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2022年1月 3日 (月)

ヴィヴァルディ《ファルナーチェ》その2

ヴィヴァルディのオペラ《ファルナーチェ》の続き。

この日の歌手は、ラファエレ・ペをのぞき、大変有名な歌手、国際的に活躍している歌手を集めているわけではない。バイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルなどと対照的なのは、イタリア人歌手で固めていることだ。

そこには一長一短がある。

そもそも曲の作りからして、たとえばヘンデルのオペラとヴィヴァルディのオペラでは、言葉へのこだわり、あるいは言葉と音楽の有機的連関性がヴィヴァルディの方がずっと強い。今回の上演では、舞台の上方にイタリア語字幕が表示されていた。ダ・カーポ・アリアのABA'では、A,B のところでは歌詞が表示されA'のところでは、Aと歌詞は同じなので表示されない。舞台を観たり、字幕を読んだりしながら観ていたのだが、ヴィヴァルディの場合、歌詞と音楽の連関性は実に説得力があり、魅力的なものだった。作曲した時点で、ヘンデルの場合、ロンドンの聴衆の多くがあまりイタリア語を解していないため、有機的連関性を追求する動機が乏しく、それどころか彼の場合、イタリアで上演されたオペラのリブレットのレチタティーヴォを勝手に大幅に削除した版を誰かが作り(リブレッティスタが明記されていないこともままある)、それに曲をつけているのだ。

ヴィヴァルディの場合、ヴェネツィアであれ、ローマであれ、フェッラーラであれ、聴衆はイタリア人であるから歌詞を理解することが前提となっており、有機的連関性を聴衆も求めるし、作曲家もそれに応えようとするのは当然のことと言えよう。

しかしそういう意味ではポルポラやヴィンチの場合も、イタリア人(当時はイタリア半島の諸国に住む人々であったわけだが)が聴衆であることを前提としている。その上で、ポルポラやヴィンチとヴィヴァルディでは、音楽と言葉の関係性に微妙な違いがあるように思うが、その分析は別の機会を期することにしよう。一つ言えるのは、アリア自体の劇的な性格、ドラマティチタがヴィヴァルディの方が刺激的に強い。おそらくその一つの理由は彼の弦楽器セクションの表情付けのダイナミズムにあると思う。

ヴィヴァルディはイタリアの大オペラ作曲家の中で、例外的に、数多くの優れた器楽曲を作っている例外的な作曲家であることと、それは無関係だはないだろう。

こうした音楽と言葉の連関が濃密なオペラを上演する時に、イタリア人キャストで固めているのは、言葉のニュアンスを大切にする上では強みとなる。とはいえ声自体の魅力、雄弁さという点で一流のイタリア人歌手をしのぐ他国の超一流歌手もいるわけで、公演の魅力はそれぞれにあるわけだ。フェッラーラという人口13万人程度の街で、これだけ文化的意義も高く、上演の質も高い上演がなされるところに、イタリアのオペラ文化の底力の一端を見た。

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