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2022年9月12日 (月)

《インドのアレッサンドロ》の演出について再び

《インドのアレッサンドロ》(辺境伯劇場、バイロイト)を3回観たというか観終えた時点で、この上演の演出についてもう一度考えてみたい。

演出は、マックス・エマヌエル・ツェンチッチである。この音楽祭の去年のオペラ、ポルポラの《カルロ・イル・カルヴォ》も彼の演出で、中世の史実に基づき自由に恋愛をまぶした物語を、20世紀前半のキューバに移して、王国の継承争いを、ボスの跡目争いに読み替えた演出だった。

今回も激しく読み替えている。

1.18世紀後半のイギリスのジョージ4世が皇太子かつ摂政だった時代に、ブライトンで貴族たちとさんざん馬鹿騒ぎをしており、その余興の出し物の一つとして、アレクサンダー大王とインド王ポーロの争いをお芝居にして見物しているという形だ。だから最後の場面では、アレッサンドロが召使いにお金を渡し、召使いは全ての登場人物にご苦労さんという形でそのお金を渡すという場面がある。典型的なメタシアター、劇中劇構造をとっているわけだ。

2.そのことから浮かび上がってくるのは、このオペラのインドへの視線が劇中内ではコロニアルな視線、劇中外の観客にとってはポストコロニアルな視線が前提とされていることである。劇中に、インドの女王クレオフィデがアレッサンドロに献上する宝物が、金色の男根、金色の抱擁する男女(神々?)が2組あってなかなか刺激的ではある。インドには、ミトゥナ像というシバ神と妃の像であったものがさらに男女の接合図で表現されたものがあるわけで、それへの言及とも言えるし、あまりに生殖器への強いこだわりは、イギリスから見たインドへのオリエンタリズム的要素もあると思われる。

3.このオペラ演出では、連続的にバレエが出てくる。ミュージカル的な演出とも言えるし、ボリウッドを始めとするインド映画のイメージの影響もあるだろう。見て飽きないオペラに仕上げたいという演出家の強い意志を感じる。

4.以上のことから、このオペラは元々オペラ・セリアなのであるが、演出としてはオペラ・ブッファ的要素が強く出たものとなっている。このオペラの台本を書いたメタスタジオは台本改革を推進した人物で、オペラセリアからブッファ的要素を除去したと言われるが、それは前の時代に比べての話であって、ブッファ的あるいはコミカルな要素が皆無ではない。今回の演出は、そのコミカルな要素を拡大、強調している。

5.コミカルな演出にしたのには、1740年以降再演が全くなかったこのオペラ・セリアを蘇演するにあたって、専門家だけでなく一般のオペラ愛好者に楽しめるものにしたい、興行的にも成功させたいという気持ちが強く働いたであろうことは推測に難くない。あまりにスノッブな試みと受け取られるのは、音楽祭継続からすれば得策ではないからだ。

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