デ・カヴァリエーリ作曲《魂と肉体の劇》
デ・カヴァリエーリ作曲のオラトリオ(あるいはオペラ)《魂と肉体の劇》を観た(両国、シアターX)。
シアターXと書いてシアターカイと読む。両国は相撲の国技館のある両国であるが、シアターXがあるのは、総武線を挟んで国技館とは反対側だ。入り口が大通りから少し入るので初めての時には注意が必要かも知れない。
劇場は、こぢんまりとしていてバロック・オペラにはふさわしい。収容人数は100−300人程度に可変のようだ。11月6日(日)は満員であった。《肉体と魂の劇》は、1600年の聖年に、宗教劇として作曲された音楽劇であり、一般のクラシックファンにとって有名とは言いがたい作品だが、これが満員になったのはまことに喜ばしい。
作曲家のカヴァリエーリは、フィレンツェのオペラ揺籃期にフィレンツェにいてオペラ上演にも深く関わった人物である。1600年はカトリック教会の定めた聖年であり、それを記念して、当時フィリッポ・ネーリが創設したオラトリオ会で宗教音楽劇を上演したのがこの《魂と肉体の劇》である。だから、音楽と演劇の関係からすれば、フィレンツェのオペラとまったく同様で、モノディー様式でかつ通奏低音も用いられ、この作品をオペラと分類することが可能で近年の研究者はそう捉える人が多い。従来は、内容が宗教的であり、教会で初演されたことなどからオラトリオと分類されていたのだ。しかし分類というものはそもそも便宜的なものであり、基準次第でその境界線がずれることは十分ありうるわけでこれもその一例と言えよう。
この作品では登場人物は、魂や肉体、快楽、時、現世といった概念だ。つまりアレゴリーが登場人物の寓意劇である。魂と肉体がカップルになっていてこのカップルは、現世の空しさを聞かされたり、逆に現世の魅惑に惑わされたりし、最後には天国に行くためには現世的な魅惑ではなくて、もっと大事にすべきものがあるという教訓がある、そういった劇だ。この音楽劇が上演された場所と時代からわかるように、これは極めて対抗宗教改革(カトリック改革)の中で、その方向性を反映させて作られた作品で、リブレットはアゴスチーノ・マンニの文から取られたのだが、マンニはフィリッポ・ネーリの弟子であり司祭になった人である。
作曲家のカヴァリエーリは先述のように、フィレンツェでオペラができかかっている時期にあのバルディのカメラータに出入りをしていた。メディチ家の当主フェルディナンドが、もともとローマで枢機卿であったのだが、兄の死去によって、還俗して当主となりフィレンツェに帰った。カヴァリエーリはフェルディナンドのおぼえがめでたく、フィレンツェに招かれメディチ家の芸術活動の責任者に任命されたのである。という事情から想像されるように、もともとフィレンツェにいた音楽家・詩人連中からすると面白くない存在であったらしい。
今回の上演は古楽アンサンブル・エクス・ノーヴォによるものだが、彼らは今年5月には1589年にカヴァリエーリが総監督をつとめた《ラ・ペッレグリーナ》のインテルメディオを演奏している。カヴァリエーリはこの頃からレチタール・カンタンド(歌いながら語る)の可能性をさぐっていたわけで、《魂と肉体の劇》(1600年上演)には約10年の隔たりがあるわけで、その間にモノディー様式や通奏低音の使用法に習熟していったのだろう。
エックス・ノーヴォの上演では前回もプログラムが充実していたが、今回も萩原里香氏、長岡英氏による解説は大変充実したものだ。
オケはヴァイオリン、リラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、テオルボ、コルネット、トロンボーン、チャンバロ、オルガンによるもので、一人二役の人も4人いた。やはりこういう作品はピリオド楽器の響きが似つかわしい。
演出は井田邦明で、この日の演出は素晴らしかった。長年イタリアで活躍し、オペラの演出もてがけてこられた井田氏の薫陶をうけ、この日の歌手たちは一つ一つの動きに血が通い、動きの意味、表情も明確だった。舞台装置は簡素だが、衣装も洗練され、身振りや動きとあいまって、この宗教的な内容を雄弁に語っていた。
音楽的にも演劇的にも大いに充実した舞台だった。肝心の劇のメッセージに関しては、言いたいことは判るのだが、現世的な欲望に囚われている自分を認識するものの、それではそういった欲望を捨て去ろうという気になれないのであった。こうして悟ることはできないにしても、自分の愚かさを鏡で映し出すのは悪いことではないかもしれない。
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