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2023年1月31日 (火)

佐藤唯行『英国のユダヤ人』

佐藤唯行著『英国ユダヤ人』(講談社選書メチエ)を読んでいて、興味深いことがいくつもあったので、記していく。

1.まず儀式殺人告発という耳慣れない言葉が出てくるが、これはユダヤ人がキリストの受難を冒瀆する儀式を行うために、キリスト教徒の幼子を誘拐し磔刑にして殺害するという、いわれなき虚偽の告発であった。この手のユダヤ人に対する告発の最初期の例として1144年のノリッジの事件が詳しく紹介されている。

 そこから判明するのは、告発した者のほとんどすべてがノリッジ修道院関係者だということで、筆者によれば、中世においては聖者や聖遺物が修道院の運営・経営面で重要で、この犠牲になった子どもは聖人となり、奇跡が起こるのをもとめてノリッジ修道院を訪れる巡礼者が爆発的に増加したという。

 また、12世紀英国の修道院のなかにはユダヤ人の金融に多額の債務を負うところも少なくなく、この債権を一掃する手段として儀式殺人告発を行ったところもある(ベリ・セント・エドモンズ修道院)。

2.この話を読んで、イタリアでもユダヤ教徒が、キリスト教徒の幼子を誘拐して殺してしまうという都市伝説?がが昔からあったというのは Corriere della Sera 誌などで何度も目にして不思議だと思っていたのだが、これで納得がいった。ユダヤ教徒は、どこの国でもほんの数パーセントの住民にすぎないので、ある国の通史のなかでは、こぼれ落ちてしまいがちで、たまたま有名な音楽家なり文学者なり哲学者なりがユダヤ人あるいはユダヤ系あるいは改宗ユダヤ人だったりするとそのことは言及されるわけだが、中世からの通史として捉えることがなかなか出来ていなかったことに思い至った。

3.英国に最初に渡ってきたユダヤ人はノルマン・コンクウェストの際に渡来したのだという。特にルーアンからが多かった。史料的に実証できるのはヘンリー1世時代(1100−35)からだという。その人口は決して多くはなく、ロンドンでさえ最盛期の推定人口は450人ほど。

4.ユダヤ人の金融活動は、国王が臣民に対して間接的な搾取を行う手段なので、常に国王の強力な保護のもとにある。彼らは地方では国王の代理人である州長官(シェリフ)の本拠、州都に住んだ。だからこの時期にはゲットーはなく、ユダヤ人とキリスト教徒が混じりあって住んでいた。ユダヤ人の職業として目立つのは金融業者と医師である。彼らは当時最高水準のアラビア医学の文献が12世紀にスペインのユダヤ人によりヘブライ語に翻訳されていたのでその知識を得ることが出来た。ラテン語訳が出来るより前だったのだ。

5.ユダヤ人に課される税には四種類があった。(1)相続上納金(リリーフ)。(2)財産没収(エスチート)(3)冥加金(ファイン)(4)恣意税(タレッジ)である。特に恣意税は王権にとって重要な財源であったので、ユダヤ人コミュニティーの連帯責任で支払い責任を負った。恣意税は、ユダヤ人社会が所有する債権の額に応じて賦課されたので、国王は債権の金額を正確に把握する必要があった。そのため英国ではユダヤ人財務府というものを創設した。この組織は同時代のヨーロッパ大陸には見られないものである。13世紀には27の都市にユダヤ人財務府の地方支部としてユダヤ人債権登録庫(アルカ)が存在していた。各債権登録庫にはキリスト教徒、ユダヤ人各2人の書記がいて、証書の作成に立ち会い、完全に同一の証書を二通作成し、1通は債権者(ユダヤ人)が保管し、もう1つは債権登録庫に納められた。こうしてユダヤ人の金融業務は国王政府が把握し、搾取の源泉となったかわりに、国王は彼らの保護者となった。

6.ユダヤ人金融業者から借金をするのは騎士・小諸侯であったが、彼らがその借金を払えなくなると貸方のユダヤ人は土地抵当を現金化したが、その買い手は大諸侯・修道院だったので、ユダヤ人金融は結果的に、大諸侯・修道院への土地集積の媒介となった。

長くなったので以下、次項へ続く。



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2023年1月 4日 (水)

ブッツァーティ著長野徹訳『ババウ』

ディーノ・ブッツァーティ著長野徹訳『ババウ』(東宣出版)を読んだ。

帯にあるように、今年はブッツァーティ没後50周年で、その50周年を記念した出版の第二弾である。ブッツァーティは1906年生まれで1972年に亡くなってるから、英文学で言うとW.H.オーデンやルイ・マクニース(いずれも1907年生まれ)でオーデンは73年没なので、生没年がちょうど一年違いということになる。

本書の原著は1971年に出版され、その前半の26篇を訳出したものとのこと。7,8ページから12ページ程度の短編が連ねられている。短くはあるが、星新一のショートショートがそうであるように、時空を越えた設定がアレゴリ−として作用し、いつ読んでも興味深い。ただし、ブッツァーティは、星新一より、時代の風潮についている印象を受ける。これらの短編の初出が日刊紙コリエーレ・デッラ・セーラであったことも影響しているかもしれない。

 自動車が庶民に身近になったのもこの頃らしく自動車をめぐるいくつもの短編がある。ブッツァーティらしくそれが死やカタストロフィーから逆照射されているようなストーリーが多い。
 「セソストリ通りでは別の名で」は、アイデンティティのすり替え、入れ替えが鮮やかで、あの時代ならではであると同時に、自分もあるアイデンティティを演じているだけではないかと刺さってくる。
 「ブーメラン」は風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな話だけど、それで核戦争が始まるというところが大仰でもある。が、今のわれわれにとっては笑い飛ばせる話ではない。
「名声」も、医者の大先生の名声のために、誤信を真実に化けさせるために人が殺されねばならないという不条理ですが、不思議の国のアリスのトランプの女王を想起させられる。判決が先でというあれ。
 「書記たち」は締め切りに追われて人が仕事が終わってもひたすら書かねばならないという身の嘆きかと思った。小説自体では、書記たちが大勢いて、ある人のタイプライターがカチっと音をたて、キーボードに赤いランプが点いたら、それはわれらが主に召集されたことになり、休みなく書き続けねばならないのだ。
 「隠者」の逆説と逆転は痛快・痛烈。悪魔にまんまとだまされたかと思いきや、悪魔も思い通りにはいかず。
 死を話の枠組みにしっかり組み込んだストーリが多いのだが、こちらもこれを書いた時のブッツァーティと年齢が近いせいかピンとくる。
 それと、ブッツァーティの登場人物は、大学の教師とか、弁護士、医師とか結構インテリ層が多いのが日本の小説と違っているが親しみがもてる点でした。漱石の時代は別として、ある時から日本の小説やドラマ、映画からインテリが排除されている傾向が大きいように思えるが、それは小説なりドラマなり映画なりの世界を狭くしているように思う。ブッツァーティはインテリを礼賛しているわけではない。むしろ逆である。そこに諧謔味があり、笑えるのである。

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