジョーリだったのだが病気のためガブリエル・ディアス。7曲もあるアリアを含め大いに健闘していたと思う。アルカーデはクリスティアン・アダム。ネアルコはホアン・サンチョ。最高音はやや苦しそうなのだが、今回、他の歌手と較べレチタティーボが上手いと思った。発音が良いだけでなく、そこに感情がのっていて、それがこちらにも伝わる。

舞台は洞窟のようなゴツゴツとした岩の中にある。もとのリブレットではシーロ島のリコメーデの王宮の内外で展開されるわけだが、今回は大きなグロッタで、演出家によると島と同様に外界から孤立していることが重要で、さらにアキッレが母の配慮により女装させられているわけで、母の子宮を象徴するものであり、さらには女性一般のセクシュアルな象徴でもあるとのことだった。劇場ではパンフレットが無料で配布されており、ページ数はさほどではないのだが、中身は充実している。今回上演されるにあたって当時の手書きの楽譜から印刷楽譜を起こした音楽学者のアルバーロ・トッレンテの楽曲解説や、演出家のマリアム・クレマンが3ページのインタビューに応じ、演出意図を明快に語っている。作品は楽譜とリブレットであるから、どちらも尊重されるべきであるのは言うまでもない。バロック音楽では装飾音符がしばしば自由に付加されるのは当時の習慣だからまったく問題ないわけだが、リブレットにない場所が出てきたり、そこに書かれていない振る舞いをする場合、演出家はそれを正当化する理由を持っていなければならない。音楽では編曲と断っている場合は別として、そして前述の装飾音やカデンツァは別として相当に厳密な対応関係がある。しかし20世紀の後半に読み替え演出が出てくると、勝手な変更が当たり前となり、その変更理由もきちんと釈明されない場合も少なくない。批評家やジャーナリストも演出を紹介し、論じることが第一の仕事のようになっている場合さえある。

今回の演出ではインファンタ(スペイン王女)が舞台に出ずっぱりなのと、インファンタの両親、婚約者が最初と最後に出てくるのは、演出家の創意工夫だと思うが、これはこのオペラが二人の結婚を祝福するために上演された、という事情(この情報もリブレットの解説のあちこちで触れられている)を可視化して表象しているのだということはわかりやすい。

またこのオペラの一番中心のテーマ、アキッレが女装したままで身を潜めているか、ウリッセに刺激されて戦士としてトロイ戦争に加わる決意をするかは、何度も葛藤が明示的に示される。アキッレにとっては深刻な悩みだが、端からみているとウリッセのプレゼントのなかで思わず剣や盾に手が伸び、しまったというしぐさをするところなどはコミカルでもある。演出家が言うように、このオペラの前半は17世紀のカヴァッリの《カリスト》的な世界(男の神ジョーヴェが女神ディアナに変身しニンフ・カリストと仲睦まじくなる)から、話が進展してアキッレが戦士として出征を決意する場面までいくと男女の入れ替えがきかずジェンダーの固定された19世紀的世界に移っていくのだという。クレマンによれば、18世紀半ばに書かれたメタスタージオ+コルセッリのオペラは、17世紀から19世紀の経過過程を見せるオペラでもあるというのだ。この見立てに全面的に同意するかしないかは別として、まことに明快な説明であり、反論をしようとする人がいれば反論がしやすい。何の説明もなく、この部分を取り上げればこうも解釈できるし、あの部分を取り上げるとああも解釈できるという状態のまま放置された演出の何と多いことか。

アイヴァー・ボールトンの指揮とオーケスタ・バロッカ・デ・セビッリャ(セビージャの発音もあり)の演奏。

私の記憶では3年前、2020年3月にこのオペラがマドリッド(発音にこだわるとマドリースの発音もあり、その場合スは英語のth のように上下の歯の間に舌をいれた音)で予定されていた時点では、オケはテアトロ・レアルの座付きのオーケストラが予定されていたと思う。ボールトンは何十年も前からヘンデルなどバロック・オペラを演奏しているヴェテランだが、彼はモダン・オケでもバロック専用オケでも区別なく、あるいは必要に応じて振り分けていたからだ。こちらもそのつもりでいたらオーケスタ(オーケストラではない)・バロッカ・デ・セビッリャの演奏となった。これは私にとっては好ましい変化で、歌手もカント・バロッコ(バロック歌唱)を駆使して歌う人が多いのだから、モダン・オケよりもバロック・オケの方がふさわしい。音量の点でも、音色の点でも。オケのピットを覗くと、チェロはエンドピンのないものだし、管楽器もそれぞれピリオド楽器、テオルボやチェンバロがいて、今回の上演で珍しいのはチターである。二幕でギリシア人を歓待するために、アキッレがチターを奏でつつ歌うことを求められる。そこの部分でオケにチターが加わる。残響の長い、独特の音色が一興。ボールトンの指揮は、非常に精力的で、明らかに曲のダイナミズムを優先的に大事にしている。だからともすれば、叙情的な部分のしっとりとした感じが薄い。これは歌手の歌い方によっても変わってくるわけで、正直なところを言えば、この部分はファジョーリが歌ったらどういう表情を浮かび上がらせるのだろうかと思ったところが数カ所あった。ボールトンの良いところは、テンポ早めで突き進み、ダイナミズムを強調するやり方なので、音楽が間延びして退屈あるいは音楽の推進力が衰弱してしまい音楽が止まりかけるといった場面は皆無だったことだ。そもそもこのオペラは祝祭のためのオペラだし、皆が若い二人の結婚を祝福するたものものなので、曲も元気な(というとあまりに雑ぱくであるが)曲が多いのだろう。

コルセッリの曲は Youtube で序曲があがっているくらいで、事実上初めてだったが大いに楽しめた。この曲はぜひとも繰り返して聴いてみたい、観てみたいと思ったしこれ以外の彼のオペラー彼は祝婚オペラを他に2つ書いているーもぜひ観てみたいものだ。この上演を3年越しで実現させた関係者各位に深い感謝。

 

 

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2023年2月20日 (月)

コルセッリ作曲《シーロのアキッレ》その1(あらすじ)

フランチェスコ・コルセッリ作曲のオペラ《シーロのアキッレ》を観た(マドリッド、テアトロ・レアル)。

素晴らしい上演で、歌手もオケも演出・舞台も見事なものだった。コルセッリはイタリア出身でスペインに渡った18世紀の作曲家で今回の上演が現代における本格的な復活の第一弾である。このオペラの蘇演は、もともとは2010年3月に企画されていてゲネプロも終わり本番寸前までいっていたのだが、その頃新型コロナがヨーロッパ中で広まり、スペインもその猛威に襲われやむなく中止になった。それから3年。

ついに日の目をみた復活上演である。

リブレットはメタスタージオによるもので、そもそもはヴィーンでマリア・テレジアとフランツ1世シュテファンの結婚式を祝福するオペラとして書かれ、曲を付したのはカルダーラだった(1736年2月)。それから8年後の1744年にフランチェスコ・コルセッリが曲を付してマドリッドのReal Coliseo (宮廷劇場)で上演された。これまたスペインの皇女マリア・テレーサ・ラファエラとフランスの王子ルイ(ルイ15世の息子)の結婚を祝するオペラであった。

こうしたオペラ誕生の機縁は、リブレットに反映されていて、何回か合唱が登場するのだが、バッコスの祝祭をことほぎ、最後は二人の若者の結婚(アキッレとデイダミア)を祝福するという形をとっていた。

今回の演出ではモック(無言の役)で、インファンタ(スペイン皇女)が出ずっぱりで舞台上にいた。またオペラの最初と最後には彼女の両親および婚約者のフランス王子が登場して彼らの結婚を祝福するオペラだということが明快に理解できるようになっていた。

今回の上演は、言わばスペイン・バロック・オペラの現代における復活上演第一弾であり、それはキャスティングからもうかがえる。タイトル・ロールは、カウンターテナーの第一人者フランコ・ファジョーリ。残念ながら病気のため(コロナか?)現時点では17日の初日と19日は代役のガブリエル・ディアスが歌った。このオペラのストーリーはメタスタージオがギリシア神話とトロイ戦争のエピソードを自由に改変したもので、アキッレ(アキレス)は、彼の母が彼がトロイ戦争で死ぬという予言を聞いて息子の死を避けるために、シーロ(シロス島)のリコメーデ王に託す。アキッレは女装して育てられ、リコメーデの娘デイダミアと恋仲になっているが、まわりの者たちにはアキッレは女性ということになっている。またなぜかリコメーデ王もアキッレが本当は男性であることを知らない。ここまでが幕があがるまでの前提である。

幕が上がると合唱がバッコスの儀式を歌い、その中に女装したアキッレ(ピッラという別名でまわりの者には知られている)とデイダミアがいる。そこへある船が近づいてきたという知らせがはいるがそこにはウリッセ(オデュッセウス)が乗っており上陸する。彼はトロイ戦争を勝ち抜くためにはギリシア軍にとってアキッレが必要だと考え、アキッレを探し求めてやってきたのだ。アキッレを女装したピッラとして隠し通そうとするデイダミアと、なんとか正体をあばこうとするウリッセの知恵比べ、またその両者の間で揺れ動くアキッレ=ピッラの心情がこのオペラの中核といってよいだろう。

デイダミアの父王リコメーデは、デイダミアの夫候補としてテアジェーネを紹介するが、デイダミアは激しく拒絶する。またそれを知ったアキッレは嫉妬する。嫉妬したアキッレ(ピッラ)にテアジェーネは惹かれてしまうのだった。

第二幕

知恵者のウリッセは、ヘラクレスのいくつもの像が並ぶところで、いかにヘラクレスが英雄かを讃え、部下アルカーデにアキッレの反応を観察させる。さらに王リコメーデはアキッレ=ピッラに娘が婚約者を受け入れるよう説得してくれと頼み、アキッレは当惑する。師のネアルコにこれ以上女装は耐えられないと嘆く。

二幕の途中だがここで上演は前半が終わり、休憩。

ギリシア人たちを歓待するため、王リコメーデはアキッレに歌を歌うよう望む。彼はチターを弾きながら歌う(ここでオケの中にチターが入り、独特の音色が加わるのだった)。ウリッセの贈り物が運びこまれる。女性たちは宝石や衣装に歓声をあげるが、アキッレは盾と剣に惹かれる様を暴露してしまい、正体があらわれそうになる。ここでウリッセとアルカーデが一芝居うつ。敵がこの島に攻めてきたと騒ぐ。皆逃げるがアキッレは残り、盾と剣を手にとり、女装をかなぐり捨てる。そこへウリッセが登場し、英雄としてのアキッレを讃える。師のネアルコはそんなことをすればデイダミアがどれだけ悲しむかとアキッレを非難する。

第三幕

アキッレとウリッセは船で島を出発しようとしている。そこへデイダミアがやってきてアキッレを非難。アキッレは島に留まることにする。

宮廷前でアキッレはデイダミアと結婚したいとリコメーデに言う。婚約者だったテアジェーネはいさぎよく諦める。こうしてめでたく二人が結ばれ、王はアキッレにトロイ戦争にでかけることも認める。

以上があらすじである。

 

 

 

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2023年2月 7日 (火)

カヴァッリ《カリスト》その2(上演について)

前項の続き。カヴァッリのオペラ《カリスト》(川口、リリアホール)。

今回の上演、オケも歌手の演奏レベルが非常に高く音楽的に大いに楽しめたのは濱田芳通の指揮によるところも大きいだろう。

彼は、リズムといいテンポといい自由自在に変化させ切れ味のよい音楽を聴かせるのだが(弾き振りならぬ、吹き振りである)、劇の場面の表情に合わせているので、楽員たちも心得たもので、表情の変化に難なくついていくし、むしろそれを楽しんでいるようだった。特に注目すべきは、レチタティーヴォの表情づけで、シリアスなものと、コミカルなニュアンスが入り込んでいるものとのコントラストを思い切りつけているのでレチタティーヴォで音楽が弛緩しない。このあたりの劇と音楽の運びに関しては、指揮者と演出の中村敬一の息が合っているのだろうと推測する。

歌手たちも、上記の音楽上、演出の意図を踏まえ、非常に明確なキャラクター作りが出来ていて、それが音楽劇を理解し味わうのをおおいに助けていたと思う。カリスト=中山美紀(ソプラノ)は、ジョーヴェ=坂下忠弘(バリトン)にだまされてしまうのだが、ジョーヴェがディアナに変身した際に坂下はファルセットでディアナを演じきっていた。場合によっては変身した後はディアナ役の歌手と入れ替わることもあるわけだが、今回はジョーヴェの歌手がそのまま声域を変えて歌ったわけである。また、坂下は若いのでフレッシュなジョーヴェで、一年前に観たスカラ座の《カリスト》ではジョーヴェはベテラン歌手だったのと対照的だった。ベテラン歌手も神々の王ジョーヴェらしくて良いのだが、清新なジョーヴェも次々に女性・ニンフに惹かれる若々しさが自然な感じでよかった。ディアーナの中川詩歩(ソプラノ)、エンディミオーネの新田壮人(カウンターテナー)のやりとりもしっとりとした叙情的表現が素晴らしかったが、とりわけ新田の声の響き渡る声は嬉しい驚きだった。彼の舞台は何度か観ているが今回歌手としての器が一回り大きくなった感がある。ジョーヴェについてくるメルクーリオは中嶋克彦、ジョーヴェの妻ジュノーネは野間愛。ディアーナに仕えるニンフのリンフェアはカウンターテナーの真弓創一。コミカルな役どころをよくこなし、会場を何度も沸かせていた。リンフェアと掛け合いのある森の三人がパーネの田尻健、シルヴァーノの松井栄太郎、サティリーノの彌勒忠史。

以上の全員が歌唱の部分のみならず、レチタティーヴォの部分まで実に劇の表情を効果的に伝えていて、だから劇として観ていて退屈しないのだった。

実はこれには、隠し味的な工夫もあって、指揮の濱田がプログラムに書いているのだが、彼はかなりカヴァッリのスコアに手を入れている。この時代のスコアで、オーケストレーションが不完全でたとえば木管楽器のパートを補う必要があったり、アリアの部分でオブリガート的な弦楽パートを付加したりというのは通常行われることだろう。それだけではなく、カヴァッリと同時代の作曲家バルトロメオ・デ・セルマ・イ・サラヴェルデやピアージョ・マリーニ、フィリッポ・ファン・ヴィッヒェル、マリーニなどなど数多くの作曲家の曲を挿入し、かつカヴァッリのオリジナルをきめ細かくカットしたという。そのせいか、以前に聴いた時より、音楽が色彩に富み、表情の変化に富んでいると感じた。これも濱田の聴衆を楽しませる工夫なのだと思う。

前半と後半に別れた上演(リブレット的には3幕構成)。後半の始まりには、例の森の3人の日本語での掛け合いの漫談があって笑いをとっていた。

こうした数多くの工夫により、《カリスト》は実に生き生きとしたエンターテイメントに仕上がっており、なおかつ17世紀オペラの音楽様式の自由闊達さを深く感じさせる上演となっていた。

実にレベルの高い上演で慶賀すべきことだ。

 

 

 

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カヴァッリ《カリスト》その1(作品について)

フランチェスコ・カヴァッリ作曲のオペラ《カリスト》を観た(川口、リリアホール)。

大いに楽しめた。音楽的にも演出的にも見事な演奏・演出で、それと相まって芝居の展開、ストーリーもすっと頭に入るし、会場はたびたび笑いにつつまれた。

モンテヴェルディやカヴァッリのオペラは、まだオペラ・セリアやオペラ・ブッファに分化する前の時代なので、一つのオペラにセリア(シリアス)な要素とブッファ(コミカル)な要素が共存している。リブレット(台本)を書いたのはジョヴァンニ・ファウスティーニだが、今回、つくづくよく出来た台本だと思った。台本レベルで考えると、このオペラには3つのグループがある(それらは劇の進展とともに混じり合っていくのだが)。

1つは、ジョーヴェとカリストである。神々の王ジョーヴェがニンフのカリストを見そめ、口説くためにディアーナに変身する。

2つは、月の女神ディアーナとそれに憧れ熱い心を寄せる羊飼いのエンディミオーネ。

3つめは、森に住み性的欲望をかなり露骨にしめすパーネ(牧神パン)、シルヴァーノ、サティリーノの三人。

1と2は、1のカリストが2のディアーナにお仕えするニンフであること、ジョーヴェがディアーナに化けることで連関している。2と3はパーネがディアーナに恋い焦がれているがディアーナは拒絶することで絡み合う。2と3は、ディアーナとエンディミオーネがドラマの進展とともに相思相愛となるのを知って、パーネが激しく嫉妬することで絡む。

テーマとして、表に出てきて一番わかりやすいのは、カスティタ(貞節・純潔)とその崩壊である。

大前提として月の女神ディアーナは純潔で、それに付き従うニンフのカリストやリンフェアも純潔でなければならない。しかし1で述べたようにカリストはジョーヴェがディアーナに変身したため疑うことを知らずディアナ(実はジョーヴェ)のキスを受け入れ、性の喜びに目覚めてしまう。ディアーナはディアーナで、月をあがめる羊飼い兼天文学者のエンディミオーネの情にほだされ仲良くなってしまい、それを知ったニンフのリンフェアも自分も恋人が欲しいと言い出す。そこへ出てくるのは3の連中で、彼らは露骨に(演出によっては性器を丸出しにしている場合もあるのだが、今回は下半身に毛むくじゃらのパンツをはかせることで獣性を表現していた)リンフェアを誘惑するが彼女は拒絶する。

1,2,3のレベルで純潔から情欲へというテーマがある。が、その一方でエンディミオーネのディアーナを恋い焦がれる気持ちは純粋である。彼は羊飼いであると同時に天文学者であるのが興味深い。この時代、前世紀にコペルニクスやガリレオやティコが出てきて、宇宙観が大きく揺らいだ時代である。

ジョーヴェの妻ジュノーネの嫉妬をかい、カリストは復讐の女神フーリエによって熊に姿を変えられる。ジョーヴェですらそれをもとにもどすことは出来ないがその代わりに、カリストを星にして永遠の存在にして幕となる。とってつけたようではあるものの、愛の天上性、永遠性が讃えられて終わることになる。

劇の進行に沿ってみれば、愛の天上性、永遠性が一貫してほめたたえられているのではなく、劇の展開部ではむしろエロス的な要素が大いに活躍しているわけである。この両者が拮抗・バランスしていて、音楽的にも叙情的だったり、下世話だったりする変化の妙が楽しくもあり、聴きごたえのあるところでもある。

 

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