ジョヴァンニ・ボノンチーニ作曲《グリゼルダ》(2)
ボノンチーニのオペラ・セリア《グリゼルダ》の続き。演奏とボノンチーニその人について記す。
《グリゼルダ》のリブレットを書いたのはパオロ・ロッリだが、そのリブレットはもともとゼーノが書いたリブレットに基づいている。そしてゼーノはボッカッチョの《デカメロン》を参照しているのだ。
演奏は
グリゼルダがメゾのソーニャ・ルニェ
グァルティエーロがツェンチッチ
アルミレーナがヨハンナ・ローザ・ファルキンガー
エルネストがデニス・オレラーナ
ランバルドがスレーテン・マノイロヴィッチ
ソーニャ・ルニェは素直な発声で、メゾやアルトらしい深い声で落ち着いた歌を聴かせる。
ツェンチッチはいつもながら、スローな曲に山をつくるのが巧み。
ファルキンガーは若い歌手のように見えた。
エルネストのデニス・オレラーナは実際若い(21歳!)のであるが、歌いまわしは既にして巧みだ。
ランバルドのマノイロヴィッチは、バス。
ボノンチーニの曲は、聴きごたえがあり、チャーミングな曲も多いのだが、オーケストレーションについては大幅な補筆があったようで後述する。
オーケストラは、Wroclaw Baroque Orchestra というポーランドの楽団で、指揮はBenjamin Bayl.
作曲家ジョヴァンニ・ボノンチーニは、まだ知る人ぞ知る作曲家なので、プログラムに研究史を含め比較的詳しい説明があるので紹介する。
ボノンチーニに完全に忘れられてしまったことはなかったが、音楽史の教科書でヘンデルとの比較で出てくる存在だった。彼のイメージを長年規定していたのはドイツの音楽史家フリードリッヒ・クリザンダーで、1858年から1867年にかけて、最初のヘンデルの本格的伝記(未完だが)を著した。その中でクリザンダーはボノンチーニの音楽はメロディーは美しいが生き生きとした推進力やエネルギーに欠けるとか眠くなるといった主観的な評価を下している。クリザンダーはヘンデルを賞揚したいあまり、他のライバルを皆くさしたわけである。
しかし、それではボノンチーニがなぜ1720年にローマからロンドンに招かれ、1727年までに6つのオペラを書き、ヘンデルのオペラと競い合い、ヘンデル作品よりも人気を博したものもあったのかは説明できていない。ボノンチーニの音楽は、ヘルムート・クリスティアン・ヴォルフやハーヴァード大学教授のローウェル・リンドグレンにより再評価が進んできた。
ボノンチーニは1670年に音楽家の一家に生まれた父から音楽教育を受けた。父が亡くなると8歳のボノンチーニはボローニャに赴き、そこでジョヴァンニ・パオロ・コロンナから教育を受けた。1686年には楽譜を出版し、やがて教会音楽家として身を立てる。ボローニャでリブレッティスタのシルヴィオ・スタンピリアと知り合い、5つのオペラを共作する。
スタンピリアは後にヴィーンの宮廷詩人となるのだが、牧歌が得意で、田園牧歌の羊飼いやニンフや風景を汚れなき一種の理想郷としてーーこういう様式は古代から存在するわけだがーー描くのだった。スタンピリアとの関係は、生涯ボノンチーニに影響を及ぼす。
1691年に、おそらくはスタンピリアの影響で、ボノンチーニはローマにやってきて、スタンピリアと同様、有力家系のコロンナ家にお仕えする。ここで作曲スタイルを洗練させ、5つのオペラを書き、特に《カミッラの勝利》の成功により名声を確立する。同時代の作曲家フランチェスコ・ジェミニアーニはこのオペラが音楽界に与えた衝撃を伝えており、それまでの浅薄なメロディーを拒否したものと高く評価している。このオペラは1710年までにローマ以外の19のイタリアの町とロンドンで上演された。1697年にパトロンのロレンツァ・コロンナが亡くなると、ボノンチーニはヴィーンのレオポルト1世に雇われ、5000ギルダーという破格の年俸を得る。レオポルトの後継者ヨーゼフは1698年にさらに2000ギルダー昇給させる。1706年にはスタンピリアがヴィーンに合流する。
しかしスペイン継承戦争のためヴィーンの音楽活動が低調となり、ボノンチーニはまずベルリンに行き、イタリアに戻る。彼の名声はオペラと世俗カンタータで高まっていた(今回の音楽祭ではボノンチーニのカンタータの演奏会もあったのはすでに紹介した通り)。ヴィーンのポストは1711年まであったが、その後はイタリア中を旅し、ローマにもやってくる。1719年にイタリアを旅していたイギリスのバーリントン伯爵に出会い、ロンドンのロイヤル・アカデミーとの関係がつく。ボノンチーニはロンドンにやってくるとオペラ関係者の闘争に巻き込まれる。関係者もオペラファンも、作曲者同士のライバル関係や花形歌手同士のライバル関係に加わるからだ。そこに政治的な党派制も加味されてくる。ヘンデルはウィグ派で、ボノンチーニはトーリー派というわけだ。
長くなったので、《グリゼルダ》の製作事情は次の項に。
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