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2022年11月13日 (日)

《魂と肉体の劇》のリブレット

前項で書いたように《魂と肉体の劇》をシアターXで観たのだが、そのリブレットの特徴について書いておこう。

リブレットはアゴスティーノ・マンニによるもので、この人は1547年にローマでフィリッポ・ネーリ(オラトリオ会の創設者)を知り、弟子となって後にはオラトリオ会の長(prefetto) となっている。説教が上手で評判だった。

このリブレットは序(Proemio) と3幕から成っている。序の部分はAvveduto とPrudenzio という二人の若者の散文による会話。現世の様々な誘惑や欲望をどう考えるべきか、といった内容。

第一幕になると Tempo (時)が出てきて、現世の物事の空しさを説く。合唱や知性も出てくる。第四場になってCorpo (肉体)とAnima (

魂)が登場する。第一幕は冒頭からずっと rima baciata (カプレット)で書かれている。行末が2行ずつ韻を踏んでいて、aabbcc...

という形をとっている。一行の音節数はわずかな例外を除き7音節である。

第一幕第四場で肉体と魂が出てくるところは、それぞれが3行ずつの台詞を交わすのだが、そのうち2行目と3行目が rima baciata になっている。ここもやはり1行は7音節である。続く第5場は合唱だが、1行11音節と7音節が交錯し、韻もabab のような交差韻となっている。11音節と7音節が使用されるのは、16世紀の牧歌(劇)によく見られるパターンである。

第3幕になると今度は1行8音節で rima baciata が頻出する。1行8音節の二行連句を連ねてこのオペラは終わる。

8音節の部分ではリトルネッロ付きのダンスを踊りながらの進行となっている。明らかに音楽的性格にあわせて詩の音節数も選ばれているものと思われる。

 

 

 

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2022年11月 9日 (水)

デ・カヴァリエーリ作曲《魂と肉体の劇》

デ・カヴァリエーリ作曲のオラトリオ(あるいはオペラ)《魂と肉体の劇》を観た(両国、シアターX)。

シアターXと書いてシアターカイと読む。両国は相撲の国技館のある両国であるが、シアターXがあるのは、総武線を挟んで国技館とは反対側だ。入り口が大通りから少し入るので初めての時には注意が必要かも知れない。

劇場は、こぢんまりとしていてバロック・オペラにはふさわしい。収容人数は100−300人程度に可変のようだ。11月6日(日)は満員であった。《肉体と魂の劇》は、1600年の聖年に、宗教劇として作曲された音楽劇であり、一般のクラシックファンにとって有名とは言いがたい作品だが、これが満員になったのはまことに喜ばしい。

作曲家のカヴァリエーリは、フィレンツェのオペラ揺籃期にフィレンツェにいてオペラ上演にも深く関わった人物である。1600年はカトリック教会の定めた聖年であり、それを記念して、当時フィリッポ・ネーリが創設したオラトリオ会で宗教音楽劇を上演したのがこの《魂と肉体の劇》である。だから、音楽と演劇の関係からすれば、フィレンツェのオペラとまったく同様で、モノディー様式でかつ通奏低音も用いられ、この作品をオペラと分類することが可能で近年の研究者はそう捉える人が多い。従来は、内容が宗教的であり、教会で初演されたことなどからオラトリオと分類されていたのだ。しかし分類というものはそもそも便宜的なものであり、基準次第でその境界線がずれることは十分ありうるわけでこれもその一例と言えよう。

この作品では登場人物は、魂や肉体、快楽、時、現世といった概念だ。つまりアレゴリーが登場人物の寓意劇である。魂と肉体がカップルになっていてこのカップルは、現世の空しさを聞かされたり、逆に現世の魅惑に惑わされたりし、最後には天国に行くためには現世的な魅惑ではなくて、もっと大事にすべきものがあるという教訓がある、そういった劇だ。この音楽劇が上演された場所と時代からわかるように、これは極めて対抗宗教改革(カトリック改革)の中で、その方向性を反映させて作られた作品で、リブレットはアゴスチーノ・マンニの文から取られたのだが、マンニはフィリッポ・ネーリの弟子であり司祭になった人である。

作曲家のカヴァリエーリは先述のように、フィレンツェでオペラができかかっている時期にあのバルディのカメラータに出入りをしていた。メディチ家の当主フェルディナンドが、もともとローマで枢機卿であったのだが、兄の死去によって、還俗して当主となりフィレンツェに帰った。カヴァリエーリはフェルディナンドのおぼえがめでたく、フィレンツェに招かれメディチ家の芸術活動の責任者に任命されたのである。という事情から想像されるように、もともとフィレンツェにいた音楽家・詩人連中からすると面白くない存在であったらしい。

今回の上演は古楽アンサンブル・エクス・ノーヴォによるものだが、彼らは今年5月には1589年にカヴァリエーリが総監督をつとめた《ラ・ペッレグリーナ》のインテルメディオを演奏している。カヴァリエーリはこの頃からレチタール・カンタンド(歌いながら語る)の可能性をさぐっていたわけで、《魂と肉体の劇》(1600年上演)には約10年の隔たりがあるわけで、その間にモノディー様式や通奏低音の使用法に習熟していったのだろう。

エックス・ノーヴォの上演では前回もプログラムが充実していたが、今回も萩原里香氏、長岡英氏による解説は大変充実したものだ。

オケはヴァイオリン、リラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、テオルボ、コルネット、トロンボーン、チャンバロ、オルガンによるもので、一人二役の人も4人いた。やはりこういう作品はピリオド楽器の響きが似つかわしい。

演出は井田邦明で、この日の演出は素晴らしかった。長年イタリアで活躍し、オペラの演出もてがけてこられた井田氏の薫陶をうけ、この日の歌手たちは一つ一つの動きに血が通い、動きの意味、表情も明確だった。舞台装置は簡素だが、衣装も洗練され、身振りや動きとあいまって、この宗教的な内容を雄弁に語っていた。

音楽的にも演劇的にも大いに充実した舞台だった。肝心の劇のメッセージに関しては、言いたいことは判るのだが、現世的な欲望に囚われている自分を認識するものの、それではそういった欲望を捨て去ろうという気になれないのであった。こうして悟ることはできないにしても、自分の愚かさを鏡で映し出すのは悪いことではないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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2022年11月 3日 (木)

ヘンデル作曲《シッラ》

ヘンデル作曲のオペラ《シッラ》を観た(桜木町、神奈川県立音楽堂)。

実に素晴らしい上演だった。歌手よし、オケよし、演出よし、何も言うことはない。指揮のビオンディもすみずみまで心を行き渡らせながら、かといってエッジがなまることのない心地よく生き生きとしたテンポ、リズムで音楽を運んでいた。

このオペラの上演は、2020年3月に上演が予定されておりながら、しかも3日前の2月26日まで練習が進められておりながら、コロナ禍のため直前に中止となった(この点では新国立劇場の《ジュリオ・チェーザレ》と酷似している)。

そのキャンセルされた公演の前には、日本ヘンデル協会によるレクチャーがあり、諏訪羚子氏の対訳、三ヶ尻正氏の解説のついたリブレットが販売されていた。今回の上演の二週間ほど前に、ネット上でもミン吉さんのサイト「オペラ御殿」(オペラ・ファンにはつとに知られたサイトである)でも《シッラ》についての解説と、要所要所に文法的、語法的解説のついた対訳がアップされた。さらには、今回の上演はNHK・BSで来年の1月に放送されるとのことで、三種類目の日本語字幕が参照できることになる。これはバロック・オペラとしては、モンテヴェルディなど一部を除いて希有なことだと思う。

今回の上演では何といっても声の競演が素晴らしかった。解説にもあるように《シッラ》はおそらくは興業用ではなく、オケージョナルな上演を目指していて、社会情勢が変わったためそのオケージョナルな上演がおそらくは中止になってしまったとのこと。これは以前に当ブログで紹介したマッテゾンの《ボリス・ゴドノフ》でも生じたケースである。そのせいかアリアの配置・数が均等に近い感じがした。どの歌手にもそこそこアリアの数が割り振られていて見せ場、聴かせどころがある。

今回の歌手は粒ぞろいでレベルが極めて高いことは言うまでもないのだが、声質のヴァラエティにも富んでいる。ソニア・プリーナとヴィヴィカ・ジュノーはヴェテランだし知名度も高いが、自分のスタイルを持っていてそれで聴かせる。二人とも叙情的な部分とアジリタ(早い敏捷的な動きを見せるパッセージ)の使いわけも見事。それに対し、ロベルタ・インヴェルニッツィとフランチェスカ・ロンバルディ・マッズーリは模範的に端正かつ上品な歌い方で、これはこれで見事なものだった。かつての名歌手で言えば、デル・モナコやディ・ステーファノのような個性的名歌手と、ベルゴンツィのような模範的に端正な名歌手といったところである。そういう2つのタイプの名歌手たちが勢揃いして入れ替わり立ち替わりヘンデルの様々なタイプのアリアを歌ってくれ、時には二重唱まであるのだから、贅沢の極みである。クラウディオを歌ったヒラリー・サマーズという人はアルトなのだが、不思議な声質の人で、ファルセットのような響きがするのだったが、とても体格がよく上背のある人で舞台映えがした。メテッラ役のスンヘ・イムは、軽めの声であるが、劇的な場面での声の表情づけが巧みだった。

ビオンディは指揮兼ヴァイオリンの弾き振りで、手兵とも言うべきエウローパ・ガランテのメンバーとは目線を交わすだけで以心伝心、しかも楽員の自発性が感じられる実に好ましい演奏。オケは19人で、編成も弦楽器以外は、チェンバロ、小ぶりなテオルボ、リコーダーとオーボエの持ち替え、トランペット、ファゴットといったシンプルな編成だが、たとえばオーボエからリコーダーに変わると、やはり曲想にぴったりの変化でその巧みさに舌を巻く。オケの表情は劇的になったり叙情的になったり自由自在で、生き生きしたテンポ、リズムで実に音楽的に心地よく納得のいくものだった。

演出および舞台衣装は、歌舞伎にインスピレーションを得たものであることは、上演前のビオンディ・弥勒対談で弥勒氏が述べていた通り。ソニア・プリーナやヴィヴィカ・ジュノーの男役は実に決まっていて愉快だった。むしろ女性役の方がスンヘ・イムを除いては、気の毒な気がした。異性装の方が舞台映えがしたのである。ひょっとするとそれは観客であるわれわれは、日本に暮らしているので、専門家でなくてもある程度、着物を見慣れていることにも原因があるのかもしれない。主人公のシッラは悪役(つぎつぎに人妻にも、婚約者のいる女性にも権力をかさにきて迫る)なのだが、それにふさわしくソニア・プリーナは歌舞伎の悪役風の藍隈取りをしていてそれが決まっていたのだ。ヴィヴィカ・ジュノーは善良な人物の役で、それにふさわしくエレガントな立ち居振る舞いで、アジリタの超絶技巧だけでなく、演技でもおおいに感心した。最後のエクス・デウス・マキナは、天井から布を伝って女性がサーカスのように空中で舞う趣向で表現されていて、スペクタクルな要素がやや乏しい舞台に花を添えた。

神奈川県立音楽堂は、舞台は狭いのであるが、舞台中央に鳥居を抽象化したような赤い門が左右に複数あり、その間から神が登場した。また客席からみて左手にやや張りだした部分があって、そこでアリアや二重唱を歌わせるのも巧みな工夫であった。

悪役のシッラは、最後海で遭難し妻に助けられて突然改心する。その突然さの前後の練り具合がやや弱いのだが、おそらくこれは、急いで作曲されたのであろうし、また、リブレットにも原作がないことにも起因しているかと思う。ヘンデルのオペラではしばしばヨーロッパ大陸で上演されたものを、黙って改作してそれを上演台本にしていることがあるのだが、《シッラ》の場合は、それがないのだ。

バロック・オペラならではの歌の競演、超絶技巧の披露、敏捷なオケの変わり身の見事さを堪能した。これほどの音楽性の高みを味わえるオペラ上演は、ヨーロッパでもそう多くはないと思う。会場の神奈川県立音楽堂も、バロック・オペラ上演にちょうどよい大きさだ。観客にも大いに受けていた。

幾多の艱難を乗り越えてこの上演を実現してくれた関係者の皆さんに心から感謝。

 

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