Accademia Vivaldi マスターコース聴講 (2)
ジェンマ先生のマスターコースの続き(ヴェネツィア、チーニ財団、Accademia Vivaldi).
Accademia Vivaldi という名前の通り、生徒が持ってきて指導を受ける曲は、特定の曲が指定されているわけではないのだが、Vivaldi のオペラ、宗教曲、カンタータなどとなっている。オペラのアリア(当然その直前のレチタティーボについても指導がなされる)を2,3曲もって来る人、宗教曲を持ってくる人、両者を1曲ずつ持ってくる人などそれぞれである。
アリアはイタリア語で、宗教曲になるとラテン語になるが、案外そこでの落差は大きくないと感じた。それよりも、むしろあらためて驚くのは、ヴィヴァルディにおいては、オペラと宗教曲で音楽言語がほぼ同じだということだ。宗教曲で、ゆっくりと荘重になることはあるのだが、次の楽章にいくとリズムがはねたり、妙にオリエンタル風なくねくねする半音階が用いられもし、先生にこういう感じよ、と身をよじらせて踊ってみせ、曲のオリエンタル性を生徒に伝えていた。はっきり言えば、宗教曲がいつも敬虔な感じに終始するのではなく、ある時は官能的で、またあるときはセクシーなのである。
それをどう捉えるかは人それぞれだろうが、神への愛が、異性への愛(同性パートナーへの愛)のように身近で切望する愛なのだとも言えよう。イタリア語での祈りでは聖母は tu つまり敬称ではなく、親称で呼びかける。フランス語では vous なので少し遠い。
ヴィヴァルディの宗教曲は、聴けば聴くほど、宗教の世界が近いもの、卑近なものとして感じられてくる。ヴィヴァルディの場合、オペラと宗教曲で音楽言語がほぼ共通するというのは、先生方も生徒も異口同音に語っていたし、僕も痛感するところである。宗教曲で、キリスト教の音楽だから近づきがたいと思っていらっしゃる方がいたとしたら、もったいないと思う。もちろん、メリスマというかアジリタというか、コロラトゥーラの装飾音も惜しげもなく使われて華やかです。
さて、ジェンマ先生のヴァリアツィオーネ(variazione) の指導について。英語ではヴァリエーション。つまりダ・カーポ・アリアで ABA' の A' でもとのAをどう変えていくかという技術になる。通奏低音というか伴奏は変わらないので、調性を保ちつつ、メロディーやリズムを変えていくわけだ。ジャズの即興とか、主題と変奏の変奏曲の部分に近いとも言えようか。
ヴァリアツィオーネは、基本はあるが、その上で歌手の特性を踏まえてヴァリアツィオーネを作ることがジャンマ先生は得意なのである。ここは低い音から出て高く行く?それとも真ん中から?それとも上から出て降りていく?と生徒に尋ね、それぞれのメロディーをその場で歌ってみせる。あらかじめ考えて蓄えているのではなく、その場でこう、いやこうかしら、という感じで、場合によってはチェンバロのところに言ってフリジェ先生と相談しながら形を整えることもある。大抵はジェンマ先生が2,3回鼻歌的に歌って、これはどう?と言って歌い上げて聴かせる。11月の時は、比較的、発声練習の仕方や、アリアを歌った場合でもヴァリアツィオーネ以外の点の指導が比較的長かったのだが、今回は初日からどんどんヴァリアツィオーネの指導がはいる。11月の時は、生徒が持ち込んだ曲にかぶりが無かったと記憶しているが、今回は数曲が2人の生徒の持ち込み曲となって大変興味深かったのだが、先生は、生徒の声質にあわせて異なるヴァリアツィオーネを事もなげに作っていくのだった。
同一曲のレッスンの日がずれていたりすると、昨日あなたに作ってあげたのはどんなヴァリアツィオーネだったと尋ねているので、作るそばから忘れてしまい、また作っていくという風情だった。おそらく非常に豊富な持ち技の順列組み合わせのようになっていて、この曲のここの感じだとこういくのが素敵とか綺麗ということからその場で構成し、どの技を使ったかはいちいち記憶していないのかと思う。生徒は9人いるわけで持ち込まれる曲は20曲程度あり、毎日次々に生徒の順番で曲が変わっていくのだから、頭は次々に場面転換を強いられているわけである。それで10時から夜7時ごろまで昼食以外はぶっ通しで指導するのだからタフである。こちらは聴いているだけ、座っているのに徐々に疲れはたまったいく。授業そのものは興味津々で楽しいのだが、楽しいことをやっていても長時間にわたると、ホテルに帰ってくると疲れていることを感じるのだった。それはチェンバロをずっと弾いているフリジェ先生もまったく同様のことを言っていた。
同じ曲で2人の生徒にヴァリアツィオーネをつけていく場合、その生徒の声質、高い方が良く出るのか、低い方が良く出るのか、頭声と胸声の具合、早いパッセージがどれくらい早くまわるのか、などが考慮に入れられていたと思う。声質としてとても綺麗な音色を持っているのだけれど、アジリタはあまり得意でないという生徒もいる。アジリタに関しては、ポジションは変化させずに、口を動かすことである程度上下に音を振るという感じだった。一音一音拾う、辿るという作業をしていると、音楽に身体がついていけないのだ。その際も、先生は見事な見本を示すし、それだけでなく、身体の使い方を生徒の身体に触れたり、自分に触れさせたりして具体的につかませようとする。
アジリタのもう一つの技は、音を抜くということだ。タカタカ、タカタカと息をつくひまもなく、楽譜が駆け回るパッセージが延々と続く曲、最も有名なのは、'agitata due venti' だろう。この曲は、先生は'brutta'な曲と何度もおっしゃっていた。僕は個人的には好きな曲なので、軽く衝撃を受けたが、先生の言いたいことは次のようなことだと受け止めた。そもそも世の中でのこの曲の演奏は早すぎる。あんな早いテンポではなかったはずだ。先生は、ヴェネツィアのラグーナの波の揺れがテンポの基準なのだと言う。もちろん、波も晴れているか雨か、風が強いかなどで、静かな時と荒れる時がある、しかしその波のテンポはそこまで速くはないということだった。それと 'circo'ではない、サーカスではない、という言葉も出たので、超絶技巧をひけらかすのが曲芸のようで芸術性とは関係なくなっているということが言いたいようだった。おっしゃることはごもっともなのだが、僕をふくめて聴衆には曲芸的なものを求める傾向もあるのだと思う。だからピアノでリストの超絶技巧を駆使する曲、パガニーニのヴァイオリンの超絶技巧曲というものがウケた、流行ったわけだ。そう思う一方で、たしかにバロック歌唱の魅力は、アジリタ、早いパッセージにだけあるのではなく、他に沢山見所、聞き所があるという考えには全面的に賛成である。スローな曲でチャーミングな曲は山とある。ヘンデルで言えば 'オンブラ・マイ・フ’が典型的な例だ。
今回はその 'agitata due venti' を持ってきて指導をうけた生徒がいて、そうはいいつつ、歌い方はきちんと指導があって、早いパッセージが続いたときに、どの音を抜いてそこで息継ぎをするか(その可能性は複数箇所にあるし、生徒の体質、声質によってその箇所は変わりうる)を指導していた。例えばラシラソ、ラシラソが続いたときに一回目か二回目のシを抜いてもよい、といった具合。あるいはソを抜くという手もあるわけだ。アジリタの指導では、だから、早く歌うにはどう発声したらよいかという面と、それでも周りきれない場合にどこで音を抜くかという二方面作戦なのだ。先生は、抜かずに歌えてしまうのであるが。自分が抜かずに歌える場合に、わたしのようにやれば出来るでは、教師としてはまずいのだが、ジェンマ先生はまったくそういう教条的なところは微塵もない。一人一人の長所をどうやったら伸ばせるか、という方向でアドバイスがある。
それに加えて、フレーズのライン(fraseggio)を綺麗にするためにアクセントを単語ごとにはつけない、とか、このアリアがどういう場面で歌われているのか、どういう性格の登場人物によって歌われているのか、なども随分細かい説明がはいる。これはオペラが音楽劇で演劇という性質を本質的に持っているということからは当然とも言えようが、その指導も実に的確だし、だからこそ、歌う前に歌詞を朗読させたりするわけである。
ヴァリアツィオーネも作って生徒に歌わせ、歌いにくそうだとさらに作り直したりすることもある。うまく歌えるところまで仕上げると、先生からゴーサインが出て、これを楽譜にちゃんと書いておきなさいと言われるのだが、生徒全員が自分のレッスンはスマホで録音または録画している。それを聞き直して(見直して)採譜するのだ。自分用のヴァリアツィオーネが出来てゴーサインが出ると皆輝くように嬉しそうな顔をする。中にはうれしくて飛びはねる子も複数いた。考えてみるとそれは嬉しいはずだ。自分専用のヴァリアツィオーネというのは、服でいえば高級なオーダーメイドの服を作ってもらっているようなものではないか。しかもそれを仕立てる職人は世界最高水準の技の持ち主なのである。その生徒の喜びが、ジェンマ先生のエネルギー源なのだ。ジェンマのヴァリアツィオーネ作りはすごい、他のイタリア人教師と較べても抜きん出ているというのは、わたしは複数の人から聞いているし、11月と2月の長時間の実践をみていて、これがバロック音楽の専門家なら誰にでも出来るなどとはとうてい思えない。
こういう技法を見ていると、ヴィヴァルディ自身、指導しているピエタ音楽院の生徒にあわせて、さまざまなコンチェルトを書いてあげたのかと思うし、生徒が自分のための曲をもらって喜ぶ顔が彼の創作のエネルギー源の一つだったのかと想像する。
一週間、朝から晩までヴィヴァルディ漬けになってみると、ヴィヴァルディの世界がいかにヘンデルとも、いわんやバッハともまったく違うことがはっきりわかるし、ナポリ派のヴィンチやポルポラとも随分違うということが感じられるようになってきた。豊穣なる世界で、かつ甘美なる世界。イタリア語では、甘い菓子、デザートも、やさしい人のこともドルチェ(dolce)と言うが、まさにドルチェな音楽世界である。
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