ケルビーニのオペラ・ブッファ《Lo sposo di tre, e marito di nessuna》
ケルビーニ(1760−1842)の唯一のオペラ・ブッファ《Le sposo di tre, e marito di nessuno》を観た(Maggio Musicale Fiorentino, フィレンツェ)。Maggio に中ホールが昨年できて、これはそこでの上演。客席はかなり傾斜して、大学の階段教室のようである。
ケルビーニといえば《メデア》が突出して有名だが、年齢的にはモーツァルトの4歳年下であり、《Lo sposo di tre, e marito di nessuna》 が初演されたのは、1783年のヴェネツィア、サン・サムエーレ劇場でのこと。モーツァルトの場合、《イドメネオ》の初演が1781年、《フィガロ》の初演が1786年である。パイジェッロの《ヴェネツィアにおけるテオドーロ王》が1784年初演。ざっと作曲の時代をイメージするためにモーツァルトをあげたが、ケルビーニが影響を受けたのはむしろパイジェッロだろう。もちろん、モーツァルトもパイジェッロの影響を受けている。
さて、タイトルの《Lo sposo di tre e marito di nessuno》というのは、三人の婚約者だが、誰の夫でもない、というくらいの意味で、あちらこちらの女性に結婚を申し込んだが、結局誰とも結婚できなかったというピスタッキオ男爵の物語である。ピスタッキオと言えばジェラートなどでおなじみなわけで、空豆男爵といった風なユーモラスな響きがあるだろう。
あらすじ:第一幕 ピスタッキオ男爵にはドンナ・ローザという女男爵の婚約者がいる。二人は実際に会ったことがない。そこにドン・マルティーノとドンナ・リゼッタの兄妹(弟姉かもしれないが不明)は、つけいろうとする。マルティーノはローザから肖像を預かっていてピスタッキオ男爵にみせることになっているのだが、それを妹リゼッタの肖像に替えてしまう。
ピスタッキオは、リゼッタをローザだと思い込んで、彼らの企みは成功したかに見える。しかしそこへ本物の婚約者ローザがやってくる。最初に彼女に出会うのは、ピスタッキオの叔父ドン・シモーネ。そこにリゼッタが加わり、彼女はローザが誰かを認識するが、ピスタッキオはリゼッタを自分の婚約者と思い込み、ローザに感心を払わない。ローザは怒る。ピスタッキオとリゼッタは愛の言葉を交わし、裏切ったら4回ひっぱたくと約束する。この間、マルティーノはローザを口説きにいく。混乱の中で、ピスタッキオは何がどうなっているのかわからなくなる。リゼッタもローザも、自分こそがピスタッキオの正当な婚約者だと主張する。
第二幕:ピスタッキオ男爵と叔父シモーネが話し合っているが、ピスタッキオはもう結婚したくないと言う。が叔父の忠告をいれ、ナポリから二人の弁護士がやってくるーこの二人実は、マルティーノとリゼッタが変装している。広場で手品をするフォッレットと恋人で歌手のベッティーナがそれを聞いている。ベッティーナはシモーネに口説かれるフリをするが、指輪などを巻き上げすっと抱擁をかわし去って行く。そこへローザが来るとシモーネはローザをくどき、甥が結婚しないのならわたしはどうかと言う。ローザはピスタッキオへの面当てにそれもよかろうと同意する。しかしそこへマルティーノが来ると彼に心を寄せてしまう。
ローザの提案で、ピスタッキオの将来をシビッラの巫女の宣託に委ねることにする。巫女に化けているのはフォッレットなのだが、ピスタッキオは独身のまま、というお告げ。マルティーノはローザにすべてを打ち明ける。そこへシモーネがやってきてローザの愛を求めると、ローザは受け入れるフリをする。ピスタッキオはずっと独身でいるのがいやでベッティーナをくどく。彼女も受け入れるフリをする。リゼッタがやってきて、ローザとシモーネの結婚の準備が整ったと告げる。ピスタッキオは考えを変え、リゼッタと結婚したいと考える。披露宴で、シモーネがローザの手を求めると、その手はマルティーノに与えられる(結婚の承諾)。ピスタッキオがリゼッタの手を求めると、その手はシモーネに与えられる。ピスタッキオがベッティーナに向かうと彼女はフォレットに向かうのだった。
くるくる目が回るような恋愛ゲームだ。
指揮のファゾーリスは、ケルビーニがいかに立派な音楽を書いたかを強調したいらしく、どの曲もしっかりとがっちりと歌わせ、鼻歌風とか軽口をたたいている歌という風情は乏しかった。そのため、一曲一曲が立派に書かれていることはわかるのだが、軽快さ、軽妙さはやや物足りなかった。テンポもゆっくりめで、上演は休憩1回をはさみ4時間近くかかった。テンポが遅いと、言葉が聞き取りやすくなる傾向はあるが、今回はソプラノの二人は発音は聞き取りにくいところが多かった。その点は男性陣の方がよかった。歌の情緒面の表現はそれぞれ工夫があり、よかったのだが、軽さという点に問題がないとは言えなかった。その中ではピスタッキオのファビオ・カピタヌッチが表情の変化を適切につけていた。
ケルビーニの音楽は、おおまかに言えばモーツァルトに似ていて、そこから憂いを取り去った感じである。晴れやかで軽やかなのだと思うが、今回の演奏は晴れやかで立派なのだった。立派な演奏にすることで、ケルビーニを再評価して欲しいという思いも指揮者にはあったのかもしれない。
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