イタリア語のウィキペディア
クイズ番組で知ったこと。
イタリア語のウィキペディアが出来たのは2001年で2002年に600ページを超えた。2022年現在は700万ページを超えている。項目としては170万以上の項目がある。
あらためて言うまでもないが、インターネットの世界は20年たつと全く別世界である。
ちなみに、イタリアのウィキペディアという言い方は正しくなくて、ウィキペディアは国ではなく言語別にわかれているので Wikipedia in italiano というのが正しいのだそうだ。
クイズ番組で知ったこと。
イタリア語のウィキペディアが出来たのは2001年で2002年に600ページを超えた。2022年現在は700万ページを超えている。項目としては170万以上の項目がある。
あらためて言うまでもないが、インターネットの世界は20年たつと全く別世界である。
ちなみに、イタリアのウィキペディアという言い方は正しくなくて、ウィキペディアは国ではなく言語別にわかれているので Wikipedia in italiano というのが正しいのだそうだ。
今年度も、もうあと二週間あまりとなった。この項は、まったく個人的な雑感・所感であることをお断りしておきます。
今年度の前半、日本にいたときに、Nさんという僕より10歳ほど若い友人の突然の死を知った。Nさんは京都、私は東京に住んでいたので、実際に会うのは年に数回であったが、バロック・オペラの愛好者、研究者という縁で、不定期にメールのやりとりをしていた。彼女のメールは非常に機知に富んでいて、毎回どこかで爆笑させられるのだった。だからNさんからのメールは楽しみだった。また、拙ブログに対する感想を述べてくれる極めて数少ない読者の一人でもあった。演奏会評などについても、そこが知りたかったので助かったとか、私が聴いた時はこうこうでした、といった情報交換や、さりげなく、僕の知らないことを教えてくれることもたびたびあった。精力的にヨーロッパのオペラ上演を見て回っておられたので、まさかの訃報であった。
8月にイタリアに来て、もうコロナも下火になってきたな、と思っていたところにオミクロンという新型が押し寄せてきた。周知のように、イタリアだけでなく、世界中に押し寄せたわけで、イタリア政府は3回目のワクチン接種を積極的に推進し、私もイタリアで3回目の接種を受けた。ワクチンに関しては、今回のワクチンがまったく新たなタイプのワクチンであることもあり、中長期的な懸念を表明している人もいることは承知している。言われてみれば、このタイプのワクチンを接種して20年、30年経過した人はいないわけで、将来どんな影響がたとえば免疫システムに対してあるか、ないかはデータがないのだから、わからないとしか言えないであろう。
オミクロンが大流行の間は、EU諸国の間の移動でもさまざまな制限が加わった。そのため当初予定していたヴィーンとマルタへの旅は断念した。海外で一人暮らしをしていて、コロナにかかったらどう対処すればよいのか、というのは一抹の不安があったが、ワクチンで重症化の可能性は低いと考え、食料や水の備蓄をするにとどめた。
3月に入って、研究会や委員会的な組織の活動でご一緒していたKさんが、昨年の11月に亡くなっていたことを知った。その訃報の情報から計算すると自分と2つしか歳が違わない。コロナになってから対面でお目にかかることがなくなり最後にいつ会ったのかは記憶にないのだが、病気がちという認識はまったくなかった(それを見せない人だったということなのかもしれないが)。
2月の末からはウクライナで戦争が始まり、3月13日時点で終わる気配はまったくない。昨日はフィレンツェのサンタ・クローチェ広場で平和を願う集会があり、2万人が集まったそうだが。
コロナ以来、当たり前だと思っていたこと、慣れ親しんでいたことには、見えなかった前提があり、その前提が崩れることによって、当たり前の風景が消えてしまうことを何度か経験した。
人間がこの世に存在していることも、思えばそういう面もある。長寿化とか、人生100年とか言われ、長寿の人が増えているのもたしかだ。しかしその一方で、50代、60代で亡くなる方もいる。人がこの世に生きていることは、生まれた以上当たり前のようでいて、必ずしも当たり前ではないのだ。明日は今日の続きのような気がしているが、そうとは限らない。死を忘れるな(メメント・モーリ)、という古くからの言葉が今年はいっそう身近に感じられる。
エウローパ・ガランテのハイドンを聴いた(ペルゴラ劇場、小ホール)。
サロンチーノ(小ホール)での演奏会。ここは劇場の2階で300人収容のホール。
エウローパ・ガランテは日本にもたびたび訪れているが、ファビオ・ビオンディ率いる室内楽団で、この日のメンバーは8人。ヴァイオリン3人、ヴィオラ1人、チェロ1人、コントラバス1人、チェンバロ1人、テオルボ1人。チェンバロのPaola Poncetだけが女性。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは1732年の生まれで、この日演奏された4曲は、順に、2丁のヴァイオリン、ヴィオラ、バスのためのディヴェルティメント ニ長調(1763)、六重奏《エコー》(1761)、カッサツィオーネ(ディヴェルティメント)ト長調(1753−54)、ヴァイオリン、チェンバロ、弦楽のためのコンチェルト、ヘ長調(1765)で20代および30代前半の作品である。1809年まで生きながらえたハイドンとしては若き日の作品である。
このところ、バロック期の音楽を集中的に聴いている身には、ハイドン初期の音楽はまったく異なったものに聞こえる。対位法的な旋律の受け渡しはしっかりある。6重奏の《エコー》などは極端なまでにそうで、最初ステージにヴァイオリン2人とチェロ1人が現れた時には、おやっと思ったのだが、演奏が始まると謎がとけた。ステージの3人がソファミと奏でると、舞台下のドアの向こうからソファミとエコーのような3人の演奏が聞こえるのだ。これは舞台上の三人のフレーズが長い時もあり、短いときもあり、中くらいのときもあり、その時々で変化するのだが、エコーするのはずっと同じで、楽章の終わり、大きな区切りの時だけエコーがなくなる。しかし1楽章から5楽章まで延々とエコーしていくのだ。ある意味、過激で実験的な音楽であるし、この手法だけで通すというのは力技であると感心した。
それにしても初期のハイドンはドライである。音階のようなフレーズが、淡々と受け渡され、何度か上に行き、下に行き繰り返される。繰り返しの間に別の主題が現れるがそれもまた音階的なメロディーだったりする。ロマン派の正反対である。感情過多なものにも距離を置きたくなっているが、ここまでセッコだと、メロディを楽曲のなかに探し求めたくなってしまうのだった。教会の床や壁でも聖人などの像がなく、幾何学模様だけが描かれている(得にモザイクや石などで)ことがあるが、それに近い感じでもあった。
アンコールが面白くて、ビオンディ自らが解説していたが、今夜聴いたのはハイドンの初期の作品で、後にハイドンは交響曲を発展させていく。その際にミラノの楽派の影響を受けたというのだ。その代表として、アントニオ・ブリオスキのある交響曲の最終楽章を演奏した。これが素晴らしかった。初期の交響曲に、こんなフレッシュで旋律の魅力もある交響曲が存在していたのだ。バロックに限らず、イタリア各地の音楽的伝統は再発見の余地がどれだけあるのかと、つくづく思う。
マスカーニ作曲のオペラ《アミーコ・フリッツ》を観た(マッジョ・ムジカーレ・フィオレンティーノ劇場、フィレンツェ)。
今回も新しいホールのサラ・ズビン・メータ(ズビン・メータ・ホール)で、指揮はまたしてもリッカルド・フリッツァ。僕は別にフリッツァの追っかけでもなんでもないのだが、ナポリでもフィレンツェでも、たまたま、彼の指揮に遭遇することになった。
《アミーコ・フリッツ》を劇場で観るのは、調べてみると2004年に新国立劇場の小劇場で観て以来である。牧歌的なオペラと言われているがたしかにその通りで、今回の方がその魅力を味わうことができたのは、演奏にもよるところがあるかもしれないが、こちらが年齢を加えてオペラの見方
、味わい方に変化があったからだろうと思う。
《アミーコ・フリッツ》は《カヴァレリア・ルスティカーナ》の翌年に書かれているわけだが、まったく作風が違う。《カヴァレリア》はヴェルガの短編が原作で、シチリアの村での不倫とそれが露見しての決闘そして死の物語だ。主人公は婚約者と人妻の間でというか、婚約者を棄てて、人妻に走り、ついには死を迎える。それに対し《アミーコ・フリッツ》は、独身主義者のフリッツが、ユダヤ教のラビに結婚をすすめられるが、断り続け、しかし純朴な娘スゼルに惹かれ、ついに彼女と結ばれる、という話でたわいもないと言えばたわいもない話だ。
音楽的にも、《カヴァレリア》のようにくっきりとしたアリアが乏しく、ヴァーグナーの影響か、アリアとレチタティーヴォの区別が判然とせず、かつ盛り上がりかかるかと思うと頂点に達する前に下ってしまうメロディーが多い。ストーリー的にも音楽的にも微温的なのであり、そういうオペラも悪くない、という境地には加齢が一番の薬ということか。微温的なメロディーとは言うものの、歌とオーケストレーションの関係にはところどころに斬新で新しい時代を感じさせる響きが聴かれる。20世紀のオペラの世界を切り開きつつあるという感じだ。ところどころは弦のトゥッティでなんとももっさりした感じのところもまたあるのだが。
このオペラを組み立てる時に、室内楽的に行く方向もあるだろう。ストーリーはそういう方向性を示している。大袈裟なドラマが不在だから。この日の舞台は、劇場の空間を全部使用せず、箱のなかで演じているという感じの舞台で、舞台の両袖が狭く、天井が低くなっていた。
指揮や歌手の演奏はと言うと、ところどころで室内楽的な精妙さを見せながらも、歌いあげるときには、いかにもロマンティックなオペラと同様の大ぶりな歌い上げ、鳴らしっぷりを披露していた。
スーゼルは、Salome Jicia. 純朴さを表現するには、もう少しヴィヴラートが控えめであると好ましいと思ったが、それ以外は良かった。フリッツはテノールでCharles Castronovo. ベッペというのはズボン役で Teresa Iervolino. David というユダヤ教のラビがMassimo Cavalletti. バリトン。
第二幕でのラビとスーゼルの会話が変わっていて、ラビのダヴィッドはスーゼルから水をもらうのだが、それに延々と旧約聖書のレベッカのエピソードをかぶせてきて、スーゼルこそが、フリッツのために自分が探し求めている花嫁なのだと説き伏せようとする。リアルな感覚でのみ観ると奇妙な話だが、寓意的に観ればなかなか面白い。レベッカの挿話を通じて、スーゼルがいかに理想的な結婚相手かということがラビの目を通して語られるのである。
このラビは、ある意味では、モーツァルトの《コシ・ファン・トゥッテ》のドン・アルフォンソと似ていて、フリッツが結婚するかどうかでフリッツと賭けをするのだ。物語の内実は、《コシ・ファン・トゥッテ》の正反対と言えようが、結局彼が賭けに勝つのだ。ただし、このラビは強欲ではなくて、賭けの賞金であるブドウ畑を自分が得るのではなくスーゼルのものとする。この点もモーツァルト作品とは正反対なのだ。
両者に共通する点は、何か。愛とは何かを、まったく正反対の方向から浮かび上がらせる物語、音楽劇だと言えるだろう。
通奏低音のマスタークラスを聴講した(ヴェネツィア、チーニ財団 Accademia Vivaldi).
聴講したのは、歌唱のマスタークラスと同じ週だった。講師はマエストロ・フリジェで、近年は、ヴィヴァルディのクリティカル・エディションの自筆稿からの楽譜起こしは彼が担当している。ジェンマ先生も言うように、ヴィヴァルディの楽譜のことは何でもご存じなのである。
Accademia Vivaldi なので、対象としているのはヴィヴァルディの曲。具体的には、オペラ《ファルナーチェ》のレチタティーヴォと、オラトリオ《勝利凱旋するユーディタ》のレチタティーヴォにチェンバロで通奏低音をつけていく。
教室(といってもチーニ財団の建物は沢山の部屋を有しており、かなり広いし、天井も高い)には、二台のチェンバロが向き合うように設置されている。(歌唱の日は、二台が横並びにされたが)。一方は、楽譜に書かれた歌手のレチタティーヴォを弾いていく。それにあわせてもう一方のチャンバロにフリジェ氏と生徒が座って(先生は傍らに立っている時間も多いが)注意をしたり、和声的に違っているときは、ここはこうでしょう、と具体的に生徒の指をずらしたり、先生がその部分を弾いてみせたりする。
生徒のレベルは様々で通奏低音の勉強を5,6年やってきた者もいれば、普段はピアノを専攻している者もいる。ピアノを普段弾いている人は、どうしても楽譜通りに弾く、楽譜に書かれていないことは弾かないという癖がついているので、ミやソといった一音から、たとえば和音をアルペジョで弾くというのに慣れていない。
ここで楽譜について触れておこう。
教室には3種類の楽譜が用意されている。
(1)ヴィヴァルディの自筆稿・当時のコピスタの手書き稿のコピー
(2)スコアのクリティカル・エディション
(3)クリティカル・エディションのヴォーカル・スコア(旋律+鍵盤楽器用楽譜)。
(3)には、鍵盤楽器奏者用に、答えが書き込まれてしまっている。もっとも答えといっても歌においてヴァリアツィオーネが和声を考慮しながらも何通りもの可能性があるように、通奏低音の場合にも、その小節の和声、前後の小節とのつながりを考慮して、何通りかの解がありうるし、また和音が決まったとしてその和音をどうパラフレーズするか、同時に和音として弾くか、上からのアルペッジョ、下からのアルペッジョ、その他いくつもの解がある。
ずっと聴いているとだんだん判ってくるのであるが、その一小節(ミクロ)の解が解けないことには話にならないのであるが、実際の演奏においては、フレーズ単位での流れが重要になってくる。文章で言えば文脈に相当するもので、前後の文脈から単語の意味が決まってくるようなものである。
学生には(1)か(2)が渡される。ぼくはその時々によって(2)を見たり、(3)を見たりしていた。
歌の時と違うのは、通奏低音では学生が立ち往生してしまう、演奏が止まってしまう頻度が圧倒的に多いということだ。ヴィヴァルディは一小節にミとかソとか一音だけ、あるいは二音程度が書いてあることが多い。しかもミの下に数字が書いてない。だからどういう和音を作るかを奏者は組み立てなければいけないのだが、そこで立ち往生してしまうわけである。ピアノ奏者は、指は回るわけだが、楽譜を作ることには慣れていないので、指が回らないから弾けないのではなくて、どの音を弾けば良いのかが判らなくて止まってしまうのだ。
だから、ピアノ専攻のものに(3)の楽譜を渡せば、パラパラと弾きこなしてしまうだろう。しかしそれでは通奏低音の練習にはならないわけである。たまたまヴィヴァルディには回答例つきの楽譜があるが、そういう版はないという作曲家の方が多いわけだから。
数字抜きの通奏低音は、ヴィヴァルディ当時でもアルプスの北の奏者にはむずかしかったようで、オランダの出版社からは、数字を書いてくれ、という注文が来た。それに対して、ヴィヴァルディはお馬鹿さんのために、という注記を付して特大の数字で3とか4とか書き入れたページを送った。イタリアの奏者には必要なかったのである。
後世の我々には皮肉なことなのだが、イギリスの奏者のレベルが低かったおかげで、ヘンデルはより細かく書き込んだ楽譜を作成したし、それが残ることになった。イタリアの作曲家の方が、演奏者の能力を信頼することができ、その場でのインプロビゼーションに期待できたから、楽譜が簡潔、スカスカになりがちなのだ。
だから今日のチェンバリスタは、当時の音楽語法をマスターして、その当時の基準に合わせて次々に音の連なりを構成していく必要があるわけだ。
その枠組みの中で、その人らしさを発揮することが出来るのは言うまでもない。
先述の通り、指が回らないのではなく、立ち往生する生徒は1人や2人ではなく、ほとんどの生徒がそうだった。立ち往生する頻度や、立ち止まって和音を考える時間が長い、短いはあったけれど。つくづく楽譜通りに弾くことが求められるピアニストと、楽譜に書かれていないことを補うことが仕事の一部であるチェンバリスタ、オルガニスタは求められる作業が異なるのだということを知った。この作業に1日目は午後、2日目は午前、午後、3日目の午前、即ち全授業を聴講させてもらったので、たまたまある生徒がこうだったという話ではない。
三日を通して、ヴィヴァルディのオペラ1作のレチタティーヴォすべてと、オラトリオ1作のレチタティーヴォすべてをやり終えたのだった。
二台チェンバロの一台は歌のパートを弾くと言ったが、ここでもバロックならではの癖があって、フレーズの終わりにソミミと書いてあっても、そのほとんどで、ソソミとかソファミと弾くのだ。フレーズのおわりのミミでもレレでもそのまま弾くことはほぼない。それがバロック時代の慣習だったという。これも慣れてくればそんなものかと思うが、最初は自分が楽譜を追っていて、違うところを読んでいるのではという不安におそわれた。しかし、徐々に楽譜の変更にはパターンがあることが判ってきて、楽譜通りに弾かない(歌わない)のが通常なのだということに気がついた。これは不思議と言えば不思議で、なぜ作曲家は歌ってもらう通りに記譜しなかったのだろう?
その他にも、シャープやフラットの書き方で、細かい慣習があって、前の段の最後の小節でシャープなどがある場合、ヴィヴァルディは次の段の冒頭ではシャープの音を求めている場合でもシャープを書かないのである。だから、クリティカル・エディションを作る場合には、冒頭にシャープを補うか、少なくとも註でそのことを記すべきなのだが、音楽学者の中には、その註がないものもいる、という。演奏慣習の再発見も続いているので、クリティカル・エディションといえど、昔のものは、そういった演奏慣習の知識や配慮が乏しいものがあるとのことだった。
バロック音楽のレパートリーは、いったん演奏習慣が途絶えていて近年復活したものが多いので、演奏習慣・慣習に関しても研究の進展とともに、楽譜の記譜法の癖のようなものの解読が進んでいるのである。
その最善線の一部もご教示いただけたことに感謝のほかない。
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