カシオーリの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲
ジャンルーカ・カシオーリのピアノ演奏でモーツァルトのピアノ協奏曲第9番《ジュノム》をテレビで観た(RAI5)。
指揮はピエタリ・インキネン。全く同世代である。録画は明らかにコロナ以前なのだが、はっきり何年とは示されず数年前だろうということしかわからない。
カシオーリがCDでデビューした時に、そのテクニックとバッハをブゾーニ編曲で奇を衒うことなく真っ直ぐな音楽を奏でていた。一方で20世紀の作品もバリバリ弾きこなし、ポリーニを思わせる天才が出てきたと感じた。来日した時にコンサートに行ったが、おそらく1997年だったかと思うのだが、彼はドビュッシーの練習曲を弾いてやはり度肝を抜いた。フランス風の霧のかかったドビュッシーではなく、全く晴れ渡った曖昧さの微塵もないドビュッシーで、会場で会った知人は一様にテクニックの凄さは認めるものの、ドビュッシーをこう弾くことへの好悪は別れた。
僕は、ポリーニがショパンの練習曲でやったこととパラレルだなと思っていた。ポリーニのショパンの練習曲も当時は衝撃的で、サロン的な味わいが皆無の明晰の極みというピアニズムであったからだ。中川原理氏が「玲瓏」な音と描写していたことを思い出す。
こうやって彼独自のピアニズムで19世紀末から20世紀のレパートリーを開拓してくれるのかと期待していたら、しばらくして彼はソロではなくて、庄司沙矢香の伴奏者として来日するようになって(それが悪いというつもりは全くないが)、ベートーヴェン、モーツァルトのヴァイオリンソナタなどの伴奏をする人になって不思議だと思っていたが、やがて彼への関心が薄れていたし、僕自身の関心が大きくオペラに傾斜したのでも会った。
彼のソロを聞く、見るのは本当に20年ぶりあるいはそれ以上が経過している。カシオーリは上下黒い服でゆったりと歩いて普通にお辞儀をして立ち居振る舞いに奇矯なところは少しもない。のだが、音楽は全く独自なのだった。途中であれ、これがモーツァルトの何番かと気になったほどだ。つまり今まで聞いた奏者の誰とも違う弾き方をしていたのだ。それはつまり、この曲をあらかじめ完成したものとして、なるべく美しく弾こうという弾き方ではないのだ。むしろ、彼が今この曲を作曲あるいは初演していて、次の音は何にしようかと探りながら弾いている感じなのだ。技術的に言えば、右手と左手のリズムがしばしば微妙にずれる。無論、彼ほどのテクニシャンであってみれば、モーツァルトのこの協奏曲でリズムを整えるのは朝飯前だろう。しかし彼が注力しているのは、明らかに、表面的なピアニズムの磨き上げではないのだ。若い時期のモーツァルトが新しい音、和声進行、音楽の進み方を探求している様を再現したいとするかのようだった。だから、聞いていて、いかにも綺麗でしょう、という印象ではなく、次にどんな音が来るのか、という不安定さが支配する瞬間があって、妙に難解な音楽にも響くのだった。
ここで思い出すのは、少し前にたまたま見たグレン・グールドのyoutube で、その中でグールドは、モーツァルトは若い時には、新しい音楽を探求していただが、晩年は「堕落」して自分を模倣し、新しい音楽の追求をやめてしまった、という趣旨のことを言っていた。言われてみるとそういう面もある。ただし、晩年の「堕落」はあまりに美しく典雅で、憂愁を含んだ「堕落」でその魅力に抗するのは極めて困難なのだが。
そういう意味で、カシオーリは若き日のモーツァルトの持っていた前衛性を前傾化した演奏していたのだと言えよう。観客の中にもそれがどれくらい共感を持って受け入れられたのかは、観客の表情からは心もとない感じだった。
カシオーリはどういう風の吹きまわしか、アンコールにショパンの軍隊ポロネーズを弾いた。これもまた不思議な演奏で、情熱を掻き立てようとするところから切断された演奏で、通常テンポが速くなる(アッチェレランドする)ところでも、むしろ歩みが遅くなりこそすれ速くはならず、そのままポンと終わり、観客は呆気にとられた人も、不満を持った人もいたろうと思うが、僕としては上述のように、カシオーリの目指している境地はそういう情熱的ロマン派という果てしなく繰り返されてきた情景の再現ではないのだと考える。それを淡々とした表情で、しかし一貫して実現している彼のピアノに深い感慨を覚えた。たぶん40歳前後の録画だと思うが、彼の音楽的深化はこういうところにあったのか、と大いに見直した。
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