ヘンデル《ジュリオ・チェーザレ》
ヘンデル作曲のオペラ《ジュリオ・チェーザレ》を観た(初台、新国立劇場)。
新国立劇場のシーズンにおいてバロック・オペラを上演するのは初めてのことであり快挙であり慶賀すべきことであると思う。
今後も、こうした上演が毎年継続する(今のところ1年おきの予定という人もいる)ことを切望する。
しかもこの《ジュリオ・チェーザレ》は、2020年4月に上演予定で、指揮者アレッサンドリーニも来日して舞台稽古を進めていて上演間近でコロナ禍のために上演中止となった経緯は、新国立劇場の提供する Youtube で今も見ることが出来る。その苦難を乗り越え、チェーザレ役の歌手は交代しているが、しっかりとした舞台装置つきで、上演にこぎつけた関係者に敬意を表したい。
ここ20年ほど、ヨーロッパでは特に夏の音楽祭などではバロック・オペラを上演することが珍しくなくなっている。ここ数年ではパリのオペラ座やミラノのスカラ座でもバロック・オペラ上演を開始していたので、新国立劇場がそこに加わり、上演演目の幅が広がり、観客の楽しみが多様になることは意義深いと思う。
演出および舞台装置は、古代エジプト美術を所蔵する博物館が舞台で、そこにチェーザレ(カエサル)やクレオパトラの霊が現れるという設定となっている(この設定はもともとのリブレットにはないが、近年のオペラ演出でそれは珍しいことではない)。博物館員としてモック役(黒子)が活躍する。
少し驚いたのは、コントラバス奏者が4人いて、オケが重々しかったことだ。重厚な響きになるし、軽やかに舞うという感じは乏しくなる。このオーケストラ編成は、常設の歌劇場でそこに付属オーケストラがある場合、ヨーロッパでも対処に苦労している問題の1つのようだ。音楽祭の場合は、バロック専門の小規模な管弦楽団を指揮者が連れてくるのが普通である。その場合、実に様式的には好ましい響きがするのだが、音量的には大音量とはいかない。歌劇場付きの管弦楽団が存在している場合、どういう編成のオケで演奏するのかはケースバイケースである。
1. 歌劇場付属のオケがピリオド奏法(古楽器風にヴィヴラート少なめ、フレーズの終わりを短めに演奏する)で演奏する。
2.歌劇場付属のオケと古楽器演奏者の混成
今回の上演では歌劇場専属ではないがレギュラー的な存在となっている東京フィルハーモニー交響楽団に、古楽器を専門とする通奏低音奏者が加わっていたので2の形に近いと言えるだろう。そのため、通常の古楽専門のグループではありえないほどコントラバスやチェロの数が多く、重厚な響きとなっていたわけだ。このことから推測出来るように、第一幕ではリズムもやや歯切れが悪かったのだが、これは第二幕以降随分改善された。
歌手はチェーザレ役のマリアンネ・ベアーテ・キーランドは、古楽にふさわしい清らかな歌唱法であったが、ドラマティックな曲想のところでは声量が十二分とまでは言えず、迫力に欠けるうらみがあった。その一方、クレオパトラ役の森谷真理は、声量豊かに響いていたが、歌唱のスタイルとしてはバロック歌唱とは言いがたい。というわけで、歌唱の様式の統一感はなかったがそれは無いものねだりというものだろう。ヨーロッパで聞いていても、やはりふだん19世紀以降のオペラを歌っている人は声量は大きいのである。楽器でも同様で、一番判りやすいのは鍵盤楽器のチェンバロとピアノの相違だろうか。チェンバロの方が繊細なニュアンスが出しやすいのだが、絶対的な音量はピアノの方がはるかに大きい。イタリアの音大では、すでに学部段階からオペラの声楽科と古楽の声楽科は別れているという。
オーケストラの人数が多くて音量が大きいと、バロック歌唱でそれに対抗するのはつらいかと思う。古楽のオケは大抵20人から30人程度である。ということもあって、ヨーロッパでも音楽祭では小さめのホールが選択され、オケの人数も少ないのだ。だから、パリのオペラ座やミラノ・スカラ座でバロック・オペラを上演する場合、オケをどうするかということと、歌手の声量をどう考えるかという二つの問題に対処しなければならないわけである。
以上のような課題があるにせよ、新国立劇場でバロック・オペラが上演されることの意義は大きいと思う。実際、今まで19世紀以降あるいはモーツァルト以降のオペラにのみ親しんできた人が、今回の上演ではじめてヘンデルのオペラに接したという人も少なくなかったようだ。バロック・オペラの面白さ、愉しさ、音楽的な豊かさに気づく人が多くなり、日本でのバロック・オペラ上演が盛んになることを期待したい。
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