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2022年2月26日 (土)

ナポリ考古学博物館

Img_2539 ナポリ考古学博物館を訪れた(ナポリ)。

ここは今、ポンペイに関する収蔵品の逸品が、日本にやってきている博物館である。前項で述べたカポディモンテに行く途中にある。

ここのコレクションには重要なものが3つあって、ファルネーゼ家コレクションと、ポンペイ関係コレクションとエジプト関係コレクションである。今回は、ポンペイ関係を丁寧に、ついでファルネーゼ家コレクションを観たが、4時間ほどかかりかなり体力的にはヘトヘトになった。ただしこの博物館にはバールがあってコーヒーや軽食はとれるので便利だ。中身は充実の一言で、圧倒される。四半世紀前に一度ここを訪れたのだが、あらためて圧倒された。

ファルネーゼ家のコレクションがなぜここにあるのかは説明が必要だろう。ファルネーゼ家はもともとはローマ郊外のヴィテルボの出身で、傭兵隊を指揮して軍事面で頭角をあらわし、後にパオロ3世(在位1534−1549年)という教皇を出す。彼は息子をパルマ公にし、以後1731年までファルネーゼ家がパルマを支配する。

ここいらへんのことはバロック・オペラにとって大いにかかわりがある。ナポリの支配者がめまぐるしく変わるのだ。16世紀半ば以降、ナポリはスペイン・ハプスブルク家の支配下にあった。ところが1700年スペイン・ハプスブルク家の最後の王カルロス2世が死去。遺言によりブルボン家出身のフェリペ5世が即位。ここでスペイン継承戦争が起こる(1701−14年)。そのさなかの1707年にナポリはオーストリア・ハプスブルクに占領され、以後その支配下にはいる。まさにバロック・オペラの盛りの時期である。ナポリにはオーストリアの皇帝から派遣された副王(vicere)がいて、この副王がナポリの支配者であり、作曲家やリブレッティスタは、副王やその妻の誕生日や聖名祝日、あるいは皇帝(ヴィーンの)やその妻の誕生日や聖名祝日を祝うためにオペラやカンタータを作曲するのである。このオーストリア支配はユトレヒト条約・ラシュタット条約で承認された。

しかし、1733年にポーランド継承戦争が勃発すると当時パルマ公であったスペイン・ブルボン家のカルロ(後のスペイン王カルロ3世)がナポリを攻め落とす。この人はナポリ王としてはカルロ7世なのだが、本人は一度もこの番号を使わずカルロとだけ署名していた。彼の治世にあのサン・カルロ劇場が建てられたのであるし、カポディモンテ美術館も建てられた。カルロの治世は1759年まで続く。その後、フランス革命の時期になると、ナポレオン(一族)とスペイン・ブルボンの攻防が一進一退を繰り返す。

ここでファルネーゼ・コレクションに話を戻すと、カルロ7世は、父がスペイン・ブルボンのフェリペ5世で母がエリザベッタ・ファルネーゼだったのだ。それで彼がナポリの王になった時にコレクションがナポリにやってきたのだ。これは古代ローマの彫刻(古代ギリシアの彫刻の模刻もある)がその代表例だ。ファルネーゼ家がローマやパルマで彫刻や絵画を収集したのである。

ポンペイに関するものも、思えば18世紀に本格的な考古学的活動が始まったのだった。現在、日本でポンペイ展が展開中だが、それはこの考古学博物館の収蔵品が貸し出されているのであり、展示室には貸し出し中のものは写真が飾られ、今日本に貸し出し中という注記があった。ポンペイ・コレクションも膨大なもので、モザイク画が有名だが、実は当時の絵画も相当な数のものが展示されている。モザイクの場合にもそうだが、中世の宗教画などとは異なり、基本的に写実的、リアルな絵である。

色は薄くなったり、ぼけてしまったりしたものもあるが、比較的鮮明なものを写真にあげた。

ポンペイ・コレクションには、エロティックな絵画もある。これはいわゆる娼婦の館にだけあったのではなく、一般家庭でも性というのが子孫繁栄とか豊穣を願うことにつながるので、たとえば呼び鈴のようなものは男根に鈴がついているようなものだし、性愛の絵画もあるのだった。このコーナーは開いている時間が限られているようだった。こうした男根を誇張した人物像が、後のサティロやバッコス像を描く際に影響を与えたと言われている(キリスト教化が進むと、原則、性器を誇大に描くことはなくなっていくが)。

4時間いても、エジプト・コレクションは手つかずである。どのガイドブックにも書いてあるが、この考古学博物館は、考古学博物館として世界有数のものであり、時間をたっぷりと取ることをお勧めします。オーディオ・ガイドもあるが、生身の人間のガイド付きツアーも英語・イタリア語(たぶんフランス語、スペイン語でも)実施されている。生のガイドだと、自分の疑問をぶつけることが出来る点がよい。ツアーに行きたい人がその場で4人集まれば、1人15ユーロだった。

18世紀は啓蒙の時代と言われ、それはまったく間違いではないが、18世紀前半は、継承戦争に次ぐ継承戦争で、列強はしょっちゅう戦い、領土を奪ったり奪われたりしている。フランス革命が勃発してからも戦争はヨーロッパ中に飛び火している。知性が支配することを優先する啓蒙主義の時代でも、そうそう平和な時期はなかったのだ。残念ながら。

カルロ7世(スペインではカルロス3世)も戦争でナポリを侵略する(彼にすれば、おそらく、もともとナポリはスペインのものだったのに一時的にオーストリアに奪われていたという感覚だったのであろう)が、その一方で、古代のものの収集、保存の意義を認め、あのテアトロ・サン・カルロも建造している。素晴らしいことばかりではないが、悲惨なことばかりでもない、両面を観ていくことが大事なのだろう。オペラをめぐるパトロンはこの時期非常に重要なわけで、その支配者の変遷を考慮の外に置くわけにはいかないだろう。

 

 

 

 

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サン・ジェンナーロのカタコンベ

Img_2499-2サン・ジェンナーロのカタコンベを観た(ナポリ、カポディモンテ)。カポディモンテは山の天辺という意味でナポリは海沿いはほぼ平らだが、内陸部にむかってしばらくいくと、坂道になりかなりの丘がずっと広がっている。この丘というか山はトゥッフォという地質で、丈夫なのだが、加工はしやすいという。ここに2世紀のころからキリスト教以前の墓があり、2−3世紀にかけてキリスト教徒の墓(カタコンベ)が作られていった。5世紀になって、ナポリの聖人・殉教者のサン・ジェンナーロがここに埋葬されたのが重要である。その後、サン・ジェンナーロ(その血がはいった器があり、その血が一年に何回か溶けるという)の遺骸はドゥオーモに移されたのだが、彼の遺骸は数百年にわたってこのカタコンベにあったのである。

お墓の大きさはさまざまでその壁に描かれた絵や模様が比較的よく保存されているものもある。初期の墓の部分には、女性が水につかっている絵があって、これは洗礼をうけ、他の宗教からキリスト教に改宗するプロセスを示しているのだろうということだった。

山を掘って作ったということもあって、カタコンベは上下二層になっていた。また、下の層には洗礼のための掘った施設(多角形のお風呂のような形)も残っていた。つまりある時期は、ここはお墓としてだけでなく、洗礼や祈りの場として、つまりは教会として使われていたのである。

ここが公開されるようになったのは、比較的近年のようである。ナポリ近辺にはポンペイやエルコラーノをはじめとして古代の遺跡は多いのだが、ここも一見の価値ありと信じる。交通機関のストのため、タクシーで行ったが市内から12ユーロほどで行けた。中心部ではないが市内にある遺跡なのだ。

 

 

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2022年2月24日 (木)

《アイーダ》

《アイーダ》を観た(ナポリ、サン・カルロ劇場)

今回の《アイーダ》は、ネトレプコのサン・カルロへのデビューが一つの目玉だったようだが、ぼくが観たのはそちらではなく、アイーダ役はリュドミラ・モナスティルスカで、こちらはウクライナ出身。ロシア出身とウクライナ出身のソプラノがアイーダ役を張り合っているというのは、偶然だろうが、24日にプーチンがロシア軍のウクライナへの侵攻を認めたことを思うと奇妙な照応関係が成立している。

ラダメスはステファノ・ラ・コッラ。素直な歌唱で好感が持てる。アムネリスはエカテリーナ・グバノーヴァ。この人はロシア出身なので、舞台上でもロシア対ウクライナという対立構造は、偶然とはいえ存在していたわけだ。グバノーヴァの歌唱は、メゾらしい落ち着いた歌唱で、歌詞も聴き取りやすく好ましかった。

モナスティルスカは前半は不調だった。激しくビブラートがかかり、かつ、歌詞がほとんど聞き取れない。後半になって大分改善されたのは幸いだった。

指揮はミケランジェロ・マッツァ。演出はマウロ・ボロニーニ。

マッツァの指揮は、テンポを遅めにとってオーケストレーションの精妙さを浮かび上がらせるもの。たしかに、ヴェルディのスコアは精妙に書かれている。その長所と、テンポを落とすことによる推進力の弱さのバランスをどう取るかの難しさを痛感した。彼がテンポを早めたのはバレエの場面だった。

演出は、非常にオーソドックスなもので、舞台装置は最終幕の地下室(ラダメスとアイーダが死ぬことになる)を先取りする形で、上下二段になっていた。

今回、気づいたことだが、アイーダが父に祖国に尽くせと迫られ、その後でラダメスと二人になって逃げようという場面で、改宗を迫っていることに気がついた。同じ神をいだこうと言っているのだ。これは重大なことである。その上、ラダメスは軍事上の秘密をアイーダに何度も聞かれて打ち明け、それを父王アモナズロ(フランコ・ヴァッサッロー堂々とした歌唱で、拍手も多かった)に聴かれてしまう。ラダメスは逮捕されるわけだ。

ラダメスは祖国を結果的に裏切ったことを激しく後悔している。

最後の場面では、アイーダが地下牢に最初から潜んでいたので再開できるが、宗教的には二人は結ばれ得ないだろう。それを解決するのは二人の死しかないわけで、宗教的観点からみると、二人の宗派の違いからくる矛盾をロマンティック・ラブで糊塗している面がないとは言えないだろう。アイーダは父にそそのかされて結果的にラダメスを英雄から犯罪人に引きずり下ろすことになったわけだし、ラダメスは結果的とは言え祖国を裏切ったことを激しく後悔している。古代において、政治的イデオロギーと宗教は一体のものと考えてよいだろう(政教分離など思いもよらない世界だ)。それでも惹かれ合うアイーダとラダメスが、結ばれ合うには死しかないのだ。美しいとも言えるし、めちゃくちゃな話とも言える。しかし、そこに理屈を越えた説得力を与えているのがヴェルディの音楽なのだ。そして生身の歌手の歌、オケによってその矛盾は二人の死で昇華されているとも言えるし、《アイーダ》を観たあとの不思議な後味は実はそこに潜んでいるのかもしれない。

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《アイーダ》およびサン・カルロ劇場の音響

ヴェルディの《アイーダ》を観た(ナポリ、サン・カルロ劇場)。

今日は桟敷席(2階)で聴いた。ここからだとオーケストラの楽員の8割くらいが見えているので直接音もどんどん聞こえてくる。つくづくサン・カルロ劇場は音響のいい劇場である。たとえばヴァイオリン属で、ストラディヴァリやアマーティ、グァルネリといった名器を、科学技術やセンサーが発達したからといって現代の楽器が越えたとはほとんどの人が思っていない。それと同様に、劇場も新しい劇場で音のいい劇場はたしかにある。フィレンツェのマッジョの新しいホールも素晴らしい響きだった。しかし、テアトロ・サン・カルロの響きは、ストラディヴァリなみに別格だと思う。《アイーダ》で言えば、アイーダ(王女なのだが奴隷としてとらわれの身)が父アモナズロとあって、父王が祖国のために尽くせと迫る場面、アイーダが抵抗すると、お前など娘ではないわ、とののしる場面では、当然ながらティンパニや大太鼓が活躍する。そういう場面で他の楽器および声とのバランスが絶妙なのだ。低音楽器が柔らかく、しかし詰まってしまわない音で迫力をもって鳴る。

あるいは男性合唱団の響きも実によい。どうして他の劇場ではない響きが出せるのか、その理由はわからない。しかし確かに違うのである。つまり、個々の楽器、合唱団の音が飛び抜けているというよりは、その溶け合いかたが絶妙なのだ。超一流の料亭で使っている野菜や調味料を使っても、そう簡単には同じ味はだせないだろう。素材を溶け合わせるバランスが素晴らしく良いのだと思う。溶け合って、独唱者の声が聞き取りにくいなどということはまったくないのだ。

考えてみれば、ロッシーニもドニゼッティもベッリーニもこの劇場を想定して書いたオペラがいくつもあるのだ。ベルカント・オペラがこの劇場のため(だけではないけれど)に書かれ、この劇場で作曲者により指揮され鳴らされてきた。そういう点でもストラディヴァリ的なのだ。フェニーチェは何度も消失しているし、スカラ座は第二次大戦で甚大な被害を受けた。サン・カルロは1816年に焼け、1817年に再建されてからずっと今まで存在しつづけているのだ。そういう点で、この上なく貴重な劇場なわけだが、この音の心地よさは体験しなければ判らないものだと思う。

別の言い方をすると、劇場によっては、音のバランスがいまいちで、部分的にはCDの方が音がいいなと思ったりすることがある(もちろん声が生という点では劇場の方が良いのだが)。そういう不満がまったくないし、この心地よさは最高級のスピーカーやアンプを駆使しても出ないな、ということがわかる。音出しの時点では何らかの有利さがあっても、鳴らす空間が家庭は小さいからだ(だからといって、CD録音や再生の価値を否定するものではまったくない)。この劇場はベルカント・オペラの音の基準点として絶対にはずせない場所だと思う。その上、ヴェルディもサン・カルロで初演したオペラは複数ある。そらおそろしい劇場である。

長くなったので演奏評は別項目で。

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2022年2月23日 (水)

ドニゼッティ《三人の女王》

ドニゼッティの女王もの3作品を抜粋して上演した企画もののオペラを観た(ナポリ、サン・カルロ劇場)。

ナポリに来たのは2回目なのだが、前に来たときから25年以上が経過している。前に来たときには年末・年始だったので、オペラは観られなかったので、サン・カルロ劇場は初めてである。

サン・カルロ劇場は、バロック劇場とオペラ劇場を分けた場合には、世界最古のオペラ劇場となるようだ。1737年創建で、ミラノのスカラ座やヴェネツィアのフェニーチェ劇場より約半世紀古いのである。

中に入ると豪華絢爛たる劇場である。パルコ・レアレ(ロイヤル・ボックス)も驚くほどの大きさ、さらにはそのまわりの装飾。桟敷席の前の装飾もこれほどバロック的にこってりと豪華なものは記憶にない。座席は1386席とのこと。桟敷は五層で高さはあるのだが、奥行きが深すぎず、歌手にとって歌いやすいかもしれない。

以前からサン・カルロ劇場の響きは素晴らしいと聞いていたのだが、その実力やいかにと思って臨んだのだが、噂にたがわず素晴らしい音響であった。僕の席は前から4列目なのでかなり前であり、オーケストラの直接音ではなく、ピットの壁などに反響した音になる。ここで気がついたのだが、この劇場では低音、チェロやコントラバスやティンパニーが非常に心地よい音で鳴る。オーケストラピットが小さかったりすると、低音はその空間の限界にはばまれて詰まった音になりがちだが、その詰まった感じがなくふわっと抜けるのである。

それと特筆すべきはオーケストラだ。これは素晴らしい。何が素晴らしいかというと、1つは熱気があること。指揮者の言う通り、なすがままでなく、自発性を持っていて、時に指揮者が押さえ込もうとするシーンが微笑ましい。ドニゼッティには、時にagitato でかっかと燃えてくるパッセージがあるが、そういうところのクレッシェンド、アッチェレランドが絶妙なのである。今日の指揮者はリッカルド・フリッツァ(誤記していましたが訂正します)で、僕は昨年フィレンツェでフリッツァの振った《リゴレット》を聴いているので、指揮者が同じでもオケが違うとこう変わるという点がはっきりした。ナポリのオケは、熱いパッセージでは、どんどん自分から行きたがるのだ。アッチェレランドの自発性はおそらく世界一だろう。音楽が熱を持ってきた場面で、内側から熱くなって、クレッシェンド、アッチェレランドになるのか、指揮者がもっと強く、もっと早くと指示するからより大きな音で、テンポを早く弾くのかという違いだ。現代のオーケストラはとてもお行儀がよくなっていて、自分から跳ね出すオケなどめったにお目にかかれない。

当然だが、ドイツ、オーストリア系のオケがノッているのが感じられるのは、ベートーヴェンやブラームスだったりするので、ドニゼッティで血が騒ぐオケはイタリアに期待するのが自然というものだろう。

演奏については、Sondra Radvanovsky が三人の女王役を見事に演じ、歌ったのだから彼女について評価すべきだろう。非常に高度なテクニックの持ち主で、高いところから低いところまで自由自在に出るし、フォルテもソットヴォーチェも絶妙に使いわけて、感情の襞を描き分けていく。この3人の女王とも悲劇的な女王で、自分が処刑されたり、愛する人が処刑されるという場面をとってきている。作品としては《アンナ・ボレーナ(アン・ブリン)》《マリア・ステュアルダ》《ロベルト・デヴリュ》である。Radvanovsky の唯一の問題点はテンポ。指揮者も苦労しているようで、女王と合唱のかけあいがしばしばあるのだが、女王のテンポはがくんと遅く、合唱になるとテンポがあがる、実にテンポがぎくしゃく、ぎくしゃくの連続なのである。おそらく彼女は、丁寧に、楽譜のニュアンスの隅々まで歌い尽くしたいのだろうが、曲想が盛り上がっているところでテンポを落とされると実に悲しい。「ロベルト」と女王が呼びかける場面で、ドニゼッティは明らかにパルランテで人が話すのとほぼ同じ早さで歌えるように作っているのだが、ローベールトーと丁寧に歌って、テンポが停まりそうになるのだ。あれで合唱のテンポとほぼ同じテンポで歌っていたら何倍も全体が盛り上がったことだろう。実にもったいない話だ。フリッツァが欲しいテンポは合唱のテンポであることは明白だった。

舞台は大きな橋、歩道橋のようなものがあって、下に女性合唱団、上に男性合唱団が出てくるしかけで、女王様だけが舞台衣装で後の独唱者はタキシードやそれに準ずる服装だった。女王は、それぞれの女王で衣装が替わり、エリザベスの時には白で襟巻きトカゲのような大きな襟がついており、アン・ブリン(アンナ・ボレーナ)は赤いドレスなど工夫のある衣装。

字幕が舞台上方にあり、上がイタリア語、下が英語となっている。

 

 

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2022年2月21日 (月)

Accademia Vivaldi マスターコース聴講 (2)

ジェンマ先生のマスターコースの続き(ヴェネツィア、チーニ財団、Accademia Vivaldi).

Accademia Vivaldi という名前の通り、生徒が持ってきて指導を受ける曲は、特定の曲が指定されているわけではないのだが、Vivaldi のオペラ、宗教曲、カンタータなどとなっている。オペラのアリア(当然その直前のレチタティーボについても指導がなされる)を2,3曲もって来る人、宗教曲を持ってくる人、両者を1曲ずつ持ってくる人などそれぞれである。

アリアはイタリア語で、宗教曲になるとラテン語になるが、案外そこでの落差は大きくないと感じた。それよりも、むしろあらためて驚くのは、ヴィヴァルディにおいては、オペラと宗教曲で音楽言語がほぼ同じだということだ。宗教曲で、ゆっくりと荘重になることはあるのだが、次の楽章にいくとリズムがはねたり、妙にオリエンタル風なくねくねする半音階が用いられもし、先生にこういう感じよ、と身をよじらせて踊ってみせ、曲のオリエンタル性を生徒に伝えていた。はっきり言えば、宗教曲がいつも敬虔な感じに終始するのではなく、ある時は官能的で、またあるときはセクシーなのである。

それをどう捉えるかは人それぞれだろうが、神への愛が、異性への愛(同性パートナーへの愛)のように身近で切望する愛なのだとも言えよう。イタリア語での祈りでは聖母は tu つまり敬称ではなく、親称で呼びかける。フランス語では vous なので少し遠い。

ヴィヴァルディの宗教曲は、聴けば聴くほど、宗教の世界が近いもの、卑近なものとして感じられてくる。ヴィヴァルディの場合、オペラと宗教曲で音楽言語がほぼ共通するというのは、先生方も生徒も異口同音に語っていたし、僕も痛感するところである。宗教曲で、キリスト教の音楽だから近づきがたいと思っていらっしゃる方がいたとしたら、もったいないと思う。もちろん、メリスマというかアジリタというか、コロラトゥーラの装飾音も惜しげもなく使われて華やかです。

さて、ジェンマ先生のヴァリアツィオーネ(variazione) の指導について。英語ではヴァリエーション。つまりダ・カーポ・アリアで ABA'  の A' でもとのAをどう変えていくかという技術になる。通奏低音というか伴奏は変わらないので、調性を保ちつつ、メロディーやリズムを変えていくわけだ。ジャズの即興とか、主題と変奏の変奏曲の部分に近いとも言えようか。

ヴァリアツィオーネは、基本はあるが、その上で歌手の特性を踏まえてヴァリアツィオーネを作ることがジャンマ先生は得意なのである。ここは低い音から出て高く行く?それとも真ん中から?それとも上から出て降りていく?と生徒に尋ね、それぞれのメロディーをその場で歌ってみせる。あらかじめ考えて蓄えているのではなく、その場でこう、いやこうかしら、という感じで、場合によってはチェンバロのところに言ってフリジェ先生と相談しながら形を整えることもある。大抵はジェンマ先生が2,3回鼻歌的に歌って、これはどう?と言って歌い上げて聴かせる。11月の時は、比較的、発声練習の仕方や、アリアを歌った場合でもヴァリアツィオーネ以外の点の指導が比較的長かったのだが、今回は初日からどんどんヴァリアツィオーネの指導がはいる。11月の時は、生徒が持ち込んだ曲にかぶりが無かったと記憶しているが、今回は数曲が2人の生徒の持ち込み曲となって大変興味深かったのだが、先生は、生徒の声質にあわせて異なるヴァリアツィオーネを事もなげに作っていくのだった。

同一曲のレッスンの日がずれていたりすると、昨日あなたに作ってあげたのはどんなヴァリアツィオーネだったと尋ねているので、作るそばから忘れてしまい、また作っていくという風情だった。おそらく非常に豊富な持ち技の順列組み合わせのようになっていて、この曲のここの感じだとこういくのが素敵とか綺麗ということからその場で構成し、どの技を使ったかはいちいち記憶していないのかと思う。生徒は9人いるわけで持ち込まれる曲は20曲程度あり、毎日次々に生徒の順番で曲が変わっていくのだから、頭は次々に場面転換を強いられているわけである。それで10時から夜7時ごろまで昼食以外はぶっ通しで指導するのだからタフである。こちらは聴いているだけ、座っているのに徐々に疲れはたまったいく。授業そのものは興味津々で楽しいのだが、楽しいことをやっていても長時間にわたると、ホテルに帰ってくると疲れていることを感じるのだった。それはチェンバロをずっと弾いているフリジェ先生もまったく同様のことを言っていた。

同じ曲で2人の生徒にヴァリアツィオーネをつけていく場合、その生徒の声質、高い方が良く出るのか、低い方が良く出るのか、頭声と胸声の具合、早いパッセージがどれくらい早くまわるのか、などが考慮に入れられていたと思う。声質としてとても綺麗な音色を持っているのだけれど、アジリタはあまり得意でないという生徒もいる。アジリタに関しては、ポジションは変化させずに、口を動かすことである程度上下に音を振るという感じだった。一音一音拾う、辿るという作業をしていると、音楽に身体がついていけないのだ。その際も、先生は見事な見本を示すし、それだけでなく、身体の使い方を生徒の身体に触れたり、自分に触れさせたりして具体的につかませようとする。

アジリタのもう一つの技は、音を抜くということだ。タカタカ、タカタカと息をつくひまもなく、楽譜が駆け回るパッセージが延々と続く曲、最も有名なのは、'agitata due venti' だろう。この曲は、先生は'brutta'な曲と何度もおっしゃっていた。僕は個人的には好きな曲なので、軽く衝撃を受けたが、先生の言いたいことは次のようなことだと受け止めた。そもそも世の中でのこの曲の演奏は早すぎる。あんな早いテンポではなかったはずだ。先生は、ヴェネツィアのラグーナの波の揺れがテンポの基準なのだと言う。もちろん、波も晴れているか雨か、風が強いかなどで、静かな時と荒れる時がある、しかしその波のテンポはそこまで速くはないということだった。それと 'circo'ではない、サーカスではない、という言葉も出たので、超絶技巧をひけらかすのが曲芸のようで芸術性とは関係なくなっているということが言いたいようだった。おっしゃることはごもっともなのだが、僕をふくめて聴衆には曲芸的なものを求める傾向もあるのだと思う。だからピアノでリストの超絶技巧を駆使する曲、パガニーニのヴァイオリンの超絶技巧曲というものがウケた、流行ったわけだ。そう思う一方で、たしかにバロック歌唱の魅力は、アジリタ、早いパッセージにだけあるのではなく、他に沢山見所、聞き所があるという考えには全面的に賛成である。スローな曲でチャーミングな曲は山とある。ヘンデルで言えば 'オンブラ・マイ・フ’が典型的な例だ。

今回はその 'agitata due venti' を持ってきて指導をうけた生徒がいて、そうはいいつつ、歌い方はきちんと指導があって、早いパッセージが続いたときに、どの音を抜いてそこで息継ぎをするか(その可能性は複数箇所にあるし、生徒の体質、声質によってその箇所は変わりうる)を指導していた。例えばラシラソ、ラシラソが続いたときに一回目か二回目のシを抜いてもよい、といった具合。あるいはソを抜くという手もあるわけだ。アジリタの指導では、だから、早く歌うにはどう発声したらよいかという面と、それでも周りきれない場合にどこで音を抜くかという二方面作戦なのだ。先生は、抜かずに歌えてしまうのであるが。自分が抜かずに歌える場合に、わたしのようにやれば出来るでは、教師としてはまずいのだが、ジェンマ先生はまったくそういう教条的なところは微塵もない。一人一人の長所をどうやったら伸ばせるか、という方向でアドバイスがある。

それに加えて、フレーズのライン(fraseggio)を綺麗にするためにアクセントを単語ごとにはつけない、とか、このアリアがどういう場面で歌われているのか、どういう性格の登場人物によって歌われているのか、なども随分細かい説明がはいる。これはオペラが音楽劇で演劇という性質を本質的に持っているということからは当然とも言えようが、その指導も実に的確だし、だからこそ、歌う前に歌詞を朗読させたりするわけである。

ヴァリアツィオーネも作って生徒に歌わせ、歌いにくそうだとさらに作り直したりすることもある。うまく歌えるところまで仕上げると、先生からゴーサインが出て、これを楽譜にちゃんと書いておきなさいと言われるのだが、生徒全員が自分のレッスンはスマホで録音または録画している。それを聞き直して(見直して)採譜するのだ。自分用のヴァリアツィオーネが出来てゴーサインが出ると皆輝くように嬉しそうな顔をする。中にはうれしくて飛びはねる子も複数いた。考えてみるとそれは嬉しいはずだ。自分専用のヴァリアツィオーネというのは、服でいえば高級なオーダーメイドの服を作ってもらっているようなものではないか。しかもそれを仕立てる職人は世界最高水準の技の持ち主なのである。その生徒の喜びが、ジェンマ先生のエネルギー源なのだ。ジェンマのヴァリアツィオーネ作りはすごい、他のイタリア人教師と較べても抜きん出ているというのは、わたしは複数の人から聞いているし、11月と2月の長時間の実践をみていて、これがバロック音楽の専門家なら誰にでも出来るなどとはとうてい思えない。

こういう技法を見ていると、ヴィヴァルディ自身、指導しているピエタ音楽院の生徒にあわせて、さまざまなコンチェルトを書いてあげたのかと思うし、生徒が自分のための曲をもらって喜ぶ顔が彼の創作のエネルギー源の一つだったのかと想像する。

一週間、朝から晩までヴィヴァルディ漬けになってみると、ヴィヴァルディの世界がいかにヘンデルとも、いわんやバッハともまったく違うことがはっきりわかるし、ナポリ派のヴィンチやポルポラとも随分違うということが感じられるようになってきた。豊穣なる世界で、かつ甘美なる世界。イタリア語では、甘い菓子、デザートも、やさしい人のこともドルチェ(dolce)と言うが、まさにドルチェな音楽世界である。

 

 

 

 

 

 

 

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ヴィヴァルディのマスターコース(1)

ヴェネツィアのチーニ財団の Accademia Vivaldi のマスターコースを特別に聴講させてもらった(ヴェネツィア、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島)。

チーニ財団は、この島全体を戦後に再整備して、立派な図書館をはじめとするさまざまな施設を持っている。もともとが修道院だったところで、今も一部は修道会が使用しているようだ。

ここで昨年の11月と今年の2月、マスタークラスに聴講生として参加した。11月は、バロック歌唱のコース。2月は、通奏低音とバロック歌唱のコースがあり、そのすべてを聴講した。

バロック歌唱のコースでは、どこかの音楽院あるいは大学院に所属していたり、すでに卒業して歌手の卵として活動を始めている人が参加している。講師は、ジェンマ・ベルタニョッリ。皆、ジャンマと呼んでいるので、ここではジェンマ先生と記すことにしよう。後で知ったのだが、ジェンマ先生は、日本に何度も来ていて、特に草津の音楽祭で2013年以降マスタークラスをなさっていて日本でも知られているらしい。考えてみると、草津の音楽祭は、夏期なので、その頃からぼくは夏はヨーロッパに出かけることが多くなり、草津の音楽祭に深い関心を寄せることがなかったのだと思う。2013年以降、オペラなりバロック歌唱なりのマスタークラスには結構出ているし、そういうものがあれば聴いてみたいと思ってはいたのだが。

ジェンマ先生は、われわれに馴染み深いドニゼッティやヴェルディ、プッチーニも歌っていたし、バロックも歌っていた。今は舞台はしりぞき教職や乞われてレコード録音に参加したりすることはあるようだ。ジェンマ先生のバロック歌唱の指導は、実に見事なものだ。

1. 一人一人の生徒・歌手に合わせて指導していく。11月の時も2月の時も、決まったやり方を押しつけることはまったくないし、決まった指導法を繰り返すということもない(重要な点を複数の人が指摘されるという場合は別)。ある生徒は、発声練習の仕方を細かく指導して音域を少し広げる訓練を重視していたし、ある程度声が出来上がっていると、曲を歌ってそれを細かく直していくことが中心になる。

2.生徒は一生懸命歌うと、フォルテを連発しがちなのだが、そうすると、単語ごとにアクセントのあるところを強く歌って、フレーズ(fraseggio)のラインが綺麗に出ない。それはアリア部分でもレチタティーヴォの部分でも同じことが言える。これを直される生徒は、毎回多い。

3.歌うことに集中して、肩があがったりすると、呼吸の仕方を注意される。生徒の胸より少ししたの背中側を触ることもあるし、先生のその部分を生徒にさわらせて歌ってみせ、歌っている時にその部分がどう変化するのかのお手本を実感させる。呼吸の指導も受ける人が多い。これはイタリアの音楽院で指導を受けた方にうかがうと、イタリアでは徹底して呼吸の指導が繰り返し行われるとのことだった。

4.フォルテの時だけでなく、フレーズのラインというものを考えずに、レチタティーボを歌ったり、アリアを歌ったりすると、そのフレーズが細切れになりがちで、一つのフレーズに一つのアクセントという流れにならない。先生がそうではなくて、こういう風にラインをつくってと歌ってみせ、そこで手でラインを描きながら歌ってみせ、生徒が歌うときにも手でラインを途切れさせないようにと身振りで指導すると、ほとんどの生徒はラインが綺麗になる。修正の度合や、何回繰り返してそれが達成できるかは生徒によって早い遅いがある。

5.指導法とは、直接関係ないが、専門的に歌唱を長年学んでいる人でも音取りが難しいフレーズはある。声楽の人に聴くと半音階が続いたりすると嫌だという。ピアノのような鍵盤楽器だと、むしろ半音階は指が隣なのでミスタッチしにくくて楽なので逆だ。音取りの問題は、後述するヴァリアツィオーネの問題のところで再び触れる。

そう、ジェンマ先生の指導の最大の特徴はヴァリアツィオーネにあるのだ。長くなったので次の項目で取り上げます。

 

 

 

 

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サン・マルコ寺院の荘厳ミサ(二回目)

荘厳ミサの一回目は、後日、衝撃的な情報を入手したのだった。

チーニ財団の Accademia Vivaldi の事務局の T氏が合唱団のメンバーなのだが、その日は a doppio coro (二重合唱団)ではなくて、片方だけに

合唱団員を集めていた。しかも、曲目も変更になって Croce ではなく Grandi を演奏したというのだ。マエストロの意向だという。こういう変更にマエストロのどういう考え、あるいは内部事情がかかわっていたのかは知るよしもないが、合唱団のホームページには訂正情報は記されていないので、当事者の記載というのは、ほぼ一次資料なわけだが、実際にはそれが絶対的に正しいと言えない場合もあるわけだ。演奏会のプログラムなどもそうで、すでに印刷されているので、あらかじめ発表通りのプログラムになっているのだが、当日に張り紙などがあって、演奏順番や演奏曲目が変更になったりすることはままある。文書が残っていてこう書いてあるから、ということは基本的に重要だが、それと矛盾した情報が出てきた場合に無条件にしりぞけるのは危険なわけである。

さて、今回、一週間経過して、もう一度サンマルコ寺院の荘厳ミサに出席させていただいた。早めに行くと、すぐに堂内に入れてくれた。堂内では合唱団が仕上げの練習をしている。前回と違って、信者席からみて右上の合唱団のメンバーが前方に出てきていて複数のメンバーが見える。しかも指揮者は背中でなく、左側に向かって指揮をしている。そう思って左上を見ると合唱団がいるではないか。今回は、正真正銘の二重合唱の曲が聴けるわけである。両方に合唱団がいる場合、右上の指揮者は、左上の合唱団に顔を向けて、かなり大きく腕をふって指揮をしていた。考えてみればもっともなことで、両合唱団の距離はかなりのものがあるので、目線やちょっとした動きで伝えることは困難だろう。

音響の違いであるが、興味深かった。相変わらず、反響、残響がたっぷりとあるので、どの音がどこから聞こえてくるかは判りにくいのだが、音源そのものが広がっている感じがわかるのだ。前回は、右側だけに音源があった。その時と較べると明らかに音源の広がりが感じられるのである。両方からきて音が混じりあっている感じは何となくわかるのである。

前回と明らかに曲が違っていたので、今回は クローチェだったのかもしれない。

振り返ってお堂を見ると、合唱団が陣取れそうなところがあと二カ所はある。もしかしたら、特別な祝祭の特別な日には、合唱団を4つにわけて複雑な構成の楽曲を奏したかもしれない。12声部とか16声部の曲が実際存在しているのは、こういうお堂の建築的構造を前提としているのかもしれない。

今回は、前回と緑色の僧服の方と赤い僧服の方が入れ替わっていた。隣人への愛ということについて聖書の引用があったし、司祭のお話もそれについてだった。二回目のせいか、今回のほうがミサが短く感じられた。

荘厳ミサを全体として経験し、ミサというものの儀式的な性格と同時に、演劇的な性格、荘厳ミサゆえの音楽的性格などがなんとなくわかってきた気がする。細部の変化(公会議などで)はあるにせよ、ミサというものが古代からずっと続いていることの奥深さに触れた思いがする。ありがたい貴重な経験に感謝のほかない。

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2022年2月14日 (月)

サン・マルコ寺院の荘厳ミサ

サン・マルコ寺院で荘厳ミサに出席した(ヴェネツィア)。

荘厳ミサに出席したのは、宗教心からではなく、音楽的な関心という不純な動機だったので、なるべくまわりの人にあわせて行動し、失礼のないようにつとめた。

サン・マルコでは、a doppio coro と言って合唱隊を二手にわけて、主祭壇の(信者の座る席から見て)右上方と左上方にわけて交互に歌うという特殊なミサ曲がある時期に複数の作曲家によって書かれていた。

この日、ミサの途中というかミサと一体化してその一部分として歌われたのは、ジョヴァンニ・クローチェ(1557−1609)のいくつかの曲である。合唱団のホームページには

 Ordinario 
Gloria, Sanctus, Agnus
Messa Sopra la battaglia G. Croce

 Proprio 
Ad introitum
Cantate Domino  
G. Croce
Ad offertorium
In die tribulationis  G. Croce
Ad communionem
O sacrum convivium G. Croce
Voce mea G. Croce
Ad recessionem
Exaltabo te Domine  G. Croce

と記されているが、まだまだ勉強不足できちんとそれぞれの曲の役割を把握しきれていない。ミサでは司祭が5人ほど出てくるのだが、緑の僧服を着た方が主祭でほかの白い服の方は助祭に相当するのかと思うが、彼らも相当年配の方で通常の教会とは別の呼び名があるかもしれないが不明。

司祭は普通にお話をされる部分とレチタティーヴォ風に節をつけてミサの式文を読んでいるところがあり、その合間に上方から合唱がはいる。

信者代表が聖書の一部を読み上げる場面でも、同じ人が普通に朗読する部分とまったく歌唱として歌い、合唱と相互に歌うという部分もあるのだった。こちらからみて右上方に指揮者の背中がちらっと見える程度で、信者の席から合唱団はまったく見えない。声が天井に反響して響き降ってくるという感じだ。

だから、実は合唱団が左右に分かれていても、信者の席からは、右から左から分かれて聞こえてくるという感じは薄い。教会は一般に反響が豊かで、パイプオルガンなども目をつむるとどこから聞こえてくるのかわからないことが多い。森の鳥の声もそうで、木の上で鳴いていることはわかってもどちらの方角からかを判断することはきわめて難しい。僕が想像するに、演奏する合唱の人、指揮者、そして作曲する人にとっては、とてもチャレンジングな営みなのではないだろうか。残響が多いので、右の合唱団のフレーズが終わって左の合唱団が入るタイミングはとても難しそうだ。あまりに残響が消えるのを待っていたらテンポとして遅くなってしまうし。そのせいか、聖堂の中にはいってミサが始まる前も、合唱団はずっと入念に練習を繰り返していた。仮に別の場所で練習していたとしたら、そこでやったように、この反響・残響の長いお堂でそのまま演奏できるかというと、微調整は必ず必要になるだろうと思われる。

司祭の方は、神は人間が幸せになることを求めているということ、人が神を求めることを切望していることなどを、聖書を引用して説いておられた。さらには、ベネデット16世(引退した教皇)の最近の談話(大雑把に言うと、ハラスメント問題が自分の担当管区で上がってきたときに、見逃したかどうかという問題について、本人は自分はもうじき神の裁きを受ける、やましいことはない、というようなニュアンスであったかと思う)についても言及していたのが印象的だった。ジョヴァンニ・クローチェのような1500年代の作曲家は、ヴェネツィアの音楽院の授業でも、取り上げられることは、決してまれではないとのことだった。1500年代以降の音楽は生きている伝統なのだ、少なくともヴェネツィアでは。

 日本ではクラシック音楽ファンの大半(コアな古楽ファンや研究者は別として)はバッハやヴィヴァルディなどの1700年代前半あたりまでしか耳馴染みがない場合が多いように思う。しかし1500年代、1600年代にも、面白い作曲家は何人もいる。モンテヴェルディだけではないのだ。そのことが素直に実感できてしまうのが、ヴェネツィアの懐の深さか。

 

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Ca' Rezzonico とピエトロ・ロンギ

Ca' Rezzonico でピエトロ・ロンギの絵画を観た(ヴェネツィア、Ca' Rezzonico).

ヴェネツィアでは、他のイタリアの諸都市では Palazzo(館、宮殿)というべき貴族の大きな家を Ca'  という。Casa (家)の省略形である。

Ca' Rezzonico は18世紀のお屋敷が、博物館のようになって一般公開しているわけで、18世紀の貴族の家を想像する際に貴重なサンプルだし、オーディオガイドで天井画や建築様式、壁に掛かった絵の解説も丁寧にしてくれる。これまでに経験した Palazzo や王宮でもそうなのだが、西洋の天井画は、ギリシア・ローマ神話から題材をとったものであったり、アレゴリー(美徳、栄光など)を表現したものが多い。あるいは宗教的なテーマ(聖書のエピソードなどを表現したもの)が多いのは周知のことだろう。それは間接的にその家の当主の功績を称えるものであったり、美徳を称えるものであったりする。それは壮大さを強調したもの、空飛ぶ馬車が描かれていたり、天使が雲間から覗いていたりするもので、18世紀になってもその傾向は依然として変わらず、ティエポロやその同時代人の画家たちも、注文主の意向に応じてそのような作品を次々に量産していたわけである。

そういう部屋をいくつも観ているうちに、ある部屋でピエトロ・ロンギの絵が何十枚も上下二枚ずつずらりと並んでいる部屋に入った。これまで、ピエトロ・ロンギの絵は本、あるいは美術館で単独で見たことはあったが、壁の二面を埋め尽くす何十枚を一気にみるのは初めてだった。正直に言ってロンギの絵がなぜ名高いのかが今まではピンと来ていなかった。ところがこの日、この疑問が氷解した。これが美術史的に正しい見解かどうかは分からないが、僕自身の中では長年の疑問が氷解したのである。それはこういうことだ。18世紀のティエポロをはじめとする売れっ子画家たちは、大きな館の大きな天井に、ギリシア・ローマ神話の神々や、聖書の人物を壮麗に書いている。人間の形をしていても、人間以上の存在であることを強調する描き方だ。だから雲の上にいたり、傍らに天使がいたり、スーパーな力を発揮していたりする。それに対して、ロンギが描く絵の人物は、まったく普通の人(貴族ではあるが)。際だって美しいとか、際だって立派そうということはない。女性が化粧をしている姿、あるいはある家に司祭が訪れている様子、ダンスをしている二人、カルネヴァーレで仮面をかぶっている人などなどで、今でいえばスナップ写真、スマホでとったショット、記念写真のようなものだ。天井画の世界と、画風も内容も、際だったコントラストをなしているのである。そのコントラストに軽い衝撃をうけ、ロンギの眼差しの徹底したこだわりに興味をもった。彼は、自分の顧客を誇張して立派そう、偉そうに書こうとはまったくしていないのだ。だからイギリスのホガースと比較もされるのだろう。しかしホガースほどの毒、皮肉はない気がする。当時としては、徹底的にリアルな等身大を書くという行為が(天井画に何がどう描かれているかというコンテクストの中で)アイロニーの効果を発揮することはおおいにあると思うが。

 しいて喩えれば、天井画はオペラ・セリア的な世界であり、ロンギの絵はオペラ・ブッファ的な世界に通じるところがあるかもしれない(ただし、ブッファにしては、ロンギの登場人物は上流階級に偏りすぎていると思うが、ここで言いたいのは眼差しの方向性の問題である)。

 18世紀は後半になれば、フランス革命が押し寄せてくるし、ヴェネツィア共和国の終焉も近い。そんな時に、栄光を描く絵画ではなく、目の前のリアルを描こうとしたロンギ、彼の眼差しの静かな強さを感じたのだった。

 

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2022年2月11日 (金)

ペルゴラ劇場の杮落としのスペクタクル《テーベのエルコレ》

ヤーコポ・メラーニ作曲、アンドレア・モニーリア台本のオペラ《テーベのエルコレ》を観た(ペルゴラ劇場、フィレンツェ)。

この曲は360年ぶりの復活上演であり、いろいろ説明が必要だ。初演されたのは1661年。ペルゴラ劇場が出来上がったのは1657年だが内輪のお披露目だけで、大々的なお披露目はこの1661年のコジモ3世(将来のトスカナ大公)とオルレアンのプリンセス、マルゲリータ・ルイーザの結婚を祝した大スペクタクル《テーベのエルコレ》だった。Festa teatrale とリブレットに書かれているように音楽のついた祝祭劇なのだ。

ロッシーニで言えば、《ランスへの旅》が、本来はシャルル10世の戴冠の祝祭のためのその時限りの上演を前提としていて、その後再演がなされなかったように、《テーベのエルコレ(ヘラクレス)》もこの将来の大公の結婚という国家的祝祭のための大スペクタクルだった。その後、再演されることはなく、近年になって4葉の楽譜が見つかった(ピストイア、ヴァティカン、パリ国立図書館)。

ペルゴラ劇場は、世界で最初のイタリア式劇場、平土間と桟敷席のある劇場なのだが、これを設計したのはフェルディナンド・タッカで、資金を出したのは枢機卿ジョヴァン・カルロ・デ・メディチ(コジモ3世の叔父)だった。形式的にはこの劇場は、アカデミア・インモービリが運営しているのだが、その長がジョヴァン・カルロだった。

今回の上演は、この発見された楽譜を、指揮者のサムエーレ・ラストルッチが再編成して、この日の上演になった。初演の時には数百人の登場人物(神々や英雄、ニンフなど)がいたし、長時間で場面も数十あったとのことだが、この日の上演では当時の貴族の服を来た男女がヴェーネレ(ヴィーナス)やジョーヴェといった神々を演じ、彼・彼女らが歌うのだった。前方にいかにも大貴族然とした二組のカップルが舞台上に座っているのだが、それが登場人物であり、かつ新郎新婦、その親ということになっていた。上演時間は約1時間半。発見された楽譜の量からして作品全体を復元することは困難であったろう。しかし、二人の青年がナレーターとして歴史的な事情、今ここにいるのは(1661年当時ペルゴラ劇場にいたのは)誰々ですなどという解説件ナレーションをしてくれるので、目の前に与えられた具体的素材から想像をとばしてこんな大スペククルでもあったろうかと夢想する一時であった。

ちなみに、ペルゴラ劇場が、チケット代を払えば市民も入れる劇場、パブリック・シアターとなるのは18世紀にはいってからである。

 

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2022年2月 9日 (水)

デルフィーヌ・ガルー・リサイタル

デルフィーヌ・ガルーのリサイタルを聴いた(ペルゴラ劇場、サロンチーノ)。

ペルゴラ劇場の小ホールでバロック歌手デルフィーヌ・ガルーのリサイタルを聴いた。オッタヴィオ・ダントーネのチェンバロ伴奏。

プログラムの題が、L'arte del canto--Passioni selvagge e amori pastorali  となっていて、歌唱の技術ー素朴な情熱と牧歌的愛、といった意味になるだろう。

休憩なしの約一時間のプログラムで、ポルポラのカンタータ、ドゥランテのソナタ(チェンバロ独奏)、ボノンチーニのカンタータ、パラディージのソナタ、C.A.ベナーティのカンタータ、レオナルド・レオのアリア、ガルッピのソナタ、ベネデット・マルチェッロのカンタータという構成である。つまりカンタータの間にチェンバロ独奏がサンドイッチのようにはいっているのだが、時代は17世紀前半に活躍した人が中心でそれよりやや後の人として、Paradisi(1707−1791)とGaluppi (1705-1785)がはいっている。

ガルーは、西洋人としては驚くほどやせた華奢な体つきで、顔をみなければ日本人だとしてもおかしくない感じである。ペルゴラの小ホールは300人の比較的小さなホールであるということも関係しているかもしれないが、声量としては自由自在に小さい声での細かなニュアンスから、圧倒するような迫力の声まで使いわけている。

ケルビーニのオペラ・ブッファと比較するのも唐突だが、自分としてはごく最近に聞いたのでつい比較されてしまうわけだが、歌詞はこのカンタータ群が圧倒的に優美である。まあ、ケルビーニはオペラ・ブッファだから、洒落のめすということはあっても、典雅さをねらったものではないので当然と言えば当然なのだが。しかし音楽作りに、歌詞の内容が反映されることは当然で、カンタータの方は上品で、時に情熱を感じさせるといった音楽であり、装飾音のニュアンスが実に豊かなのだった。ここは歌手に技量の見せ所なわけであり、歌手によってヴァリエーションの部分は異なってくるだろう。

次々に作曲家が変わると、同じ時代の人でもポルポラとボノンチーニの作風の違いが、ほの見えて面白い。ボノンチーニの叙情性がありながらも、そこに溺れぬ洒落た感じは魅力的だった。ポルポラはポルポラで、最初は淡々として均整のとれたメロディーなのだが、装飾音がはいってくるといろんなニュアンスがそこかしこに現れてくるのだった。ガルッピになると、少し時代が変わって来たなということが聞いていてわかるのが面白かった。

アンコールではヴィヴァルディのアリアで超絶技巧が披露された。

これも実によく考えられ練られたプログラムだと感心したし、彼女の歌唱の技巧、表現を堪能した。ダントーネのチェンバロも作曲家ごとの違いを着実に感じさせ、納得の演奏だった。

 

 

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ケルビーニのオペラ・ブッファ《Lo sposo di tre, e marito di nessuna》

ケルビーニ(1760−1842)の唯一のオペラ・ブッファ《Le sposo di tre, e marito di nessuno》を観た(Maggio Musicale Fiorentino, フィレンツェ)。Maggio に中ホールが昨年できて、これはそこでの上演。客席はかなり傾斜して、大学の階段教室のようである。

ケルビーニといえば《メデア》が突出して有名だが、年齢的にはモーツァルトの4歳年下であり、《Lo sposo di tre, e marito di nessuna》 が初演されたのは、1783年のヴェネツィア、サン・サムエーレ劇場でのこと。モーツァルトの場合、《イドメネオ》の初演が1781年、《フィガロ》の初演が1786年である。パイジェッロの《ヴェネツィアにおけるテオドーロ王》が1784年初演。ざっと作曲の時代をイメージするためにモーツァルトをあげたが、ケルビーニが影響を受けたのはむしろパイジェッロだろう。もちろん、モーツァルトもパイジェッロの影響を受けている。

さて、タイトルの《Lo sposo di tre e marito di nessuno》というのは、三人の婚約者だが、誰の夫でもない、というくらいの意味で、あちらこちらの女性に結婚を申し込んだが、結局誰とも結婚できなかったというピスタッキオ男爵の物語である。ピスタッキオと言えばジェラートなどでおなじみなわけで、空豆男爵といった風なユーモラスな響きがあるだろう。

あらすじ:第一幕 ピスタッキオ男爵にはドンナ・ローザという女男爵の婚約者がいる。二人は実際に会ったことがない。そこにドン・マルティーノとドンナ・リゼッタの兄妹(弟姉かもしれないが不明)は、つけいろうとする。マルティーノはローザから肖像を預かっていてピスタッキオ男爵にみせることになっているのだが、それを妹リゼッタの肖像に替えてしまう。

ピスタッキオは、リゼッタをローザだと思い込んで、彼らの企みは成功したかに見える。しかしそこへ本物の婚約者ローザがやってくる。最初に彼女に出会うのは、ピスタッキオの叔父ドン・シモーネ。そこにリゼッタが加わり、彼女はローザが誰かを認識するが、ピスタッキオはリゼッタを自分の婚約者と思い込み、ローザに感心を払わない。ローザは怒る。ピスタッキオとリゼッタは愛の言葉を交わし、裏切ったら4回ひっぱたくと約束する。この間、マルティーノはローザを口説きにいく。混乱の中で、ピスタッキオは何がどうなっているのかわからなくなる。リゼッタもローザも、自分こそがピスタッキオの正当な婚約者だと主張する。

第二幕:ピスタッキオ男爵と叔父シモーネが話し合っているが、ピスタッキオはもう結婚したくないと言う。が叔父の忠告をいれ、ナポリから二人の弁護士がやってくるーこの二人実は、マルティーノとリゼッタが変装している。広場で手品をするフォッレットと恋人で歌手のベッティーナがそれを聞いている。ベッティーナはシモーネに口説かれるフリをするが、指輪などを巻き上げすっと抱擁をかわし去って行く。そこへローザが来るとシモーネはローザをくどき、甥が結婚しないのならわたしはどうかと言う。ローザはピスタッキオへの面当てにそれもよかろうと同意する。しかしそこへマルティーノが来ると彼に心を寄せてしまう。

ローザの提案で、ピスタッキオの将来をシビッラの巫女の宣託に委ねることにする。巫女に化けているのはフォッレットなのだが、ピスタッキオは独身のまま、というお告げ。マルティーノはローザにすべてを打ち明ける。そこへシモーネがやってきてローザの愛を求めると、ローザは受け入れるフリをする。ピスタッキオはずっと独身でいるのがいやでベッティーナをくどく。彼女も受け入れるフリをする。リゼッタがやってきて、ローザとシモーネの結婚の準備が整ったと告げる。ピスタッキオは考えを変え、リゼッタと結婚したいと考える。披露宴で、シモーネがローザの手を求めると、その手はマルティーノに与えられる(結婚の承諾)。ピスタッキオがリゼッタの手を求めると、その手はシモーネに与えられる。ピスタッキオがベッティーナに向かうと彼女はフォレットに向かうのだった。

くるくる目が回るような恋愛ゲームだ。

指揮のファゾーリスは、ケルビーニがいかに立派な音楽を書いたかを強調したいらしく、どの曲もしっかりとがっちりと歌わせ、鼻歌風とか軽口をたたいている歌という風情は乏しかった。そのため、一曲一曲が立派に書かれていることはわかるのだが、軽快さ、軽妙さはやや物足りなかった。テンポもゆっくりめで、上演は休憩1回をはさみ4時間近くかかった。テンポが遅いと、言葉が聞き取りやすくなる傾向はあるが、今回はソプラノの二人は発音は聞き取りにくいところが多かった。その点は男性陣の方がよかった。歌の情緒面の表現はそれぞれ工夫があり、よかったのだが、軽さという点に問題がないとは言えなかった。その中ではピスタッキオのファビオ・カピタヌッチが表情の変化を適切につけていた。

ケルビーニの音楽は、おおまかに言えばモーツァルトに似ていて、そこから憂いを取り去った感じである。晴れやかで軽やかなのだと思うが、今回の演奏は晴れやかで立派なのだった。立派な演奏にすることで、ケルビーニを再評価して欲しいという思いも指揮者にはあったのかもしれない。

 

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2022年2月 8日 (火)

ダントーネ指揮アッカデーミア・ビザンティーナのコンサート

オッターヴィオ・ダントーネ指揮アッカデーミア・ビザンティーナのコンサートを聞いた(ペルゴラ劇場、フィレンツェ)

ペルゴラ劇場の二階にあるSaloncino という小ホールで、一列20人の15列に椅子が配置されていたので、満員で300人の小ホールである。

こういうところでバロックを聴けるのは贅沢だし、ありがたい。

コンサート・マスターはアレッサンドロ・タンピエーリで、生で聴くのは初めてだと思うが、素晴らしく上手い。表情づけ、ニュアンスがミリ単位でぴたっと狙い通りにいっているという感じ。超一流の料理人を想起させなくもない。

曲目はヴィヴァルディの弦楽コンチェルトRV167, ヴァイオリンのためのコンチェルト RV273, 弦楽コンチェルト161。プラッティのチェンバロ・コンチェルト、後半は、マルチェッロのコンチェルト・グロッソ、ヴィヴァルディの弦楽コンチェルトRV118, ヴィオラ・ダモーレ・コンチェルトRV394、弦楽コンチェルトRV138.  アンコールもヴィヴァルディだった。

ベネデット・マルチェッロのコンチェルト・グロッソは意外に面白かった。叙情的に流れるかと思いきや、案外、創意工夫に富んでいるのだ。

ヴィヴァルディは、タンピエーリの技巧の冴え、表情の適格さが光る演奏であったが、ヴィヴァルディ自身がヴァイオリンの名手だったことが納得できる。ヴァイオリンの適格なリードが曲の輪郭をくっきりさせるし、その表情で、ヴィオラもチェロもコントラバスも生きてくるのだ。タンピエーリのリードは楽員に信頼されていて、チェロやコントラバスも彼の方も向いて演奏していることがままある。それと、ダントーネがリードする場面が交錯するのである。こういう塩梅は、CDでは到底わからない。室内楽はつくづく生で画像があったほうが面白いと思う。タンピエーリは一曲終わると、チェンバロと音合わせで自分の弦を調整し、ヴァイオリンの一人一人の傍らに歩み寄って音を合わせ、ヴィオラにも歩み寄って合わせていく。ピッチの狂いに神経質なのだ。

タンピエーリがヴァイオリンをヴィオラ・ダモーレに持ち替えての演奏も面白かった。一回り大きいし、弦の数も多い。ソプラノがメゾになったように音色も低めの音の倍音が心地よい。後から楽器をみせてもらうと、オリジナルにはないと言っていたが、主要な弦の下にくるように小さな駒を設定して弦を張っていた。これがないと、30分は鳴らしていないといい音が出ないが、今回のようにさっと持ち替えの場合にはそれが出来ないので、こういう隠し技を使うらしい。

歌手でも歌っていくうちに喉が温まって、調子がよくなる、声の出がよくなるということがあるが、弦楽器もそうらしく、最初の曲よりも、曲が進むにつれ、アンサンブルがよくなっていくのだった。こういうのは、オーディオでも車でも同じで、スイッチ入れ立てよりも少し時間が経過した方が、アンプなりエンジンが暖まって調子が出てくるようである(電気自動車がどうかは未見)。

ヴィヴァルディの弦楽やヴァイオリン・コンチェルトは曲ごとに実に豊かな世界がある。昔はストラヴィンスキーの悪口にあったように、同じような代わり映えのしないものを何百曲も作ったという印象を持たれがちだったが、それは演奏スタイルのせいが大きかったのだということが今になるとわかる。ピリオド楽器、ピリオド奏法の開発が進んで、弦楽器の表現する表情の幅が広がり、レガートやピッチカートなどだけでなく、弓をたたきつけるような奏法も今や当たり前になって、ダイナミクスが拡大されて、ヴィヴァルディの曲の多様性が味わえるようになったと言えよう。

17世紀、18世紀前半の音楽に関しては、われわれは幸福な時代を生きていることを再認識した演奏会だった。

 

 

 

 

 

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2022年2月 1日 (火)

コモの《チェネレントラ》

コモの Teatro Sociale でロッシーニの《チェネレントラ》を観た。

前項と同じOpera Education のものだが、今回のは観客がほぼ小学生のみ。引率の先生と数名の父母はいるが、5つのクラスの子供たちがやってきた。子供たちは、劇場関係者たちは coro (合唱団)と呼んでいたが、五カ所で舞台上の歌手とともに、あるいは掛け合いのようにして歌う。掛け合いというのは、同じ言葉を繰り返すところで、歌手と子供たちが一度ずつ歌うのだ。子供が歌うところでは指揮者は、オケに背を向け、客席に向かって指揮をする。単にテンポや拍をを合わせるだけでなく、身をかがめるようにしてpiano (小さく)と要求したりすると、

子供合唱団の声は少し小さくなるのだった。

この日は前項の日と異なる指揮者(Lombardi)だったのだが、もともと彼が指揮者で練習を積み上げてきたのだが、直前にコロナ感染

があり、前項の日には代役の指揮者(A.Palumbo)が振っていた。この舞台は、指揮者と演出家が念入りに調整・打ち合わせをして、音楽にあわせたギャグ、ずっこけの仕草が盛り込んであるので、指揮者が替わってテンポが変わってしまうのはやりずらかったとのこと。この日は元の指揮者に戻った公演だったので、演出のねらいのピントがあった感じだった。

上演時間は1時間半の短縮版(休憩無し)だが、ところどころ自分が歌うにせよ、よく集中が続くものだと感心したし、それどころか、カーテンコールの時に立ち上がって、スタンディング・オベーションする複数の子供を劇場で初めてみた。飛び跳ねている子もいたし、ブラーヴィとか声をあげている子もいる。小学生の熱い反応に、心動かされた。

歌手、オケ、演出等、当日の出演者の貢献はもちろんだが、この企画は Opera Education というプロジェクトが1996年から続いていて、小学生はあらかじめ5つの歌は練習して歌えるようになっている。当ブログでも紹介したが、ベルガモでの《愛の妙薬》では一般客に、合唱の一節を劇場に入場して上演前に練習させ、その場面で観客も歌うという試みがあった。たしかに、自分も参加すると、劇中への入り込みが深まる。大袈裟に言えば、舞台との一体感のようなものが形成される、少なくともそういうベクトルが生じる。

ベルガモの時よりも、今回の《チェネレントラ》では子供たちの歌う箇所、分量は多かった。そういう準備があってのこの日だったのだ。

こういうプロジェクトに参加した子供はこれまで14万人、教師7000人、公演数289という数字があがっている。このプロジェクトはコモだけで上演するのではなく、通常は150公演、今年はコロナの影響で98公演を敢行する大プロジェクトである。

 

 

 

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