ソーニャ・ルニェ・リサイタル
アルト歌手ソーニャ・ルニェのリサイタルを聴いた(バイロイト、シュロス教会)。会場は電気による照明はなく、全て蝋燭による灯り(譜面台のところだけは例外)。
プログラムは全てボノンチーニ。ソロ・カンタータの間にトリオ・ソナタやディヴェルティメントといった器楽曲がはさまれている。
バイロイトのバロック・オペラ・フェスティバルは全体で一冊のプログラムがあり、オペラは対訳のリブレットが付き、演奏者の紹介があり、楽曲についての解説もある。この日の演目についてもカンタータ全般とボノンチーニについての解説が(ドイツ語と英語で)あるので、かいつまんで紹介しよう。
カンタータと言えばブクステフーデやテレマン、そして誰よりバッハと連想が結びつくが、実は長い歴史があるために簡単な定義はしにくい。カンタータは1630年代のイタリアで発達し、室内楽プラス声という感じで作られた。
ジャンルとしては1620年にアレッサンドロ・グランディの曲集に言及があったという。ジョヴァンニ・ピエトロ・ベルティやモンテヴェルディは、Cantata a' voce sola (単声のカンタータ)と記していた。元々、室内楽的な需要を受けて作曲されたので、1人か2人の歌手プラス通奏低音、せいぜいそれに加えてヴァイオリン1丁という形が多かった。
バッハのようなフルオーケストラ、合唱付きというのはすぐれてドイツ・プロテスタント的現象とのこと。
イタリアでは1830年代に至るまで、カンタータは小規模の室内楽であり続けた。
17世紀末から18世紀初頭にかけて、カンタータは、レチタティーヴォ+アリアという形式が固まった。世俗カンタータでは、独唱のことも対話形式を取ることもある。カンタータがよく作られたのは、ヴェネツィア、フェッラーラ、ボローニャ、ナポリそしてローマである。ローマでは有力家系のオットボーニ家、ボルゲーゼ家、パンフィーリ家などがパトロンになって、カリッシミやチェスティ、ストラデッラやヘンデルにカンタータを作曲するよう注文したのだ。
ジョヴァンニ・ボノンチーニはソロ・カンタータの傑作を作っている。彼はボローニャで教育を受け、後にヴィーンの宮廷詩人となる台本作家のシルヴィオ・スタンピリアと知り合った。
ボノンチーニとスタンピリアの協力関係は何年も続いた。ヴィーンでも一緒の時期があるのだ。スタンピリアは牧歌で有名だった。文明に冒されていないのどかな田園を理想化して書いたのである。もちろん牧歌は古代からある文学ジャンルの1つでもあるわけだが。ボノンチーニはこういう伝統的形式に自然で伸びやかさ、自発的感情をのせつつ、メロディーや和声に創意工夫を凝らして独創性を発揮した。
フランチェスコ・ガスパリーニは1708年の著作でボノンチーニのカンタータを、特に装飾的なバス・ラインの創造性を指摘しつつ、激賞している。
彼のカンタータはそれまでカンタータの伝統の乏しかったパリでも愛好された。
ボノンチーニのカンタータのほとんどは消失したと考えられているが、彼がイギリスにいた時に、イギリス王ジョージ1世にカンタータ集を献呈していてそれが残っている。このカンタータ集には14作が収められているが、王のために作ったというわけではなく、すでにヨーロッパで作られたものを集めたものらしい。
当日のプログラム
前半
'Misero pastorello'
室内トリオ・ソナタ・ニ長調第3番
’Gia la stagion d'Amore'
ソナタ・イ短調
’Lasciami un sol momento'
後半
ディヴェルティメント 作品8
’O mesta tortorella`
室内ソナタ ホ長調第一番
’Siedi, Amarilli mia'
前半も後半も、最終曲’Lasciami un sol momento' と'Siedim Amarilli mia' が最もドラマティックな表情、アジリタを含む高度な技巧を要求する曲であった。が、その他の曲も、解説にあったように、チェロのラインが特徴的でメロディーとの対比で曲が立体的に動いていくのだった。伴奏の楽器はチェロ、リュート、チェンバロが基本で曲によってコントラバスが入ったり、1人または2人のヴァイオリンが入った。これだけで、実に多様な響きが展開されるし、抒情的な表情から劇的な表情まで自在に描き分けられるのは、ボノンチーニの作曲家としての技量が高いからだし、歌い手のソーニャ・ルニェの歌唱、Hofkapelle Munchenのチェリスト、Pavel Serbinの音楽性、技巧が相まってのことである。
改めてボノンチーニの曲をもっと聴いてみたくなる一夜だったが、この音楽祭ではオオトリにボノンチーニのオペラ《グリゼルダ》が控えており大いに楽しみである。
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