《アイーダ》
《アイーダ》を観た(ナポリ、サン・カルロ劇場)
今回の《アイーダ》は、ネトレプコのサン・カルロへのデビューが一つの目玉だったようだが、ぼくが観たのはそちらではなく、アイーダ役はリュドミラ・モナスティルスカで、こちらはウクライナ出身。ロシア出身とウクライナ出身のソプラノがアイーダ役を張り合っているというのは、偶然だろうが、24日にプーチンがロシア軍のウクライナへの侵攻を認めたことを思うと奇妙な照応関係が成立している。
ラダメスはステファノ・ラ・コッラ。素直な歌唱で好感が持てる。アムネリスはエカテリーナ・グバノーヴァ。この人はロシア出身なので、舞台上でもロシア対ウクライナという対立構造は、偶然とはいえ存在していたわけだ。グバノーヴァの歌唱は、メゾらしい落ち着いた歌唱で、歌詞も聴き取りやすく好ましかった。
モナスティルスカは前半は不調だった。激しくビブラートがかかり、かつ、歌詞がほとんど聞き取れない。後半になって大分改善されたのは幸いだった。
指揮はミケランジェロ・マッツァ。演出はマウロ・ボロニーニ。
マッツァの指揮は、テンポを遅めにとってオーケストレーションの精妙さを浮かび上がらせるもの。たしかに、ヴェルディのスコアは精妙に書かれている。その長所と、テンポを落とすことによる推進力の弱さのバランスをどう取るかの難しさを痛感した。彼がテンポを早めたのはバレエの場面だった。
演出は、非常にオーソドックスなもので、舞台装置は最終幕の地下室(ラダメスとアイーダが死ぬことになる)を先取りする形で、上下二段になっていた。
今回、気づいたことだが、アイーダが父に祖国に尽くせと迫られ、その後でラダメスと二人になって逃げようという場面で、改宗を迫っていることに気がついた。同じ神をいだこうと言っているのだ。これは重大なことである。その上、ラダメスは軍事上の秘密をアイーダに何度も聞かれて打ち明け、それを父王アモナズロ(フランコ・ヴァッサッロー堂々とした歌唱で、拍手も多かった)に聴かれてしまう。ラダメスは逮捕されるわけだ。
ラダメスは祖国を結果的に裏切ったことを激しく後悔している。
最後の場面では、アイーダが地下牢に最初から潜んでいたので再開できるが、宗教的には二人は結ばれ得ないだろう。それを解決するのは二人の死しかないわけで、宗教的観点からみると、二人の宗派の違いからくる矛盾をロマンティック・ラブで糊塗している面がないとは言えないだろう。アイーダは父にそそのかされて結果的にラダメスを英雄から犯罪人に引きずり下ろすことになったわけだし、ラダメスは結果的とは言え祖国を裏切ったことを激しく後悔している。古代において、政治的イデオロギーと宗教は一体のものと考えてよいだろう(政教分離など思いもよらない世界だ)。それでも惹かれ合うアイーダとラダメスが、結ばれ合うには死しかないのだ。美しいとも言えるし、めちゃくちゃな話とも言える。しかし、そこに理屈を越えた説得力を与えているのがヴェルディの音楽なのだ。そして生身の歌手の歌、オケによってその矛盾は二人の死で昇華されているとも言えるし、《アイーダ》を観たあとの不思議な後味は実はそこに潜んでいるのかもしれない。
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