ストラデッラ作曲《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》
ストラデッラ作曲のカンタータ《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》を聞いた(ジェノヴァ、カルロ・フェリーチェ劇場)。
この公演は、タイトル・ロール、洗者聖ヨハネをツェンチッチが歌うはずだったのだが、インフルエンザにかかり降板した。それをfacebook で知ったのは公演の前日であり、誰が代わりに歌うのかの情報もネット上にはなかった。
実際に会場に行ってみると、プログラムに一枚添付があり、 Danilo Pastore というカウンターテナーが代役であり、彼の経歴も細かく記されていた。彼はトリノ生まれで、ピアノと声楽を習ったのちにカウンターテナーに転向した。ノヴァーラのコンセルヴァトリオでカウターテナーの研鑽を積んだ。先月、ヴェネツィアでバロック歌唱のマスタークラスの聴講をさせてもらったのだが、その時にいたカウターテナーの歌手もノヴァーラの学生だったし、その場の人もカウンターテナーはノヴァーラのコンセルヴァトリオ出身の人が多いという話題が出ていたところだ。急な話でよく引き受けてくれたものだ。長身で痩せ形に見えるし、声も澄んでいてやや細身だ。
サン・ジョヴァンニ・バッティスタ=洗者聖ヨハネであることからお判りのように、このカンタータは、ヘロデ王とサロメがヨハネ(ジョヴァンニ)の処遇を巡り葛藤する聖書のエピソードをカンタータにしたものだ。近現代ではオスカー・ワイルドの「サロメ」、それをオペラ化したリヒャルト・シュトラウスのオペラ《サロメ》が有名だろう。ただし、このカンタータではエロディアーデ娘(彼女の母エロディアーデ母である)として出てくる。
このカンタータは登場人物は5人。洗礼者聖ヨハネと助言者、エロディアーデ母、エロディアーデ娘(=サロメ)、エロデ(=ヘロデ王)である。
この曲には二重唱がいくつもあり、特に注目すべきは、後半第二部のエロデ王とエロディアーデ娘の二重唱だ。望みは何でもかなえてやるから遠慮しなくて良いというと、エロディアーデの娘は聖ヨハネを殺して欲しいと言う。エロデ王はためらう。しかし娘は一歩もひかない。ここのエロデ王(友杉誠志)と娘(Silvia Frigato)の歌唱は、様式観を保持しつつ緊張が高まっていく実に音楽的に充実し、聴き応えのあるものだった。フリガートは、そこまでまことに清楚な歌いっぷりだったものが、徐々に激してきて声を張り上げる方向に声の緊張感が高まっていくのがわかり、サロメの激高ぶりが伝わってくるのだった。ここは聖ヨハネを殺せと求めて、エロデ王のためらいなど気にかけぬ娘を演じているわけだから、この歌い方の変化は実に説得力がある。それにたじたじとなるエロデ王も、深みのある低音(バスバリトン)であるからこそ、娘の高音とのコントラストが生きている。エロデ王の歌唱もサロメをしっかり受け止め、様式観を保持しつつ、エロデ王の内面の苦渋を表現するもので、この曲の真価が伝わってきた。最後もこの二人の二重唱のまま、あたかもモンテヴェルディの《ポッペアの戴冠》のように美しい二重唱で終わる。こちらは内容的には悲劇的なわけだが。スパッと終わるのもまたスタイリッシュだ。
タイトル・ロールは洗者聖ヨハネなのだが、むしろ出番はエロデ王とエロディアーデ娘の方が多いだろう。ヨハネにはなんともチャーミングなアリアがあり、ここで予定外の拍手が起こってしまったのも気持ちはわかるのだった。このアリアをツェンチッチで聴きたかったという気持ちもあるが、ダニロ・パストーレの透明感の高い声も素敵だった。この曲、助言者と呼ばれる脇役のアリアは、伴奏がヴァイオリンがお休みでビオラ・ダ・ガンバやチェロ、チェンバロなどの通奏低音だけがリズムを刻み、これがまた格好いい曲なのである。それぞれに聴かせどころがあるのだ。
オケは客席からみて向かって右にヴァイオリン群がいるのに左にも二人いておやと思ったが、終演後、ジェノヴァ在住のKさんに教えていただいたところによると、右側は劇場のオーケストラで左側の古楽器群が古楽器専門のEnsemble Mare Nostrum の奏者であるとのことだった。それで納得。指揮者のアンドレア・デ・カルロは、カーテン・コールの時、わざわざ指揮台の楽譜を取り上げて拍手に応えていた。曲が素晴らしいのだということを強調したいのだと思う。100パーセント同意。
ストラデッラは、女性関係がらみで、ジェノヴァで刺客に殺された。ピアッツァ・バンキという海に近い広場。そこから徒歩数分のバジリカに埋葬されている。
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