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2022年3月 8日 (火)

《アミーコ・フリッツ》

マスカーニ作曲のオペラ《アミーコ・フリッツ》を観た(マッジョ・ムジカーレ・フィオレンティーノ劇場、フィレンツェ)。

今回も新しいホールのサラ・ズビン・メータ(ズビン・メータ・ホール)で、指揮はまたしてもリッカルド・フリッツァ。僕は別にフリッツァの追っかけでもなんでもないのだが、ナポリでもフィレンツェでも、たまたま、彼の指揮に遭遇することになった。

《アミーコ・フリッツ》を劇場で観るのは、調べてみると2004年に新国立劇場の小劇場で観て以来である。牧歌的なオペラと言われているがたしかにその通りで、今回の方がその魅力を味わうことができたのは、演奏にもよるところがあるかもしれないが、こちらが年齢を加えてオペラの見方

、味わい方に変化があったからだろうと思う。

《アミーコ・フリッツ》は《カヴァレリア・ルスティカーナ》の翌年に書かれているわけだが、まったく作風が違う。《カヴァレリア》はヴェルガの短編が原作で、シチリアの村での不倫とそれが露見しての決闘そして死の物語だ。主人公は婚約者と人妻の間でというか、婚約者を棄てて、人妻に走り、ついには死を迎える。それに対し《アミーコ・フリッツ》は、独身主義者のフリッツが、ユダヤ教のラビに結婚をすすめられるが、断り続け、しかし純朴な娘スゼルに惹かれ、ついに彼女と結ばれる、という話でたわいもないと言えばたわいもない話だ。

音楽的にも、《カヴァレリア》のようにくっきりとしたアリアが乏しく、ヴァーグナーの影響か、アリアとレチタティーヴォの区別が判然とせず、かつ盛り上がりかかるかと思うと頂点に達する前に下ってしまうメロディーが多い。ストーリー的にも音楽的にも微温的なのであり、そういうオペラも悪くない、という境地には加齢が一番の薬ということか。微温的なメロディーとは言うものの、歌とオーケストレーションの関係にはところどころに斬新で新しい時代を感じさせる響きが聴かれる。20世紀のオペラの世界を切り開きつつあるという感じだ。ところどころは弦のトゥッティでなんとももっさりした感じのところもまたあるのだが。

このオペラを組み立てる時に、室内楽的に行く方向もあるだろう。ストーリーはそういう方向性を示している。大袈裟なドラマが不在だから。この日の舞台は、劇場の空間を全部使用せず、箱のなかで演じているという感じの舞台で、舞台の両袖が狭く、天井が低くなっていた。

指揮や歌手の演奏はと言うと、ところどころで室内楽的な精妙さを見せながらも、歌いあげるときには、いかにもロマンティックなオペラと同様の大ぶりな歌い上げ、鳴らしっぷりを披露していた。

スーゼルは、Salome Jicia. 純朴さを表現するには、もう少しヴィヴラートが控えめであると好ましいと思ったが、それ以外は良かった。フリッツはテノールでCharles Castronovo. ベッペというのはズボン役で Teresa Iervolino. David というユダヤ教のラビがMassimo Cavalletti. バリトン。

第二幕でのラビとスーゼルの会話が変わっていて、ラビのダヴィッドはスーゼルから水をもらうのだが、それに延々と旧約聖書のレベッカのエピソードをかぶせてきて、スーゼルこそが、フリッツのために自分が探し求めている花嫁なのだと説き伏せようとする。リアルな感覚でのみ観ると奇妙な話だが、寓意的に観ればなかなか面白い。レベッカの挿話を通じて、スーゼルがいかに理想的な結婚相手かということがラビの目を通して語られるのである。

このラビは、ある意味では、モーツァルトの《コシ・ファン・トゥッテ》のドン・アルフォンソと似ていて、フリッツが結婚するかどうかでフリッツと賭けをするのだ。物語の内実は、《コシ・ファン・トゥッテ》の正反対と言えようが、結局彼が賭けに勝つのだ。ただし、このラビは強欲ではなくて、賭けの賞金であるブドウ畑を自分が得るのではなくスーゼルのものとする。この点もモーツァルト作品とは正反対なのだ。

両者に共通する点は、何か。愛とは何かを、まったく正反対の方向から浮かび上がらせる物語、音楽劇だと言えるだろう。

 

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