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2022年5月30日 (月)

映画『小さなからだ』

ラウラ・サマーニ監督の映画『小さなからだ』を観た(イタリア映画祭2022、オンライン上映)。

この作品は、ある女性が死産の赤ん坊の遺体とともに旅をするロードムービーであるとともに、2021年のダンテ没後700年へのオマージュの映画でもあると思う。

ダンテへのオマージュであると考える理由を述べる。冒頭近くで、女性は、司祭に赤ん坊に名をつけてくれというが拒絶される。赤ん坊はまったく息をしていなかったから、というのがその理由だ。そういった赤ん坊はリンボー(辺獄)に行くとされている。ダンテの『神曲』では、あの世は大きくは天国、煉獄、地獄に分かれているのだが、地獄の第一層としてダンテは辺獄を描いている。死んだら会えるかと問う女性に、司祭は夢の中でならと応える。女性はなんとか死んだ子に洗礼をさずけ名前をつけたいと考え、それが可能になる(一瞬、死んだ子が息をする)教会があるというところまで旅をする。その旅は波乱にみち、彼女は人身売買の対象となったり、途中で山賊に襲われたりする。

ある渓谷の湖の向こう岸にその特別な教会はある。

そこまで女性は羊飼いのような少年(?)と旅をする。この少年は彼女をだましもするのだが、途中からは旅の友となる。後半で彼のアイデンティティーがより明らかになるのだが、それには触れないでおこう。

100年近く前のフリウリ地方の習俗が興味深いと同時に、リンボーに行くはずの遺児をなんとか救いたいという信念も印象的な映画であった。

 

 

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2022年5月22日 (日)

《マルクスは待ってくれる》

マルコ・ベロッキオの映画《マルクスは待ってくれる》を観た(イタリア映画祭2022)。

今年のイタリア映画祭は、実際の映画館と ストリーミングで実施され、僕が観たのはストリーミングによるもの。

この映画はドキュメンタリー映画で、ベロッキオの兄弟、姉妹(80代かと思われる)が出てきて、インタビューに応じている。ベロッキオの生まれ育った家庭、兄弟、姉妹の関係が解き明かされるのだが、マルコの兄弟、姉妹はきわめて個性的なのだ。

兄の一人は優秀でインテリの世界の有名人を家に招いたりする人だった。マルコも映画界で名をなしていく。しかし、一方で、兄の一人は、始終、罵詈雑言をわめきちらす奇異な言動の持ち主で、マルコは家族は彼が死ぬのを待ち望んでいたと証言している。姉の一人は聾唖者であるのか、発話が聞き取りにくい(日本語字幕が出るので、映画の内容を理解するのにはまったく問題はない)。しかし何より彼らが抱え続けた最大の問題は、マルコの双子の弟カミッロが29歳で自殺したことだ。

この映画はそれがなぜだったのか、をめぐる物語だ。優秀な兄がいて、自分が凡庸であることをどうやって受け入れるのか、受け入れられないのか。カミッロの苦しみは、兄弟、姉妹によって見逃されてしまったのは何故か。

マルコもふくめ1960年代後半は、左翼が熱い季節だったわけだが、人民を救うことに夢中になるあまり家族の苦しみに気づかなかった兄弟たち。カミッロは「マルクスは待ってくれる」と反論したという。

これまでのベロッキオ作品を解き明かすヒントに満ちている映画で、ベロッキオ作品をこれまで見てきた人にはおすすめである。またイタリアの兄弟・姉妹、家族(母の性格も際立っている。彼女はとても信心深いのだ)、ベロッキオ世代(彼は1939年生まれ)の家族の貴重な証言でもある。

 

 

 

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《ラ・ペッレグリーナ》のインテルメディオ

《ラ・ペッレグリーナ》のインテルメディオを観た(ミレニアムホール、入谷)。

原語のタイトルに Gli intermedi da La Pellegrina per le nozze di Ferdinando de' Medici e di Cristina di Lorena (1589) (プログラムにはFrancesco de' Medici とあるが、Ferdinando de' Medici の誤植か)とあるように、メディチ家の当主の結婚式の祝宴で《ラ・ペッレグリーナ》という喜劇が演じられ、その幕間に短めの音楽劇がえんじられた。それをインテルメディオ(またはインテルメッツォ)という。

当日のプログラムには萩原里香氏の詳細で、わかりやすい解説が載っていて1589年に初演された作品の理解をおおいに助けてくれる。さらに当日は舞台の右端にスクリーンがあって、字幕と絵画が示された。字幕は歌詞の日本語訳であり、絵画は、このインテルメディオの舞台装置を担当したベルナルド・ブオンタレンティ(宮廷建築家)による絵画で、初演時の舞台がどんなものであったのかを彷彿とさせる。ブオンタレンティに関しては渡辺真弓氏の懇切丁寧な解説があって、彼がバザーリを受け継いで宮廷建築家となり、フランチェスコ1世(フェルディナンドの兄)のもとでウフィーツィを整備し、幕間劇においては「動く舞台装置」で評判をとったことが紹介されている。

当日の演奏は演奏会形式であったが、字幕と絵画により、今歌っているのがどんな場面で、本来、どんな登場人物(アルモニーアであったり、シレーネであったり、と普通の人間ではなく、イデアの表象であったり、ニンフや神々であったりする)が出てきて、直接、間接に婚礼をほめたたえているのかがわかる仕組みとなっていた。第一のインテルメディオ「天球の調和」では、アルモニーアが雲に乗って地上に降り来たり、フェルディナンドと新妻をアルチーデ(ヘラクレス)とミネルヴァ女神にたとえる。シレーナたちも到着しアルノ川の波は銀色にほとりは金色に染まるといい彼らの未来を祝福する。「6つのインテルメディオの内容は個々に独立しているが、全体としてはネオプラトニズム的な宇宙観や音楽によろう調和という寓意によって大公夫妻へのオマージュを表明している」(渡辺真弓氏の解説から)。こうした劇の特徴は、最初はとっつきにくいかもしれないが、慣れてくると、だからこそ面白いとも言える。つまり、われわれが慣れ親しんでいる19世紀以降のオペラや映画やテレビドラマのリアリズムに基づく世界とは世界観がまったく異なるのであり、だからこそ新鮮で、別世界に心を遊ばせることが出来る。想像力を働かせる際に、前述のブオンタレンティの絵画が具体的なイメージをかきたててくれるのである。

 また、このインテルメディオ全体の構想はジョヴァンニ・デ・バルディ(カメラータの主催者)で詩のほとんどはリヌッチーニによって書かれたが、全体の総監督はエミリオ・デ・カヴァリエーリ(作曲も一部担当)に委ねられた。フェルディナンド公は枢機卿であった時代にローマに滞在し、この地の作曲家カヴァリエーリと親しくなったと考えられている。しかしローマから来た者が総監督ということで、バルディやリヌッチーニとの間には確執があったとも考えられている。このあたりの劇場関係者たちの入り組んだ事情も萩原氏の解説に詳しい。

 第二部の冒頭では、指揮の福島康晴氏が、演奏の流れを断ち切りたくはないのだが、と断りつつ、当日演奏に用いられた古楽器・ピリオド楽器の紹介をしていた。

演奏も大変充実したものだった。1589年ということからオペラが生まれる前夜であり、歌詞を書いた人物(リヌッチーニら)はまさにオペラ誕生に関わった人であるが、この日のインテルメディオを観ると、音楽的にもテクスト的にも、1つ1つの場面の長さの制限がなくなれば、エウリディーチェとオルフェオを扱ったオペラ草創期の作品まではあと一歩だと強く感じられた。そういう意味でも大変興味深かったし、音楽自体も、祝祭的なムードがあるし、歌には相当に技巧的なところもあり、楽器のヴァラエティーもうまく活かされていて聴き応えがあった。

エクス・ノーヴォというグループによる上演だが、彼らは11月にカヴァリエーリの《魂と肉体の劇》(1600)を上演するとのことでおおいに期待がもてる。

 

 

 

 

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