サン・マルコ寺院の荘厳ミサ
サン・マルコ寺院で荘厳ミサに出席した(ヴェネツィア)。
荘厳ミサに出席したのは、宗教心からではなく、音楽的な関心という不純な動機だったので、なるべくまわりの人にあわせて行動し、失礼のないようにつとめた。
サン・マルコでは、a doppio coro と言って合唱隊を二手にわけて、主祭壇の(信者の座る席から見て)右上方と左上方にわけて交互に歌うという特殊なミサ曲がある時期に複数の作曲家によって書かれていた。
この日、ミサの途中というかミサと一体化してその一部分として歌われたのは、ジョヴァンニ・クローチェ(1557−1609)のいくつかの曲である。合唱団のホームページには
⸭ Ordinario ⸭
Gloria, Sanctus, Agnus
Messa Sopra la battaglia G. Croce
⸭ Proprio ⸭
Ad introitum
Cantate Domino G. Croce
Ad offertorium
In die tribulationis G. Croce
Ad communionem
O sacrum convivium G. Croce
Voce mea G. Croce
Ad recessionem
Exaltabo te Domine G. Croce
と記されているが、まだまだ勉強不足できちんとそれぞれの曲の役割を把握しきれていない。ミサでは司祭が5人ほど出てくるのだが、緑の僧服を着た方が主祭でほかの白い服の方は助祭に相当するのかと思うが、彼らも相当年配の方で通常の教会とは別の呼び名があるかもしれないが不明。
司祭は普通にお話をされる部分とレチタティーヴォ風に節をつけてミサの式文を読んでいるところがあり、その合間に上方から合唱がはいる。
信者代表が聖書の一部を読み上げる場面でも、同じ人が普通に朗読する部分とまったく歌唱として歌い、合唱と相互に歌うという部分もあるのだった。こちらからみて右上方に指揮者の背中がちらっと見える程度で、信者の席から合唱団はまったく見えない。声が天井に反響して響き降ってくるという感じだ。
だから、実は合唱団が左右に分かれていても、信者の席からは、右から左から分かれて聞こえてくるという感じは薄い。教会は一般に反響が豊かで、パイプオルガンなども目をつむるとどこから聞こえてくるのかわからないことが多い。森の鳥の声もそうで、木の上で鳴いていることはわかってもどちらの方角からかを判断することはきわめて難しい。僕が想像するに、演奏する合唱の人、指揮者、そして作曲する人にとっては、とてもチャレンジングな営みなのではないだろうか。残響が多いので、右の合唱団のフレーズが終わって左の合唱団が入るタイミングはとても難しそうだ。あまりに残響が消えるのを待っていたらテンポとして遅くなってしまうし。そのせいか、聖堂の中にはいってミサが始まる前も、合唱団はずっと入念に練習を繰り返していた。仮に別の場所で練習していたとしたら、そこでやったように、この反響・残響の長いお堂でそのまま演奏できるかというと、微調整は必ず必要になるだろうと思われる。
司祭の方は、神は人間が幸せになることを求めているということ、人が神を求めることを切望していることなどを、聖書を引用して説いておられた。さらには、ベネデット16世(引退した教皇)の最近の談話(大雑把に言うと、ハラスメント問題が自分の担当管区で上がってきたときに、見逃したかどうかという問題について、本人は自分はもうじき神の裁きを受ける、やましいことはない、というようなニュアンスであったかと思う)についても言及していたのが印象的だった。ジョヴァンニ・クローチェのような1500年代の作曲家は、ヴェネツィアの音楽院の授業でも、取り上げられることは、決してまれではないとのことだった。1500年代以降の音楽は生きている伝統なのだ、少なくともヴェネツィアでは。
日本ではクラシック音楽ファンの大半(コアな古楽ファンや研究者は別として)はバッハやヴィヴァルディなどの1700年代前半あたりまでしか耳馴染みがない場合が多いように思う。しかし1500年代、1600年代にも、面白い作曲家は何人もいる。モンテヴェルディだけではないのだ。そのことが素直に実感できてしまうのが、ヴェネツィアの懐の深さか。
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