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2022年9月19日 (月)

バイロイトの天気と食事

9月6日から9月18日までバイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルに参加したわけだが、その間に天気は激変したので簡単に記す。

こちらに着いた時には、夏といってよく皆、半袖を着ていた。最高気温は26,7度あった。エアコンもつけた。

それが、15日くらいから急激に寒くなり、最高気温が12度や13度、最低は10度を切るようになって、長袖、セーターあるいは上着が当たり前となり、町ゆくひとの大半がダウンジャケットを着ている。よく言われることだが、北国では夏からいきなり冬がやってくるのだ。もちろん本格的な冬になればもっと寒いに違いないが、東京の感覚からすれば冬といってよい気温だ。また、毎日、雨が降るようになった。すぐに上がるのだが、一日に何度も小雨が降る。

食事についての特徴は塩味にあるかもしれない。ビールを飲んでちょうどよい加減なのか、少し塩辛目なのだ。ジェラートやケーキは、砂糖が多いということはなく、ケーキは果物がたっぷりで甘さ控えめであった。ケーキ屋の数自体は少ない。

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ジョヴァンニ・ボノンチーニ作曲《グリゼルダ》(4)

ジョヴァンニ・ボノンチーニ作曲のオペラ《グリゼルダ》の楽譜復元について、それを担当したDragan Karolic が書いている報告のあらましを記す。

彼が《グリゼルダ》の一部を聴いたのは1985年のことで、レチタティーボなしのアリアがいくつかの抜粋のレコードで1967年録音のものだった。その経験が心に残りつづけ、2005年にロンドンのブリティッシュ・ライブラリーからデジタル・コピーを作成した。音楽学者兼出版者として、忘れられたオペラを聴衆に近づきやすい形で提供したいと願う気持ちが強まった。昨年(2021年)の9月にツェンチッチから電話で申し出をうけ喜んで承諾した。

《グリゼルダ》の総譜は、有名なチャールズ・バーニーが所持していたのだが、1814年に彼が亡くなって売りに出され、その後行方不明となってしまった。

最初、 Dragan Karolic のもとにあったのは1722年と1733年のリブレット、ジョン・ウォルシュの出版したスコア、いくつかのアリアの手稿譜であった。これらのソースにはレチタティーボと管楽器およびヴィオラのパートが欠けていた。それを再構築、復元する必要があったわけだ。幸い、いくつかのアリアなどは印刷されたスコアに全体が保存されていた。即ち、序曲、いくつかのアリアと最後のコーラス(登場人物の全員合唱)、そして強弱などの指示、通奏低音の記号が書き込まれていた。アリアにオーケストレイションを付け終わったところで、ベルギーのDenee で知られていなかった手稿を発見した。それには12のアリアが含まれ、ヴィオラのパートが完全に書かれていた。そこでスコアを書き直して新たな情報を統合した。

レチタティーボ・セッコとレチタティーボ・アコンパニャートを作成するのは時間がかかった。1733年版のリブレットは短縮版でおよそ3分の1がカットされていた。 Dragan Karolic は1722年版にもとづいて復元をした。彼はツェンチッチとボノンチーニ研究者のローウェル・リンドグレンに感謝の言葉を捧げている。

 

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ジョヴァンニ・ボノンチーニ作曲《グリゼルダ》(3)

《グリゼルダ》については、前に記したように、もともとはボッカッチョの『デカメロン』の中のエピソードがあり、それをもとにアポストロ・ゼーノがリブレットを書いた。ゼーノは、ヴィーンの宮廷詩人として、メタスタジオの前任者だった人。ゼーノの《グリゼルダ》にはトマーゾ・アルビノーニ、ルーカ・アントニオ・プレディエーリ、アレッサンドロ・スカルラッティが曲を付し、1735年にはヴィヴァルディが作曲している。ジョヴァンニの兄、アントニオ・マリア・ボノンチーニもジョヴァンニの4年前にゼーノのリブレットに曲を付しているのだ。

ボノンチーニの場合、スタンピリアとの共作を通じて、こういう牧歌的な話はお手の物だった。ロンドンで、リブレッティスタをつとめたのはパオロ・アントニオ・ロッリ。彼は登場人物をカットしたり、名前を変えたりしている。オペラはすぐに大成功だった。初演は1722年2月22日、ロンドンのキングス・シアター。4ヶ月の間に15回再演された。グリゼルダを歌ったのはアナスタジア・ロビンソンで、グァルティエーロを歌ったのがカストラート歌手のフランチェスコ・ベルナルディ、通称セネジーノである。二人は劇場の外でも様々なスキャンダルを巻き起こした。周知のようにセネジーノはヘンデルのオペラのいくつかの役も創唱(初演)している。

こういった事情で作品は後世に伝わったのだが、レチタティーボの部分とオーケストレイションの大半は消失している。その復元について記す。

その復元を担当したのは Dragan Karolic だ。彼によって全作の1733年以来の蘇演(復活上演)が可能となった。

次項にプログラムに記された Dragan Karolic の 'Report from the Workshop' と題された記事のあらましを翻訳する。

 

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ジョヴァンニ・ボノンチーニ作曲《グリゼルダ》(2)

ボノンチーニのオペラ・セリア《グリゼルダ》の続き。演奏とボノンチーニその人について記す。

《グリゼルダ》のリブレットを書いたのはパオロ・ロッリだが、そのリブレットはもともとゼーノが書いたリブレットに基づいている。そしてゼーノはボッカッチョの《デカメロン》を参照しているのだ。

演奏は

グリゼルダがメゾのソーニャ・ルニェ

グァルティエーロがツェンチッチ

アルミレーナがヨハンナ・ローザ・ファルキンガー

エルネストがデニス・オレラーナ

ランバルドがスレーテン・マノイロヴィッチ

ソーニャ・ルニェは素直な発声で、メゾやアルトらしい深い声で落ち着いた歌を聴かせる。

ツェンチッチはいつもながら、スローな曲に山をつくるのが巧み。

ファルキンガーは若い歌手のように見えた。

エルネストのデニス・オレラーナは実際若い(21歳!)のであるが、歌いまわしは既にして巧みだ。

ランバルドのマノイロヴィッチは、バス。

ボノンチーニの曲は、聴きごたえがあり、チャーミングな曲も多いのだが、オーケストレーションについては大幅な補筆があったようで後述する。

オーケストラは、Wroclaw Baroque Orchestra というポーランドの楽団で、指揮はBenjamin Bayl. 

作曲家ジョヴァンニ・ボノンチーニは、まだ知る人ぞ知る作曲家なので、プログラムに研究史を含め比較的詳しい説明があるので紹介する。

ボノンチーニに完全に忘れられてしまったことはなかったが、音楽史の教科書でヘンデルとの比較で出てくる存在だった。彼のイメージを長年規定していたのはドイツの音楽史家フリードリッヒ・クリザンダーで、1858年から1867年にかけて、最初のヘンデルの本格的伝記(未完だが)を著した。その中でクリザンダーはボノンチーニの音楽はメロディーは美しいが生き生きとした推進力やエネルギーに欠けるとか眠くなるといった主観的な評価を下している。クリザンダーはヘンデルを賞揚したいあまり、他のライバルを皆くさしたわけである。

しかし、それではボノンチーニがなぜ1720年にローマからロンドンに招かれ、1727年までに6つのオペラを書き、ヘンデルのオペラと競い合い、ヘンデル作品よりも人気を博したものもあったのかは説明できていない。ボノンチーニの音楽は、ヘルムート・クリスティアン・ヴォルフやハーヴァード大学教授のローウェル・リンドグレンにより再評価が進んできた。

ボノンチーニは1670年に音楽家の一家に生まれた父から音楽教育を受けた。父が亡くなると8歳のボノンチーニはボローニャに赴き、そこでジョヴァンニ・パオロ・コロンナから教育を受けた。1686年には楽譜を出版し、やがて教会音楽家として身を立てる。ボローニャでリブレッティスタのシルヴィオ・スタンピリアと知り合い、5つのオペラを共作する。

スタンピリアは後にヴィーンの宮廷詩人となるのだが、牧歌が得意で、田園牧歌の羊飼いやニンフや風景を汚れなき一種の理想郷としてーーこういう様式は古代から存在するわけだがーー描くのだった。スタンピリアとの関係は、生涯ボノンチーニに影響を及ぼす。

1691年に、おそらくはスタンピリアの影響で、ボノンチーニはローマにやってきて、スタンピリアと同様、有力家系のコロンナ家にお仕えする。ここで作曲スタイルを洗練させ、5つのオペラを書き、特に《カミッラの勝利》の成功により名声を確立する。同時代の作曲家フランチェスコ・ジェミニアーニはこのオペラが音楽界に与えた衝撃を伝えており、それまでの浅薄なメロディーを拒否したものと高く評価している。このオペラは1710年までにローマ以外の19のイタリアの町とロンドンで上演された。1697年にパトロンのロレンツァ・コロンナが亡くなると、ボノンチーニはヴィーンのレオポルト1世に雇われ、5000ギルダーという破格の年俸を得る。レオポルトの後継者ヨーゼフは1698年にさらに2000ギルダー昇給させる。1706年にはスタンピリアがヴィーンに合流する。

しかしスペイン継承戦争のためヴィーンの音楽活動が低調となり、ボノンチーニはまずベルリンに行き、イタリアに戻る。彼の名声はオペラと世俗カンタータで高まっていた(今回の音楽祭ではボノンチーニのカンタータの演奏会もあったのはすでに紹介した通り)。ヴィーンのポストは1711年まであったが、その後はイタリア中を旅し、ローマにもやってくる。1719年にイタリアを旅していたイギリスのバーリントン伯爵に出会い、ロンドンのロイヤル・アカデミーとの関係がつく。ボノンチーニはロンドンにやってくるとオペラ関係者の闘争に巻き込まれる。関係者もオペラファンも、作曲者同士のライバル関係や花形歌手同士のライバル関係に加わるからだ。そこに政治的な党派制も加味されてくる。ヘンデルはウィグ派で、ボノンチーニはトーリー派というわけだ。

長くなったので、《グリゼルダ》の製作事情は次の項に。

 

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ジョヴァンニ・ボノンチーニ作曲《グリゼルダ》あらすじ

ジョヴァンニ・ボノンチーニ作曲のオペラ《グリゼルダ》を聴いた(辺境伯劇場、バイロイト)。

聴いたというのは、演奏会形式であったからだ。2022年バイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルの最後の演目である。

ボノンチーニには兄弟がいて、兄も《グリゼルダ》を作曲しているので、ジョヴァンニ・ボノンチーニの《グリゼルダ》と言う必要がある。

あらすじは比較的簡単である。

シチリアの王グァルティエーロは女羊飼いのグリゼルダと結婚するのだが、身分違いの結婚に臣下の者たちが反発し反乱を起こすのを恐れている。

部下のランバルドは密かに反乱を画策し、グリゼルダに横恋慕している。グァルティエーロは、グリゼルダをいくつかの試練にかける。まず、彼女を宮廷から追い出し、新たに妻をめとると言い出す。若い新妻はアルミレーナというが実は彼の娘なのだ。アルミレーナは義務感からこの結婚を承諾するが、彼女に恋するエルネストは思い悩む。

この間に、グリゼルダは昔住んでいた森の小屋に戻る。そこへランバルドがやってきてグリゼルダを口説くが彼女は拒絶する。ランバルドは受け入れなければ彼女と息子を殺すという。狩りの途中でグリゼルダのところにやってきたアルミレーナはグリゼルダの人柄にひかれる。最後はアルミレーナが行方不明だったグァルティエーロの娘とわかり、アルミレーナはエルネストと結婚できることとなり、グァルティエーロは再びグリゼルダを妻とし、ランバルドは悔い改め許される。

めでたしめでたしのようでいて、現代的感覚ではひっかかるところがいくつかある。身分違いとはいえ、グァルティエーロがグリゼルダを何度も試すところ。アルミレーナはエルネストに恋しているわけではなく、グァルティエーロにいいつけにも大人しく従うのみで自分の意志が曖昧なのである。グリゼルダは何度試練にあっても怒らない。まあ、こういうドラマは寓意的に解釈するしかないのだろう。

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ユリア・レジネヴァのリサイタル

ユリア・レジネヴァのリサイタルを聴いた(辺境伯劇場、バイロイト)。

ポルポラのオペラ・アリアを集めたプログラムで、ところどころにポルポラのシンフォニアがはいる。

レジネヴァが歌ったアリアは、まずオペラ《シロエ》の'Torrente cresciuto'。マルティーナ・パスツスカの指揮するoh!オーケストラは集中力十分かつ音楽する喜びが奏者の表情からうかがわれる。最初のアリアはタイトル通り、水かさのます川の流れを感じる。

次のアリア、オペラ《スタティーラ》の'Sol fra scogli e fra tempeste' は圧巻だった。スタティーラはチーロの未亡人で、古代ペルシアの話だ。このオペラのリブレットを書いたのは劇作家のカルロ・ゴルドーニ。歌詞は、嵐の中の船乗りというお決まりの比喩を用いたものなのだが、曲は気宇壮大で、レジネヴァの歌唱を聴くと、一気にオペラ・セリアの世界に連れて行かれる。彼女の歌唱は、アジリタのテクニックといい、リズム感といい、テンポの揺らし方と戻し方、音色の使い分けといい、一瞬たりと間然とするところがない。高音のアクートからソットヴォーチェまで自由自在に実に適切に使い分ける。声として表現の幅が広いだけではなく、曲を構築する音楽性も超一流なのだ。

情感がこもりつつ、同時に、気品や毅然とした態度を示すことが可能だ。メロディー部分だけでなく、装飾音符に血が通っている、そこから音楽がほとばしり出る。こういう歌手と同じ時代を共有できたことは幸せだと思う。

他にオペラ《シファーチェ》、《カミッラの勝利》からを歌って休憩。

後半は《シロエ》、《シファーチェ》、《イッシピレ》のアリアを歌った。

鳴り止まぬ拍手にこたえてのアンコールはヘンデルの《時と悟りの勝利》から3曲、1曲目が’Un pensiero nemico di pace'、2曲目が’Tu del ciel ministro eletto'、3曲目が'Lascia la spina',  4曲目はプログラムに戻ってポルポラの《シファーチェ》の'Son pellegrino errant'であった。

しばらくは次のURLでヴィデオとして観られるはずです。

https://www.facebook.com/BayreuthBaroque/videos/629598608813399

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2022年9月18日 (日)

トリオ・グラツィオーゾ演奏会

トリオ・グラツィオーゾというグループの演奏会を聴いた(シュロス教会、バイロイト)。

その名の通り三人組で、ブライアン・ベリマンのフルート、Verena Spies のチェロ、Bernward Lohr のチェンバロ。

ハッセとヨハン・クリスチャン・バッハのトリオ・ソナタもしくはフルート・ソナタがプログラム。

3人での演奏が3曲、2人の演奏が2曲、アンコールが2曲だった。ハッセは穏やかなメロディーが多く、アリオーソの楽章ではまさにアリアとして歌ってもおかしくないメロディーをフルートが吹いているのだった。

今回驚いたのは、クリスチャン・バッハの曲で、作品16の5はフルートとチェンバロの二人が演奏したが、まったくソナチネ・アルバム的なのである。楽器が、ピアノではなく、フルートとチェンバロになってはいるが、チェンバロの左手部分がドソミソ・ドソミソという感じの音型の繰り返しなのである。プログラムの解説にあるように、彼のモーツァルトへの影響(二人はロンドンで会っている、モーツァルトのロンドン滞在は1年3ヶ月にも及んでいる)は軽視すべきでないし、ヴィーン楽派全体への影響も大きいとしているがもっともなことだと感じた。

もう一つ印象的だったのは、ずっと18世紀前半のバロックの曲やオペラを聴き続けた耳で、クリスチャン・バッハの曲を聴くと実にさっぱりとして、あっけらかんとしている音楽に聞こえるということだ。ドロドロした情念が感じられず、理性で濾過された涼しげな音楽と聞こえる。ハッセの曲もオペラのように超絶技巧を駆使しないので、穏やかさが表に出ている。

オペラの場合は、専門的な訓練を積み重ねたカストラート歌手あるいは女性歌手が技巧を駆使して歌うという前提だが、フルート・ソナタの場合は、ベルリンのフリードリヒ大王のように王がフルートを吹くので彼が演奏する(出来る)ような曲を書くという前提もあったろう。

バイロイトのフリードリヒIII・フォン・ブランデンブルク・バオロイトに嫁いだヴィルヘルミーネはフリードリヒ大王の妹だった。彼女は、ベルリンと異なりバイロイトに十分な音楽文化が開花していないことが不満だった。だからハッセが1748年にバイロイトに2週間滞在して、オペラのアリアを書いてくれた際には得意げに報告している。そしてこの地でフルート・ソナタも作曲したと考えられている。

この後、1750年代のはじめにハッセは招かれてパリに赴き、ヴォルテールやルソーにも巡りあい、その名声が国際的なものとなる。フランスで12のフルート・ソナタが出版されることになるのだが、作曲されたのはパリ訪問以前のことと考えられている。当時は版権が認められていないので、楽譜業者は儲かるが、作曲家としては収入が把握しやすい劇場の活動、オペラに力を入れていたのだ。

クリスチャン・バッハは周知のようにヨハン・セバスチャン・バッハの末息子で、兄のカール・フィリップ・エマヌエルはフリードリヒ大王に仕えており、彼のもとを尋ねたこともある。クリスチャン・バッハはイタリアではオペラ作曲家として有名になったが、やがて1762年にロンドンに渡る。彼はここでコンサートのオーガナイザーとして成功し、カール・フリードリッヒ・アベルというヴィオラ・ダ・ガンバ奏者と組んで、「バッハーアベル・コンサート」がロンドンの人気音楽イベントとなったのだ。そして1760年代半ばに幼いモーツァルトがロンドンにやってきて、8歳のモーツァルトはクリスチャン・バッハとコンサートで共演した。父レオポルトも息子にクリスチャン・バッハのスタイルをまねするように促したという。そんな事情もあって、冒頭に記した筆者の感想になるわけだ。

今回のフェスティヴァルは18世紀前半が中心ではあるが、ストラデッラのように17世紀後半もあり、この演奏会のように18世紀中盤のものもあって、比較的短い間に音楽の世界観が移ろっていったことが強く感じられた。

 

 

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ブルーノ・デ・サのリサイタル

ブルーノ・デ・サのリサイタルを聴いた(辺境伯劇場、バイロイト)

この日のリサイタルは、'Roma Travestita' (ローマの異性装)と銘打たれている。トーマシュ・クラール(バリトン歌手)のリサイタルでもそうであったが、デ・サも同じタイトルのCDを最近出したところである。

ただ、CDの曲目とリサイタルのプログラムを比較してみると、重複しているのは約半分で、残りの半分は、CDには入っていないアリアを歌っていた。パルナッソスというエージェント(プロダクション)に所属している歌手のアルバムにはよくあることなのだが、このCDでも世界初録音が7曲もある。大手のレコード会社の一部、プロモーターの一部には売らんかなで、音楽愛好者一般に人気のある演目を上演し、いわゆるレパートリーをなぞっているのに対し、新たなレパートリー、音楽領域を積極的に紹介しようという方針に共感を覚える。

ローマの異性装というのは、教皇シクストゥス5世が1588年に女性が劇場や教会で歌うことを禁じたので、劇場で女性役を誰がやるかと言うときにカストラートを起用し、彼らが女装して歌っていたことを指しているのだ。当時はローマとヴェネツィアは別の国なので、ヴェネツィアでは女性歌手も歌っていたのである。実はカストラートを作る行為も1587年に禁止されたいたのだが、落馬などの事故を言い訳に抜け道があった。

というわけで、この日のデ・サが歌ったアリアはアンコール曲は別として、女性役が歌うアリアだった。アレッサンドロ・スカルラッティの《グリゼルダ》、ヴィヴァルディの《イル・ジュスティーノ》から2曲、ジュゼッペ・アレーナの《アキッレ・イン・シ—ロ》、ポルポラの《カルロ・イル・カルヴォ》。最後のポルポラは去年はデ・サは舞台で男の役を歌っており、この日はジュディッタという幼いカルロの母親役を歌い、満場の喝采をあびた。ここで休憩。前半ではアリアの前後にアレッサンドロ・スカルラッティのシンフォニアやコレッリのトリオソナタが演奏された。

後半。

ジョアッキーノ・コッキの《アデライーデ》から’Timida pastorella' (内気な女羊飼い)、ハッセ、ガルッピのコンチェルト、ガエターノ・ラティッラの《ロモロ》から'Vanne barbaro alle selve', ヴィヴァルディのシンフォニア、ピッチンニの《良き娘》から 'Furie di donna irata' (いらついた女の怒り)。

アンコールはブロスキの有名なアリア'Son qual nave' とボノンチーニの’Ombra mai fu'. 

指揮はフランチェスコ・コルティでオケはイル・ポモドーロ。ただしイル・ポモドーロは指揮者兼チェンバロをふくめて7人の体制。

CD録音の時の指揮とオケなので曲はしっかりはいっているという感じで、弦楽器間の受け渡しも細かいニュアンスまでのやりとりが実に音楽的でよかったが、シンフォニアなどでは厚みに欠けるところなしとはしないのであった。ただし、この人数になってくるとテオルボの音、加わっているときの全体の響きのニュアンスの変化は聞き取りやすく、これはこれで音楽的に充実しているのであった。

デ・サはプログラムには、カウンターテナーでもなく、ソプラニスタでもなく、ソプラノと書かれていた。この人の声は不思議な声で、高音域で強い声を持っており、逆に低い方は出しにくそうなのだーというか高音ほど響かない。まさに女性のソプラノのよう。

去年と較べ、着実に人気と実力をつけつつある注目の歌手である。

 

 

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2022年9月17日 (土)

エマニュエル・ドゥ・ネグリのリサイタル

ソプラノ歌手エマニュエル・ドゥ・ネグリのOrpheus Britannicus と題したリサイタルを聴いた(シュロス教会、バイロイト)。タイトルはブリテンのオルフェウスという意味になろうが、それは作曲家パーセルのことなのだ。

パーセルは生年は正確には分からないが1659年頃とされ、1695年に亡くなっている。彼は生前からイギリスで大作曲家と認知されており、葬儀もウェストミンスターで厳かに営まれた。そしてこの Orpheus Britannicus という題名で、音楽業者のヘンリー・プレイフォードが動いて、1698年と1702年に2冊のアルバムが出版された。パーセルの歌曲を集めたものである。第一巻の冒頭には未亡人のフランセスがレイディー・ハワードという婦人への献辞を書いている。レイディー・ハワードは、政治家兼劇作家のロバート・ハワードの妻で、詩人ジョン・ドライデンの義兄弟だった。ジョン・ドライデンは、英文学史上では大詩人なのだが、日本ではあまり知られているとは言えないだろう。しかしパーセルとの縁は深いのだ。彼は《インドの女王》というリブレットを書いていたのだが、パーセルの死により未完に終わってしまった。

この日演奏されたパーセルの歌曲や鍵盤楽器の曲を聴くと、軽い違和感を覚える。それは同時代のヨーロッパの作曲家とは音楽語法が微妙に異なるからだ。地理的にヨーロッパ大陸から切り離されていることもあって、独自の音楽文化がイギリスでは育ったのである。だから、ドイツの宮廷と比較して、イタリアやフランスの影響がはるかに小さかったと言えるのである。そういう「自由な」状況で、パーセルは音楽語法を探求していくことができたわけだ。

大陸と違うのは、高度な技巧を求めずに、感情表出を素朴にしようという趣きが支配的な点で、この時期のイギリスはヘンデルがやってくる前で、本格的なオペラではなく、劇伴奏や仮面劇のようなセミオペラと分類されるジャンルで、劇の言葉に音楽が付されていた。今回の演奏会でもシェイクスピアの『アテネのタイモン』、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を翻案した『フェアリー・クイーン』、前述のハワードとドライデン共作の『インドの女王』に付された歌曲も演奏された。

(『フェアリー・クイーン』の部分、指摘を受け訂正しました)。

パーセルの歌曲は、イギリスのそれ以前の大作曲家としてテューダー朝のダウランドがいるわけだが、そのポリフォニックな要素、対位法的な要素がほとんどない。そういった事情もあって、彼は最初の歌曲作曲家と呼ばれることもあるのだ。

形式的に大陸的な要素がないので拍子抜けする面と、それゆえの軽やかさ、自由な歌曲をドゥ・ネグリとブライス・セイリ—のチェンバロでたっぷりと享受できた。

 

 

 

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アルビノーニ作曲《アウローラの誕生》

トマーゾ・アルビノーニ作曲のセレナータ《アウローラの誕生》を聴いた(辺境伯劇場、バイロイト)。

この項、プログラムのルネ・クレメンチッチの解説に負うところ大です。

バロック時代のセレナータは、カンタータの一種と言ってよく、ただしその名のとおり、夜(夕べ)に、誰かを讃える目的で演奏、演じられることが多い。舞台はアルカディアや牧歌的なところで、実際に演奏されるのは戸外、貴族の館の庭などが多く、衣装をつけて演じられることも歌われることもどちらもあったようだ。出演する登場人物は、神話的人物やニンフであるのだが、その実、現実の王侯貴族やその妻の誕生日や聖名祝日を祝う目的で作曲が委嘱され演じられたもののようだ。

《アウローラの誕生》は、エリザベス・クリスティーネ・フォン・ブルンシュヴィックーヴォルフェンビュッテルに捧げられた。彼女は皇帝カール6世の妻であり、マリア・テレジアの母である。皇帝の在ヴェネツィア大使が1711年から1717年の間にアルビノーニにセレナータの委嘱をしたようだ。舞台はギリシアのテッサリア地方のテンペの谷、そこにペネイオス川が流れ、ここはアポロ神ゆかりの聖地なのだ。

というわけで、このセレナータの登場人物はアポロと川の神ペネウス(ペネイオス)、森のニンフのダフネ、風の神ゼッフィーロ、花の女神フローラで、彼ら彼女らがあけぼのの女神アウローラの誕生日を祝うという趣向なのである。この女神アウローラが、エリザベス・クリスティーネでもあるわけだ。最後は 'Viva l'Aurora, Elisa viva!' (アウローラ万歳、エリーザ万歳)で締めくくられる。

この作品のリブレットを書いたのが誰かは不明で、自筆稿はヴィーンの国立図書館にある(MS17,738)。

演奏は、指揮がマルティーナ・パストゥスツカ、オウ・オーケストラ。

ダフネがNarea Son(ソプラノ), ゼッフィーロがデニス・オレッラーナ(カウンターテナーでより高いソプラニスタ)。フローラがソーニャ・ルニェ(メゾソプラノまたはアルト)、ペネオがステファノ・ズボンニク(テノール)、アポッロが急遽交代してニコラス・タマーニャ(カウンターテナー)。デニス・オレッラーナは当初は《インドのアレッサンドロ》のタイトル・ロールを歌うはずだったがコロナのため急遽交代となり、この日やっとバイロイト・デビューを果たした。彼はまだ21歳でとても若いが、高域に張りのある強い声が出る。Son は顔の表情や身振りが達者な感じで、経歴をみるとモーツァルトの《コシ・ファン・トゥッティ》のデスピーナなどを歌っていてなるほどと感じた次第。ソーニャ・ルニェは、フローラの歌をいかにも楽しげにのびのびと歌っていて好感を持てた。タマーニャは1日か2日でよくこの役を歌えるようになったと感心。

アルビノーニのセレナータを聴くのは初めてで、きびきびとした演奏の良さもあいまって音楽的表現の幅に感心するやら、アルビノーニ像の修正をせまられるやら。アンコールでは、タマーニャのファンダンゴの部分が歌われ、テオルボとギター(コントラバス奏者が持ち替え)が活躍。音楽的に楽しい夕べであった。

 

 

 

 

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2022年9月16日 (金)

トーマシュ・クラール・バリトン・リサイタル

チェコのバリトン歌手トーマシュ・クラールのリサイタルを聴いた(シュタット教会、バイロイト)

調べてみると彼は2021年に’Kings in the North' というCDを出していて、今回の演奏会は曲目もそれと相当重なっている。CDを出す前後に、その曲目でリサイタルをするのには他の歌手でも何度か出会っており、普通のことなのだと思う。

全体としてはアルプスの北の作曲家のバロック・オペラから王の歌が集められている。

作曲家としては、トマス・アーン、ヘンデル、テレマン、ハイニヒェン、シュルマン、カイザー、アリオスティなどである。ヘンデル序曲の一部の間にカイザーのアリアを挟んで連続で演奏するというようなことをしていたが、不思議なほど違和感がなかった。

イタリア語のアリアとドイツ語のアリアが半々だった。

個人的にはアッティリオ・アリオスティのアリア’この海を’が音楽的表情が起伏に富んでいて印象的だった。

クラールは袖から舞台中心に歩いてくる時からフリをつけて出てくる(舞台衣装ではないのだが)。

歌う際も、パルランテ(語るように歌う)と朗々と歌う部分の切り替えが自然で上手い。それでいて、バロック歌唱の様式感が崩れることが全くなく感心したし、曲の良さが伝わってくるのだった。

指揮とオケは、CDと同じく、ヤロスワル・ティールの指揮、ヴラツワフ・バロック・オーケストラ。歌と指揮・オケの息はぴったりあっていて、かつ、互いに気心知れて伸び伸びと演じていて気持ちがよかった。

 

 

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ストラデッラ作曲《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》その2

ストラデッラ作曲のオラトリオ《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》を聴いた(シュタット教会、バイロイト)

前項の続きである。演奏について。

まずなんと言っても目立つのは、教会での残響の長さだ。そのためアジリタは聞き取りにくい。また、オケが早いテンポで突き進む場面でもチェロの早いパッセージなどは音の1音1音は聞き取りにくい。教会と言っても一括りにはできず、バイロイトの教会でオルデンス教会やシュロス教会での演奏会も経験して言えることは、天井が低い教会はさほど残響が長くないという傾向がある。天井の高さだけで決まるわけではないのは、劇場の天井の高さを考えると当然のことで、空間の形状も大いに関与する変数が複数ある方程式なのだろう。

シュタット教会は、天井が高く、残響が長い会場であった。この日もキャンドルが灯され、雰囲気は抜群。会場はほぼ満席埋まっていた。

指揮はマルケロス・クリシコス。以前に《オリンピアデ》の一風変わったCD(多くの作曲家が同一リブレットに対し曲をつけていることを利用して、それを混成してCDを編成している)を指揮していた。結構尖った指揮ぶりなのだが、前述の事情でテンポが速い部分はなかなか評価がむずかしいのだった。ジェノヴァで聴いた時には、前半と後半の間に休憩が入ったのだが、今回は休憩なしで一気に演奏がされた。全体として早めのテンポであったし、チェロが同じ音型を繰り返して、オブセッションのように聞こえるところは随分と早かった。

サン・ジョヴァンニ・バッティスタがツェンチッチ。サロメ(へロディアデ娘)がマーヤン・リヒト、サロメの母(ヘロディアデ母)がジェイク・アルディッティ、エロデ王がズレーテン・マノイロヴィッチ、助言者がステファン・ズボンニク。ツェンチッチは、教会の響きを完全に我が者としていて、音楽の表情が隈なく伝わってくる。思うに、ウィーン少年合唱団の頃からこういう教会で歌ったらこう響くということが頭に入っていてそれに合わせて歌い方を調整することが出来るのだと思う。サロメのマーヤン・リヒトは代役でヴィンチのオペラのアレッサンドロを務めてそれは立派だったが、元々このサロメ役だったのは納得がいった。教会で、残響の助けがあって、澄んだ綺麗な声を響かせるのが向いている。母親役のアルディッティはもともと出番少なく、贅沢な起用法と言えた。エロデ王のマノイロヴィッチは、力で押してくるタイプで、教会の響きとかぶり音楽の細かな表情が伝わりにくいのだった。

オーケストレーションに関して、テオルボと低弦のみの間奏部は、えも言われぬ美しさだった。テオルボのような音量の小さい楽器は、ヴァイオリンが奏でるとほとんど聞こえなくなってしまうが、音量の小さな楽器同士で、音のテクスチャーを編む瞬間には、教会のように残響が長いところが効果的だと思った。大ホールではPAなどを使わない限り、もともとの小音量が大空間に吸収されてしまう感じなのだ。

ストラデッラのオラトリオは、オラトリオというジャンルから連想するよりはるかにオペラ的劇的表情に富んでいることを再確認した。

 

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2022年9月15日 (木)

ストラデッラ作曲《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》(1)

アレッサンドロ・ストラデッラ作曲のオラトリオ《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》を聴いた(シュタット教会、バイロイト)。

当ブログでも昨年12月の記事に書いたが、筆者はこの曲をジェノヴァで聴いている。この時、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ(洗者聖ヨハネ)の役をツェンチッチが歌うはずだったのだが、病気のため交代となった。バイロイトでツェンチッチのサン・ジョヴァンニを聴けることになったのは幸運というほかない。

前回のジェノヴァでは会場がオペラ用の劇場で、今回は教会である。当然と言えば当然であるが響きが全く違う。教会は残響が長く、早いパッセージは前の音と次の音がオーバーラップしてしまい細かなフレーズが聞き取りにくい。逆に伸びやかなフレーズは全部に力を入れずとも、残響が助けてくれる感じとなる。そのあたりをオーケストラもよく心得て、フレーズの終わりは短く詰めていた。

この曲は内容としては、大まかに言えば、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》と同じである。オペラではないので、舞台はないし、7つのヴェールの踊りなどはないのだが、ヘロデ王に対し、サロメ(エロディアーデの娘、聖書には名前は登場しないが日本ではオスカー・ワイルドやリヒャルト・シュトラウスのオペラや、ギュスタヴ・モローの絵によりサロメの名で知られているのでここではサロメと記す。原曲の楽譜にはサロメ母子はHerodiade la Madre , Herodiade la Figlia と記されサロメの名はない)が母にそそのかされて、サン・ジョヴァンニ・バッティスタの首をくれという。なんでもあげると言ってしまったヘロデ王は逡巡するのだが、ついにはサロメの願いを受け入れる。しかし、ヘロデは深い悔悟の念に襲われる、という話で、対話形式でアリアとレチタティーヴォが使い分けられて進行していくので、舞台がないオペラと言ってよいだろう。カンタータやセレナータも同様の性質を持っており、今回のバイロイト・バロック・フェスティヴァルでは2つのオペラ(1つは舞台装置つき、もう1つは演奏会形式)を中心に、周りにカンタータやオラトリオ、セレナータを配置してその親近性、類似性がごく自然に理解、体感できるように構成されているのだと言えよう。

さてここからはプログラムに記されたこと(この項は珍しく筆者の名Elizabeth Sasso-Fruthが記されている)を中心に記す。

この曲が作曲されたのは、Venerabile Compagnia della Pieta' della Natione Fiorentina が作曲家に委嘱したのだとある。委嘱した団体は同信会であるが、日本で言えば県人会のようなもので、フィレンツェ生まれの人が集まる集団である。そこが洗者聖ヨハネの曲を委嘱するのは理解しやすい。フィレンツェの守護聖人が首を切られた聖ヨハネであるからだ。1675年の聖年のために依頼した。

作曲家アレッサンドロ・ストラデッラ(1639-1682, この人は、女性関係で何度も揉めていて、ジェノヴァで刺殺された)とリブレッティスタのアンサルド・アンサルディ(1651-1719)は、新約聖書聖書にさほど厳密には従っていない。マルコ福音書とマタイ福音書にこのエピソードは書かれているのは周知の通り。このオラトリオにはヘロデ王の助言者(大臣?)が出てくるが聖書にはいない。サロメに名がなかったのも前述の通り。

アンサルディはフィレンツェやローマでいくつかのアカデミアに加入しており、時流の好みを理解していたからこそ、聖書から逸脱しているのだと言えよう。例えば冒頭でヨハネ(サン・ジョヴァンニ・バッティスタ)が「親しい森よ、さらば」と歌うのだが、これはルネサンスからバロック時代に流行した牧歌文学、牧歌劇を踏まえたものだ。都市よりも田舎での素朴な生活こそが理想と歌われるのである。しかし聖書によれば、ヨハネはヘロデ王の宮廷に行く前は荒野にいたのだ。前述のように王の助言者・大臣も聖書には登場しない。

オラトリオの性質上、ダンスの場面はない。

当時の教皇国家では女性歌手の存在が否定されていたので、それにならってこの日の演奏も全員男性歌手(サロメ母子はカウンターテナー歌手)によって歌われた。

 

 

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2022年9月14日 (水)

寺神戸亮ディナーコンサート

ヴァイオリニストの寺神戸亮(敬称略、以下同様)のディナーコンサートを聴いた(エレミタージュ宮、バイロイト)

去年もエレミタージュでのディナーコンサートはあったが、今年は行きにバスで行ってみたのだが、案の定、道に迷って苦労した。帰りはタクシーを呼んでもらった。近所のバス停のバスは19時台までで帰りの時間にはない。タクシーでの往復がオススメです(バスや地理に強い方はその限りではありませんが)。

ここはオランジェリー、温室だったところでディナーが出される。その後、ほんの少し移動(隣の建物という感じ)して礼拝堂のようなところでコンサートがある。

寺神戸亮のヴァイオリン、上村かおりのヴィオラ・ダ・ガンバ、ファビオ・ボニッゾーニのチェンバロで、アルカンジェロ・コレッリの作品5のソナタが披露された。3曲、作品5の1番、5番、12番で、12番は有名なフォリアの旋律とその23の変奏曲である。

寺神戸の名人芸が発揮され、会場も熱い拍手に包まれたが、上村のヴィオラ・ダ・ガンバも見事なものだった。ただし、ボノンチーニなどと比較すると、そもそも作曲の時点で、通奏低音に大胆なあるいは強い主張が与えられている部分は少ないように思えた。

オランジェリーの建物は派手な色のロココで、庭に噴水がある。早めに行って散歩をしてみるのも悪くはないだろう。

 

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2022年9月13日 (火)

ソーニャ・ルニェ・リサイタル

アルト歌手ソーニャ・ルニェのリサイタルを聴いた(バイロイト、シュロス教会)。会場は電気による照明はなく、全て蝋燭による灯り(譜面台のところだけは例外)。Tempimagephs3tr

プログラムは全てボノンチーニ。ソロ・カンタータの間にトリオ・ソナタやディヴェルティメントといった器楽曲がはさまれている。

バイロイトのバロック・オペラ・フェスティバルは全体で一冊のプログラムがあり、オペラは対訳のリブレットが付き、演奏者の紹介があり、楽曲についての解説もある。この日の演目についてもカンタータ全般とボノンチーニについての解説が(ドイツ語と英語で)あるので、かいつまんで紹介しよう。

カンタータと言えばブクステフーデやテレマン、そして誰よりバッハと連想が結びつくが、実は長い歴史があるために簡単な定義はしにくい。カンタータは1630年代のイタリアで発達し、室内楽プラス声という感じで作られた。

ジャンルとしては1620年にアレッサンドロ・グランディの曲集に言及があったという。ジョヴァンニ・ピエトロ・ベルティやモンテヴェルディは、Cantata a' voce sola (単声のカンタータ)と記していた。元々、室内楽的な需要を受けて作曲されたので、1人か2人の歌手プラス通奏低音、せいぜいそれに加えてヴァイオリン1丁という形が多かった。

バッハのようなフルオーケストラ、合唱付きというのはすぐれてドイツ・プロテスタント的現象とのこと。

イタリアでは1830年代に至るまで、カンタータは小規模の室内楽であり続けた。

17世紀末から18世紀初頭にかけて、カンタータは、レチタティーヴォ+アリアという形式が固まった。世俗カンタータでは、独唱のことも対話形式を取ることもある。カンタータがよく作られたのは、ヴェネツィア、フェッラーラ、ボローニャ、ナポリそしてローマである。ローマでは有力家系のオットボーニ家、ボルゲーゼ家、パンフィーリ家などがパトロンになって、カリッシミやチェスティ、ストラデッラやヘンデルにカンタータを作曲するよう注文したのだ。

ジョヴァンニ・ボノンチーニはソロ・カンタータの傑作を作っている。彼はボローニャで教育を受け、後にヴィーンの宮廷詩人となる台本作家のシルヴィオ・スタンピリアと知り合った。

ボノンチーニとスタンピリアの協力関係は何年も続いた。ヴィーンでも一緒の時期があるのだ。スタンピリアは牧歌で有名だった。文明に冒されていないのどかな田園を理想化して書いたのである。もちろん牧歌は古代からある文学ジャンルの1つでもあるわけだが。ボノンチーニはこういう伝統的形式に自然で伸びやかさ、自発的感情をのせつつ、メロディーや和声に創意工夫を凝らして独創性を発揮した。

フランチェスコ・ガスパリーニは1708年の著作でボノンチーニのカンタータを、特に装飾的なバス・ラインの創造性を指摘しつつ、激賞している。

彼のカンタータはそれまでカンタータの伝統の乏しかったパリでも愛好された。

ボノンチーニのカンタータのほとんどは消失したと考えられているが、彼がイギリスにいた時に、イギリス王ジョージ1世にカンタータ集を献呈していてそれが残っている。このカンタータ集には14作が収められているが、王のために作ったというわけではなく、すでにヨーロッパで作られたものを集めたものらしい。

当日のプログラム

前半

'Misero pastorello'

室内トリオ・ソナタ・ニ長調第3番

’Gia la stagion d'Amore'

ソナタ・イ短調

’Lasciami un sol momento'  

後半

ディヴェルティメント 作品8

’O mesta tortorella`

室内ソナタ ホ長調第一番

’Siedi, Amarilli mia'

前半も後半も、最終曲’Lasciami un sol momento' と'Siedim Amarilli mia' が最もドラマティックな表情、アジリタを含む高度な技巧を要求する曲であった。が、その他の曲も、解説にあったように、チェロのラインが特徴的でメロディーとの対比で曲が立体的に動いていくのだった。伴奏の楽器はチェロ、リュート、チェンバロが基本で曲によってコントラバスが入ったり、1人または2人のヴァイオリンが入った。これだけで、実に多様な響きが展開されるし、抒情的な表情から劇的な表情まで自在に描き分けられるのは、ボノンチーニの作曲家としての技量が高いからだし、歌い手のソーニャ・ルニェの歌唱、Hofkapelle Munchenのチェリスト、Pavel Serbinの音楽性、技巧が相まってのことである。

改めてボノンチーニの曲をもっと聴いてみたくなる一夜だったが、この音楽祭ではオオトリにボノンチーニのオペラ《グリゼルダ》が控えており大いに楽しみである。

 

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2022年9月12日 (月)

《インドのアレッサンドロ》の演出について再び

《インドのアレッサンドロ》(辺境伯劇場、バイロイト)を3回観たというか観終えた時点で、この上演の演出についてもう一度考えてみたい。

演出は、マックス・エマヌエル・ツェンチッチである。この音楽祭の去年のオペラ、ポルポラの《カルロ・イル・カルヴォ》も彼の演出で、中世の史実に基づき自由に恋愛をまぶした物語を、20世紀前半のキューバに移して、王国の継承争いを、ボスの跡目争いに読み替えた演出だった。

今回も激しく読み替えている。

1.18世紀後半のイギリスのジョージ4世が皇太子かつ摂政だった時代に、ブライトンで貴族たちとさんざん馬鹿騒ぎをしており、その余興の出し物の一つとして、アレクサンダー大王とインド王ポーロの争いをお芝居にして見物しているという形だ。だから最後の場面では、アレッサンドロが召使いにお金を渡し、召使いは全ての登場人物にご苦労さんという形でそのお金を渡すという場面がある。典型的なメタシアター、劇中劇構造をとっているわけだ。

2.そのことから浮かび上がってくるのは、このオペラのインドへの視線が劇中内ではコロニアルな視線、劇中外の観客にとってはポストコロニアルな視線が前提とされていることである。劇中に、インドの女王クレオフィデがアレッサンドロに献上する宝物が、金色の男根、金色の抱擁する男女(神々?)が2組あってなかなか刺激的ではある。インドには、ミトゥナ像というシバ神と妃の像であったものがさらに男女の接合図で表現されたものがあるわけで、それへの言及とも言えるし、あまりに生殖器への強いこだわりは、イギリスから見たインドへのオリエンタリズム的要素もあると思われる。

3.このオペラ演出では、連続的にバレエが出てくる。ミュージカル的な演出とも言えるし、ボリウッドを始めとするインド映画のイメージの影響もあるだろう。見て飽きないオペラに仕上げたいという演出家の強い意志を感じる。

4.以上のことから、このオペラは元々オペラ・セリアなのであるが、演出としてはオペラ・ブッファ的要素が強く出たものとなっている。このオペラの台本を書いたメタスタジオは台本改革を推進した人物で、オペラセリアからブッファ的要素を除去したと言われるが、それは前の時代に比べての話であって、ブッファ的あるいはコミカルな要素が皆無ではない。今回の演出は、そのコミカルな要素を拡大、強調している。

5.コミカルな演出にしたのには、1740年以降再演が全くなかったこのオペラ・セリアを蘇演するにあたって、専門家だけでなく一般のオペラ愛好者に楽しめるものにしたい、興行的にも成功させたいという気持ちが強く働いたであろうことは推測に難くない。あまりにスノッブな試みと受け取られるのは、音楽祭継続からすれば得策ではないからだ。

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ドイツのマスク事情

1年ぶりにドイツにやってきたので、去年のコロナ対策との違いを記す。場所は去年も今年もバイロイトなので定点観測の1例としてご参考になれば幸いである。

ホテルにチェックインの際、今年は提示したのはパスポートのみで、コロナ以前と同じ。念の為言えば、PCR検査の結果やワクチン接種証明書は求められない。

去年は、スーパーマーケットでもマスク着用というレベルではなく、FFPマスク着用が義務であったが、今年はマスクなしで何の問題もなし。

劇場に関して言えば、去年はワクチン接種証明書とパスポートを示して、紙製の腕輪を巻いてもらうという「儀式」を毎日繰り返していたし、劇場に入る際にはマスク着用が求められ、かつ、上演中も係員が違反する人には(例えば鼻がはみ出ていても)注意していた。

今年は、マスクは義務ではなく、ざっと見たところ、マスクをしているのは観客の5%程度だ。もちろん、マスクをしていないからといって、係員に注意されることはない。案内係や切符のチェック員もマスクなしであった。ただし、緊急事態に備えて控えている救急隊はマスクを着用していた。また、テレビカメラのカメラマン(女性もいました)は全員マスクを着用していた。

教会での演奏会でも、観客の中に数人はマスク着用の人がいたが、大半はノーマスクで、もちろん係員から注意を受けることはなかった。

去年とは異なり、劇場や教会の座席にばつ印などが記されていることはなく、満席にまで客が座るシステムに戻っていた。空席の場合、単に売れていないか、切符を買った人の都合が悪くなったせいと考えられる。

座席に関して言えば、ドイツではないが、イスタンブール空港の搭乗口のベンチには、ばつ印が書いてあり、一人おきにしか座れないようになっていた。

今、ドイツで全員がマスクをしているのは、バスと列車の中である。バス停留所でマスクを着けて、乗り込むという感じで、街を歩くときには大半の人は着用していない。街歩きの時にもマスクを着用しているのは、高齢者が多いように思われた。

 

 

 

 

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2022年9月11日 (日)

ツェンチッチ・デビュー40周年記念リサイタル

ヘンデルがセネジーノのために書いたアリア集と題されたコンサートを聴いた(辺境伯劇場、バイロイト)。

オーケストラは、ペトルー指揮、アルモニア・アテネア。

前半は序曲、2曲のアリア、序曲、2曲のアリア。2曲のアリアの曲想が対比的になっているのは言うまでもない。

2年前にカールスルーエでもツェンチッチのヘンデル・アリアのリサイタルを聴いたのだが、曲は全く重なっていなかった。前半では

オペラ《ラダミスト》の 'Ombra cara'が出色の出来。

ヘンデルの ’Poro'は内容的には、ヴィンチの'Alessandoro nell'Indie'と重なるので、音楽祭への配慮も抜かりなくある選曲である。

休憩をはさんで後半。

2曲のアリア、序曲、2曲のアリア。

最終アリアの《ラダミスト》の 'Vile, se mi dai vita'  とアンコールの《ロデリンダ》の 'Se fiera belva ha cinto'はドラマ性において

圧巻だった。'Se fiera belva ha cinto'など、Youtube で他の4つの演奏と比較してみたのだが、ほぼ別の曲に聞こえてしまう。

テンポが早めというのもあるのだが、ペトルーの指揮により、低音部の音型がくっきりと浮かび上がり、曲が立体的に聞こえる。曲の構造が垂直的に立ち現れる。Ordinary な演奏も決して悪くないのだが、この演奏には鬼気迫る美がある。

このリサイタルは全曲が Arte.tv にその日からアップされているので当分はご覧になれるかと。

 

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フランソワ・クープラン「ルソン・ドゥ・テネブル」

フランソワ・クープランの宗教曲「ルソン・ドゥ・テネブル」を聴いた(バイロイト、オルデンス教会)

テネブルあるいはテネブラエは、旧約聖書のエレミアの哀歌が歌詞である。預言者エレミアの嘆きが中身だ。

ルイ14世のごひいきの作曲家リュリが1687年に亡くなった後、教会音楽家兼オルガニストとして採用されたのがクープランだ。リュリは王家の子弟に鍵盤楽器を教えた他、宗教音楽や鍵盤楽器のための楽曲を次々に作曲した。

ルイ14世が亡くなる1年あまり前の1714年頃からクープランはルソン・ドゥ・テネブルの作曲を始めた。預言者エレミアは、紀元前589年頃にネブカドネザルによってエルサレムがソロモンの神殿を含め破壊されたことを嘆いた。この旧約聖書の言葉は、ルネサンス期から復活祭前の3日間、嘆きの日の音楽に用いられるようになった。17世紀後半から、9つの詩編に曲が付され、3日間(聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日)に3曲ずつ演奏された。1つ終わるごとに、9つの枝にわかれた燭台のろうそくが1本ずつ消される。この日の演奏では、枝分かれした燭台に複数のろうそくが灯されていたが、聖週間ではないので、ろうそくを消すことまではしなかった。

上記のように本来は9曲から構成されるはずなのだが、クープランの場合3曲が現存していて、6曲が消失したのか、それとも何らかの事情で作曲されなかったのかは不明である。楽曲はグレゴリオ聖歌のような単旋律聖歌の様式で始まる。各歌はヘブライ語のアルファベット(アレフ、ベット、ギメル。。。)が付されている。いずれの曲もイスラエルの人への訴えで終わっている。

演奏は、ソプラノがヨハンナ・ローサ・ファルキンガーとマリ—・テオリール。ロリス・バルカンのオルガン。フランソワ・ガロンのチェロ。

レチタティーボ的な部分とアリオーゾの部分があり、1曲目、2曲目はソプラノ1人、3曲目のみが二重唱だった。アンコールはモンテヴェルディの聖母マリアの夕べの祈りから。

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《インドのアレッサンドロ》補遺

レオナルド・ヴィンチ作曲のオペラ《インドのアレッサンドロ》を再び観た。

今日は劇場にヴィデオカメラが3台以上入っていた。この音楽祭のヴィデオがブルーレイなどで発売されて欲しいと思うのは筆者だけではないのだが、どうもフランコ・ファジョーリの契約がネックになっている場合があるらしい。

今日の舞台では第3幕でハプニングがあった。インド王ポーロ(ファジョーリ)が、妹ネリッセ—ナ(アルディッティ)の衣装の裾を踏んでしまい、スカート状の部分がゆるゆるになり、ネリッセーナが衣装をぐるぐると腰のまわりで回したもののずり落ちそうになって難儀していたのだが、ポーロがすかさず後ろにまわり、ほつれた糸を結ぶような動作をしはじめた。オケは止まっておらずポーロの歌が来るとファジョーリはアルディッティの背後から顔を出して歌い始めたのである。

歌い終わると初日以上の大拍手。

ハプニングは起こるもの、ではあろうが、淡々と咄嗟のヘルプをしつつ、アリアを歌う姿は、賛嘆に値いするものだった。

この日は観客のノリが初日よりもよく、舞台の演出や、歌合戦のところでの椿姫やリゴレットの引用にもおおうけしていた。

 

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アンサンブル・ディドロ演奏会

アンサンブル・ディドロの「ドレスデンのトリオ・ソナタ」と題する演奏会を聴いた(オルデンス教会、バイロイト)。

演奏団体自体は近年結成され、古楽器を用いた4人組、ヴァイオリン2人、チェロ1人、チェンバロ1人。

それぞれの演奏技量は高い。

この日のプログラムはトリオ・ソナタを集めたものなのだが、有名な作曲家(ヘンデル、テレマン)に混じって、Fuxはまだしも、Tuma, Orschler という珍しい作曲家の作品が演奏された。これらの音楽家の楽譜はドレスデン宮廷の楽譜コレクションがもとになっている。18世紀にPisendel という人が集めたり筆写したりしたもの。

Tuma のフーガなどとても聴き応えがあった。演奏技術と楽曲の構造美があいまって一つの宇宙、ミクロコスモスを観ることが出来た。

 

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2022年9月 9日 (金)

ジャニーヌ・ドゥ・ビク・リサイタル

ソプラノ歌手ジャニーヌ・ドゥ・ビクのリサイタルを聴いた(バイロイト、辺境伯劇場)。

'Mirrors'と題されたリサイタルだが、これは彼女が最近録音したCDアルバムのタイトルでもあって、曲目は重複しているらしい。

何がミラーかというと、例えば

冒頭でヘンデルのオペラ《パルテノペ》の序曲が演奏されるが、休憩後の冒頭ではヴィンチのオペラ《パルテノペ》の序曲が演奏された。

2曲めに演奏されたのは、グラウンのオペラ《ロデリンダ》のアリアだが、3曲目はヘンデルのロデリンダのアリアという具合。同一の歌詞のアリアではないが、同じ題名のオペラのアリアを2人の作曲家で比較するという趣向が貫かれていて、聴く方は、単にドゥ・ビクの歌唱を味わうだけでなく、作曲家が同じ題材をどう扱ったか、作風の違いを味わうことが出来て聞きがいが2倍になるというものだ。

扱われた作曲家は、ヘンデル、ヴィンチ、グラウン、テレマンで、この日のオケはコンツェルト・ケルン。コンサートマスターは Yves Ytier. この団体は、きわめて合奏能力が高い。弦楽器も上から下まで実に達者で早いパッセージも難なくこなす。管楽器も同様。コンサートマスターの音楽的な傾向なのかも知れないが、はじける感じはあまりなく、適度に弾みながら決して音楽的に乱れたり破綻をきたさないというタイプであった。

ドゥ・ビクは、柔軟性のある声で早いパッセージもかなり見事にこなすのだが、アジリタ部分でところどころまわりきれない部分があり、それと関連するのだが、カント・バロッコとしての様式観が、ロマン派風の歌唱法に流されてしまう面があった。最大の問題点は発音が聞き取りづらくイタリア語の歌詞が聞こえてこないことで、これだけの声の持ち主なのだからもったいないことだと思った。

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アルス・アンティカ・アウストリア演奏会

ベネディクト・アントン・アウフシュナイター作曲のソナタを何作か聞いた(バイロイト、オルデン教会)

会場は町の中心部をやや離れているが、辺境伯劇場と同時期に、辺境伯が建てた教会とのこと。バロック様式の教会である。

ベネディクト・アントン・アウフシュナイター(1665−1742)は、生没年から判るように大まかに言えばバッハやヘンデルと同時代人であるが、この人はチロルで生まれたが、ウィーンに出て教育を受けたらしい。そしてGeorg Muffatの後継者としてパッサウに赴きカペル・マイスターとなった。

といかにも知っているような口振りで書いてしまったがこれはすべてプログラムにGunar Letzbor が書いていることであり、彼は当日の演奏グループ、アルス・アンティカ・アウストリアのリーダーでヴァイオリニストである。彼も書いている通り、アウフシュナイターは、まだまだ無名でアウフシュナイターって誰?という音楽ファンが圧倒的に多いと想像される。

Letzborが書いている通り、われわれはバロック音楽というとバッハやヘンデルの存在の大きさもあって、プロテスタントの音楽という刷り込みが無意識のうちにあるが、美術を考えれば明らかなように、バロック音楽は、南ドイツにもオーストリアにもあったわけで、アウフシュナイターは、カトリックのバロックの非常にすぐれた作曲家で、 Letzbor が再発見したらしい。当日は4つのソナタが演奏されたが、ヴァイオリンが中心的な存在であるものの、ヴァイオリン・ソナタというわけではなく、ヴァイオリン2丁、ヴィオラ1丁、チェロ1丁、オルガン、テオルボという編成で演奏された(一曲だけ、テオルボがお休みだった)。ポリフォニックな要素とホモフォニックな要素、和声的な要素が極端なギアチェンジなく、なめらかに交錯する聴き応えある音楽だった。解説によれば、宗教音楽も沢山作っており、そちらへの興味もかきたてられた。

当日演奏されたのは、教会ソナタとして1703年に作品4としてアウクスブルクで印刷されたもの。当時は教会ソナタが人気を博していたのである。彼の教会ソナタはヴィーンの伝統にそって、ほとんどが一楽章からなる(ただし、その中でアレグロ—アダージョなど変化は何度もある)。曲によっては Pars1, Pars2 と二部に分かれているものもある。また、それぞれのソナタは聖人に捧げられていて、それがカトリック的なことは言うまでもない。

音楽的にも演奏も充実して喜ばしい演奏会だったが、ヴィデオ・カメラが3台ほど入っていたので、どこかでストリーミング放送などされるかもしれない。

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《インドのアレッサンドロ》の演奏評

このオペラの上演は、非常に質が高かった。念入りに時間をかけて演奏も演技も練られたものであることがうかがえたし、蘇演であるにも関わらず、歌いぶりが堂々するところは堂々とし、叙情的な部分は細やかな情感を伝え、細部に至るまで荒削りなところがない。

フランコ・ファジョーリ(ポーロ)やブルーノ・デ・サ(クレオフィデ)らの歌手の演技・歌唱は極めてレベルの高いものであったのもさることながら、指揮・ヴァイオリンのマルティナ・パストゥスツカの弾き振りは、尋常のレベルではなかった。彼女は、一昨年にヴィンチの《ジスモンド》を何度も引き振りすることで、完全にヴィンチのスタイルをマスターし、今年はさらに踏み込んだ積極的な表現を選び取っているのがうかがえた。

リズムが生き生きとしているのはもちろん、フレーズの装飾音自体が、実に音楽的に響き、メロディーに対して装飾がついているというよりは、装飾音もふくめたフレーズが生命を得て踊り出すといった喜びに満ちた音楽なのである。上演時間は休憩を含め5時間、演奏時間は正味4時間ほどであったが、まったくだれるところがなく、次から次へと表情豊かな音楽が繰り広げられていく。会場の拍手も、主役級歌手に劣らず彼女に惜しみなく贈られてていたのも実に納得のいくことだった。



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《インドのアレッサンドロ》演出その2

演出の続き。

ツェンチッチが言うように、18世紀においては、リブレッティスタのメタスタジオは並ぶもののない第一人者であった。また古代ギリシアのアレクサンダー大王は18世紀に大変人気があったので、彼を扱ったオペラ(台本)を書くことが求められたわけである。

バロック期の支配者(王であれ、副王であれ)は、自分をアレクサンダー大王に見立てる、なぞらえることが好きだった。メタスタジオはエンターテイメントの中に、為政者の社会的・政治的テーマを織り込んだのである。

ツェンチッチは、読み替え演出で、舞台を19世紀初頭のイギリス、ジョージ4世の宮廷をイメージし、ブライトンのパヴィリオンが舞台で、そこで宮廷人たちがアレクサンダー大王のインド遠征をめぐる即興劇をしているという枠組みを設定している。

だからこのオペラ全体が劇中劇なわけである。

ツェンチッチが言うように、18世紀のヨーロッパ人にとってはインドは地理上の実在の国というよりも、『想像上の国』であった。そこを逆手にとって彼は登場人物たちの動き、ダンスにボリウッドの要素をふんだんに取り入れている。18世紀の人々のオリエンタリズムを異化しているわけだ。この狙いは見事に的中していると筆者は評価する。

前述のように、初演当時のローマでは、教皇の方針で女性歌手が歌えず、女性の役はカストラートが歌い演じたわけだが、今回のカウンターテナー歌手たちの化粧ぶり、しぐさの優雅さは、特筆ものであった。デ・サ演じるクレオフィデを女性が歌っていると勘違いしたジャーナリスト、批評家もいたとプロダクション関係者より聞いた。

こうしてインド王ポーロに対する「偏見」は、ダイレクトなものではなく、18世紀の、劇中劇の中の、女性役を男性が演じる中でのキャラクターという仕掛け、配置になっているのである。

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《インドのアレッサンドロ》演出その1

前項から続くヴィンチ作曲メタスタジオ台本のオペラ《インドのアレッサンドロ》の今回の上演(第3回、バイロイト・バロック・オペラ・ファスティヴァル、2022年9月)の演出意図について、演出のマックス・エマニュエル・ツェンチッチが語っているので、筆者の意見も交えてご紹介する。可能な限り、演出意図と筆者の意見は区別がつくように記す。

ツェンチッチは音楽監督として、この音楽祭の企画にも関わっているわけだが、ある一つのテーマで固めようとするのではなく、バロック期の汲めどもつきぬ作品群の中から、埋もれているもの、当時から現代まで演奏されていないものを発掘し、取り上げることを第一に考えているという。そのため音楽学者とも綿密な協力関係を持ち、復活させるにふさわしい作品を探し続けているとのこと。

もう1点彼が重視しているのはアーティストの質である。筆者も常々感じているところだが、どの時代の音楽でも演奏者の質が大切なのは言うまでもないことなのだが、バロック期の作品は、演奏者に対する依存性、とりわけ技巧的依存性が高いと考える。カストラートの場合が典型的だが、10代前半からプロになるべく徹底的な音楽教育、歌唱の訓練をほどこされたものがスターになるシステムでは、作曲家も高度な技巧を駆使できる歌手を前提にして(多くの場合、特定の歌手に当て書きして)作曲しているわけで、その技巧を駆使できる歌手が激減した時に、バロック・オペラが上演されなくなったのは、趣味・趣向・流行の問題とあいまって、納得のいく話である。



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レオナルド・ヴィンチ《インドのアレッサンドロ》その4

第3幕のあらすじ。

ポーロは妹のエリッセーナのところへやってきて、彼が生きていることはクレオフィデに言わないでくれと言う。アレッサンドロ暗殺計画があるのだ。アレッサンドロの部下であるティマジェーネに疑いをもつエリッセーナを説得するため、ポーロは彼女に計画の詳細を書いた手紙を渡す。

そこへ怒ったアレッサンドロが入ってくる。彼の怒りは、クレオフィデとの結婚を部下たちに反対されたためなのだが、エリッセーナは暗殺計画がばれたせいだと勘違いし、例の手紙をアレッサンドロに差し出してしまう。

 ティマジェーネが戻ってきて、結婚に対する反対を抑えましたと報告するが、アレッサンドロは彼に手紙を突きつける。アレッサンドロは多少脅しをかけつつも許す。ポーロに会ったティマジェーネは例の手紙を破り捨てる。ポーロは再び自殺しようとするがガンダルテに止められ、そこへエリッセーナがやってきてクレオフィデがアレッサンドロと結婚する意思を固めたと告げる。バッカスの神殿で儀式が執り行われる寸前に、クレオフィデは愛する人(ポーロ)が死んだので自分も死ぬと言い出す。クレオフィデの愛の行為を見て、隠れた場所からポーロが現れ、クレオフィデに赦しを乞い、アレッサンドロに降伏する。寛大なアレッサンドロはポーロに妻と王国を返還した。

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レオナルド・ヴィンチ《インドのアレッサンドロ》その3


第二幕のあらすじ

クレオフィデに会おうとイダスペ川を渡るところでアレッサンドロは待ち伏せ攻撃に遭う。ポーロの部下ガンダルテが仕掛けたのだ。戦闘から逃れたクレオフィデはポーロと会い、自分の愛を信じてくれないのなら死ぬという。二人が和解したところへギリシア軍がやってくる。二人は自殺をしようとするがアレッサンドロに止められる。アレッサンドロの部下ティマジェーネが、軍はクレオフィデに対し怒り復讐を求めていると報告する。アレッサンドロはクレオフィデを軟禁し、アスビーテに変装しているポーロをティマジェーネにゆだねる。アレッサンドロは、クレオフィデに、彼女を救うためには自分と結婚するしかないと告げる。

ポーロに変装したガンダルテがやってきて待ち伏せの全責任は自分にあると告げる。その行為にアレッサンドロは心を打たれ、彼を赦し、クレオフィデを彼にゆだねる。そこへ、ポーロの妹エリッセーナがやってきてポーロが自殺したと告げる(第二幕終わり、休憩)。





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レオナルド・ヴィンチ《インドのアレッサンドロ》その2

このオペラのストーリーを紹介しよう。

三幕ものである。

第一幕は、インド王ポーロ(フランコ・ファジョーリ)とアレクサンダー大王(以下アレッサンドロ、マーヤン・リヒト)が戦いアレッサンドロが勝つ。ポーロは自殺を考えるが、将軍ガンダルテ(シュテファン、ズボニック)が愛するクレオフィデ(ブルーノ・デ・サ)のことを考え思いとどまるよう説得し、ポーロとガンダルテの服を取り替え、ポーロはアスビーテとなる。

演出上の工夫でこの上演ではアレッサンドロ側の人間は洋服を着ていて、インド側の人間はインド風のサリーのような服だったり男はターバンを巻いていたりでともかく2つのグループには一目で見分けられるのだった。

アレッサンドロはこの幕でもその後も常に寛容で、敵を何度も許すのだった。人質となったポーロの妹エリッセーナ(アルディッティ)をも釈放する。アレッサンドロ側の将軍ティマジェーネ(ニコラス・タマーニャ)はエリッセーナに恋しているところから敵味方が交錯する。

ポーロはクレオフィデに対し大変嫉妬深く、彼女がアレッサンドロと交渉をすると、恋仲をうかがい、クレオフィデの怒りを買い、もう疑わないと誓うのだが、またすぐに嫉妬にかられるという性格。

ガンダルテがやってきて敵方のはずのティマジェーネがインド側で戦うという知らせをもたらす。しかしポーロは変装したままクレオフィデの後を追ってアレッサンドロの陣営に行く。クレオフィデは女性としての魅力も行使しながらアレッサンドロとポーロの間の和平をとりもとうとする。そこへ変装したポーロが乱入し、アレッサンドロは退場し、ポーロとクレオフィデは互いを非難する。(1幕終わり、休憩)



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2022年9月 8日 (木)

レオナルド・ヴィンチ作曲《インドのアレッサンドロ》(1)

レオナルド・ビンチ作曲、メタスタジオ台本のオペラ《インドのアレッサンドロ》を観た(バイロイト、辺境伯劇場)。

第三回となるバイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルのオープニング公演であり、演奏も演出も時間をかけて練り上げられたことがひしひしと感じられる充実したものだった。

去年、一昨年のバイロイト・バロック・フェスティヴァルのメインの公演はポルポラのオペラ《カルロ・イル・カルヴォ》だったので、このバロック・オペラ・フェスティヴァルは今のところナポリ派の埋もれた作品を蘇演している(《カルロ・イル・カルヴォ》の場合は、コンサート形式で他の場所で先に演奏はした。しかし舞台を伴ったものはこの音楽祭での公演だったので、どちらを蘇演と呼ぶかは蘇演の定義次第となろう)。

今回の《インドのアレッサンドロ》の場合は完全に蘇演である。

アレッサンドロというのは古代ギリシアのアレクサンダー大王のことで彼のインド遠征が歴史的背景としてある。メタスタジオのオペラ・セリアの台本ではよくあることだが、主要登場人物やその人物間の敵対関係、支配・従属関係は歴史書にほぼ従っておいて、そこで敵味方を越えて、あるいは味方のなかでの恋愛関係はメタスタジオが自由に創作したものというパターンを踏んでいる。

このオペラの初演はローマのテアトロ・デッレ・ダーメであるが教皇の方針により当時は教皇領のもとで女性歌手が歌うことが禁じられており、アレッサンドロの妹エリッセーナも、インド王ポーロの婚約者クレオフィデも男性歌手(カストラート歌手)が演じていた。今回の上演でもそれを踏まえて、歌手は全員男性でエリッセーナ(ジェイク・アルディッティ)もクレオフィデ(ブルーノ・デ・サ)もカウンターテナー歌手が演じていた。細かく言うと、いわゆるカウンターテナー歌手には広義のものと狭義のものがあって、広義の場合には女性歌手の音域で歌っている人をカウンターテナーというが、通常はメゾかアルトの音域の人が多い。カウンターテナーの中でソプラノ音域を歌う人は一般のカウンターテナーと区別してソプラニスタと言う場合もあり、クレオフィデを演じたデ・サはまさにソプラニスタで、化粧が巧みなこともあり、日本の歌舞伎の女形以上に、女性になりきっていた。エリッセーナ役のアルディッティも姿に関しては同様で、メイクアップをプロがやると胸の膨らみも含め少し距離が離れるとまったく女性に見えるのだった。ちなみに当日はバレエダンサーも10人ほど出てきて複数の女性役がいたのだが実は全員男性が踊っていたのである。

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2022年9月 7日 (水)

トルコ航空

今年の9月初めてトルコ航空に乗った。素晴らしい航空会社だと思うがいくつか癖のようなものがあるので、

ご参考のために。

1.出発時間が前倒しになることがある。

飛行機は定刻に出てくれれば順調で、様々な理由で遅延を何度も経験した。しかしトルコ航空では前倒しになることがあるのだ。例えば22時5分発の飛行機が19時50分発に変更(しかも飛行場に来てそれを知った)になったのは初めてだった。

トルコ航空に乗ったことのある知人の話でも、出発時間が予定より早くなることはトルコ航空ではままあるようである。

だからか、機内に乗客を乗せる時間も早めである。出発の30分前よりも早い時間からどんどん搭乗させていく。

2.機内食は美味しい。機内食としてまともである。私の乗るのはエコノミーなので、最初から期待値は低いのであるが、航空会社によっては、肉や魚に得たいのしれないどろっとしたソースがのっていることがあるが、トルコ航空の料理はそれがなかった。肉もケバブと称して、肉団子が薄い塩味と胡椒プラス何かのハーブという感じでシンプルでおいしい。ヨーグルトもしつこく甘いということはないし、チーズもある種のプロセスチーズのようにゴムっぽいということはなくまっとうなチーズだった。

3.僕の今回の行き先はドイツで、最初はルフトハンザでチケットを取っていた。ところが2022年の夏、ヒースロー空港やフランクフルト空港は大混乱という情報がはいってきた。コロナのために大幅な減便をして人も減らした。そこへこの夏、大増便をしたが人が以前通りに戻っていないので作業が追いつかず、ロスト・バゲッジが頻出し、空港は混乱しているという情報・ニュースを何度が見聞きした。困ったことだと思っていたところへ自分が予約していたルフトハンザ便が飛ばないことになったとの連絡。それではというので、以前に提案されていたトルコ航空にしてみたのだ。イスタンブール空港は初めて使ったがいかにも国際的なハブ空港。ラウンジで、お祈りの場所が広めにとられていた気がする。イスタンブール空港からはフランクフルト空港のようなハブ空港だけでなくニュルンベルク空港にも便があり、今回僕はそれを利用した。イスタンブールからニュルンベルクは2時間50分である。

4.トルコ航空で機内で観られる映画は、日本の映画は、当然とも言えるが、日本の航空会社と比較するとやや少ない気がした。英語字幕でもよければ、トルコ映画の新作も、旧作も見ることができるし、ヨーロッパの映画も見られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヴェネツィア・カンタータ百年の系譜

ヴェネツィア・カンタータ百年の系譜、と題するコンサートを聴いた。ディスコルシ・ムジカーリの演奏で、ところどころに団体主催者の佐々木なおみさんの解説が入る。佐々木さんの解説にあるように、ヴェネツィアは他に先駆けてカンタータが盛んになり楽譜も出版されるのだが、バルバラ・ストロッツィの1664年の最後の曲集以来、約30年の空白期がある。その後、復活するカンタータには重唱カンタータが顕著になるというのがコンサートを貫くコンセプト。カンタータの合間に2曲のヴァイオリン・ソナタ(カンタータと同時代の)が演奏された。ソナタといってもソナタ形式とはまだ無縁の時代。ここで重要なのは、ポリフォニー音楽からの訣別で、ヴァイオリンが旋律も奏で、華やかな装飾音も奏で、縦横無尽の活躍を見せる一方、それを複数の通奏低音楽器が支えていた。ポリフォニーの場合、ある声部(を担当する楽器、人)と他の声部は対等であるが、ヴァイオリン・ソナタの場合、ヴァイオリンが圧倒的に他の楽器を従えている主従関係で、これが当時は新しかったのだと納得。

 単声と重唱のカンタータの説明はまったく上記の通りなのであるが、個人的にはレグレンツィの重唱カンタータのポリフォニック的要素(伝統的要素)を多分にもった曲が魅力的であった。ソプラノ、アルト、テノールに旋律が受け渡されつつ、交差する音がハーモニーを奏でていく様が実に耳に心地よく、レグレンツィのもっといろいろな曲を聴いてみたいと思った。

 単声のカンタータは、ポリフォニー音楽から離れて、ホモフォニー的な響きが当時は新しかったのだと思うし、それはルネサンス期からバロック期にかけて世界観・宇宙観が変容したことと関係があるだろうというのが最近の筆者の見立てであり、関心事である。

 演奏はどの曲も充実していて、歌手の各声部、チェンバロ、オルガン、バロック・ハープ、バロック・チェロ、テオルボと豪華な編成で、バロック・ハープに関しては楽器の説明があった。バロック・ハープは三列に弦が並び、両脇の二列がピアノなどの白鍵に相当し、真ん中の列の弦は黒鍵に相当するという説明は判りやすかった。実に中身のつまった充実し、音楽的な愉しみにあふれたコンサートであった。

場所は入谷のミレニアムホール。

 

 

 

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