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2023年1月 4日 (水)

ブッツァーティ著長野徹訳『ババウ』

ディーノ・ブッツァーティ著長野徹訳『ババウ』(東宣出版)を読んだ。

帯にあるように、今年はブッツァーティ没後50周年で、その50周年を記念した出版の第二弾である。ブッツァーティは1906年生まれで1972年に亡くなってるから、英文学で言うとW.H.オーデンやルイ・マクニース(いずれも1907年生まれ)でオーデンは73年没なので、生没年がちょうど一年違いということになる。

本書の原著は1971年に出版され、その前半の26篇を訳出したものとのこと。7,8ページから12ページ程度の短編が連ねられている。短くはあるが、星新一のショートショートがそうであるように、時空を越えた設定がアレゴリ−として作用し、いつ読んでも興味深い。ただし、ブッツァーティは、星新一より、時代の風潮についている印象を受ける。これらの短編の初出が日刊紙コリエーレ・デッラ・セーラであったことも影響しているかもしれない。

 自動車が庶民に身近になったのもこの頃らしく自動車をめぐるいくつもの短編がある。ブッツァーティらしくそれが死やカタストロフィーから逆照射されているようなストーリーが多い。
 「セソストリ通りでは別の名で」は、アイデンティティのすり替え、入れ替えが鮮やかで、あの時代ならではであると同時に、自分もあるアイデンティティを演じているだけではないかと刺さってくる。
 「ブーメラン」は風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな話だけど、それで核戦争が始まるというところが大仰でもある。が、今のわれわれにとっては笑い飛ばせる話ではない。
「名声」も、医者の大先生の名声のために、誤信を真実に化けさせるために人が殺されねばならないという不条理ですが、不思議の国のアリスのトランプの女王を想起させられる。判決が先でというあれ。
 「書記たち」は締め切りに追われて人が仕事が終わってもひたすら書かねばならないという身の嘆きかと思った。小説自体では、書記たちが大勢いて、ある人のタイプライターがカチっと音をたて、キーボードに赤いランプが点いたら、それはわれらが主に召集されたことになり、休みなく書き続けねばならないのだ。
 「隠者」の逆説と逆転は痛快・痛烈。悪魔にまんまとだまされたかと思いきや、悪魔も思い通りにはいかず。
 死を話の枠組みにしっかり組み込んだストーリが多いのだが、こちらもこれを書いた時のブッツァーティと年齢が近いせいかピンとくる。
 それと、ブッツァーティの登場人物は、大学の教師とか、弁護士、医師とか結構インテリ層が多いのが日本の小説と違っているが親しみがもてる点でした。漱石の時代は別として、ある時から日本の小説やドラマ、映画からインテリが排除されている傾向が大きいように思えるが、それは小説なりドラマなり映画なりの世界を狭くしているように思う。ブッツァーティはインテリを礼賛しているわけではない。むしろ逆である。そこに諧謔味があり、笑えるのである。

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