トリオ・グラツィオーゾ演奏会
トリオ・グラツィオーゾというグループの演奏会を聴いた(シュロス教会、バイロイト)。
その名の通り三人組で、ブライアン・ベリマンのフルート、Verena Spies のチェロ、Bernward Lohr のチェンバロ。
ハッセとヨハン・クリスチャン・バッハのトリオ・ソナタもしくはフルート・ソナタがプログラム。
3人での演奏が3曲、2人の演奏が2曲、アンコールが2曲だった。ハッセは穏やかなメロディーが多く、アリオーソの楽章ではまさにアリアとして歌ってもおかしくないメロディーをフルートが吹いているのだった。
今回驚いたのは、クリスチャン・バッハの曲で、作品16の5はフルートとチェンバロの二人が演奏したが、まったくソナチネ・アルバム的なのである。楽器が、ピアノではなく、フルートとチェンバロになってはいるが、チェンバロの左手部分がドソミソ・ドソミソという感じの音型の繰り返しなのである。プログラムの解説にあるように、彼のモーツァルトへの影響(二人はロンドンで会っている、モーツァルトのロンドン滞在は1年3ヶ月にも及んでいる)は軽視すべきでないし、ヴィーン楽派全体への影響も大きいとしているがもっともなことだと感じた。
もう一つ印象的だったのは、ずっと18世紀前半のバロックの曲やオペラを聴き続けた耳で、クリスチャン・バッハの曲を聴くと実にさっぱりとして、あっけらかんとしている音楽に聞こえるということだ。ドロドロした情念が感じられず、理性で濾過された涼しげな音楽と聞こえる。ハッセの曲もオペラのように超絶技巧を駆使しないので、穏やかさが表に出ている。
オペラの場合は、専門的な訓練を積み重ねたカストラート歌手あるいは女性歌手が技巧を駆使して歌うという前提だが、フルート・ソナタの場合は、ベルリンのフリードリヒ大王のように王がフルートを吹くので彼が演奏する(出来る)ような曲を書くという前提もあったろう。
バイロイトのフリードリヒIII・フォン・ブランデンブルク・バオロイトに嫁いだヴィルヘルミーネはフリードリヒ大王の妹だった。彼女は、ベルリンと異なりバイロイトに十分な音楽文化が開花していないことが不満だった。だからハッセが1748年にバイロイトに2週間滞在して、オペラのアリアを書いてくれた際には得意げに報告している。そしてこの地でフルート・ソナタも作曲したと考えられている。
この後、1750年代のはじめにハッセは招かれてパリに赴き、ヴォルテールやルソーにも巡りあい、その名声が国際的なものとなる。フランスで12のフルート・ソナタが出版されることになるのだが、作曲されたのはパリ訪問以前のことと考えられている。当時は版権が認められていないので、楽譜業者は儲かるが、作曲家としては収入が把握しやすい劇場の活動、オペラに力を入れていたのだ。
クリスチャン・バッハは周知のようにヨハン・セバスチャン・バッハの末息子で、兄のカール・フィリップ・エマヌエルはフリードリヒ大王に仕えており、彼のもとを尋ねたこともある。クリスチャン・バッハはイタリアではオペラ作曲家として有名になったが、やがて1762年にロンドンに渡る。彼はここでコンサートのオーガナイザーとして成功し、カール・フリードリッヒ・アベルというヴィオラ・ダ・ガンバ奏者と組んで、「バッハーアベル・コンサート」がロンドンの人気音楽イベントとなったのだ。そして1760年代半ばに幼いモーツァルトがロンドンにやってきて、8歳のモーツァルトはクリスチャン・バッハとコンサートで共演した。父レオポルトも息子にクリスチャン・バッハのスタイルをまねするように促したという。そんな事情もあって、冒頭に記した筆者の感想になるわけだ。
今回のフェスティヴァルは18世紀前半が中心ではあるが、ストラデッラのように17世紀後半もあり、この演奏会のように18世紀中盤のものもあって、比較的短い間に音楽の世界観が移ろっていったことが強く感じられた。
| 固定リンク
コメント