フィレンツェのシナゴーグ その2
16世紀にゲットーができる。1570年にトスカナ大公コジモ1世が、現在の共和国広場のところに作らせたのだ。これまた町の中心部にあったと言えよう。また、金融業などを営んでいて社会的に優位な立場にあった者はゲットーの外に住むことを許されたという。
実際メディチ家の宮廷にはユダヤ教徒がいて、あのベノッツォ・ゴッツォリの描いた『東方の三博士の行列』(メディチ・リッカルド宮)の三博士の一人はメディチ家に仕えていたユダヤ教徒なのだそうだ。一方で居住区の制限や差別的な措置をしていながら、他方では彼らの富や知恵を利用していたものと思われるが、このあたりのより詳しいことは、何冊か本を読んで具体的なケースが紹介できればと思う。
メディチも代々態度が一貫しているわけではなく、当主の考えや時代の風潮、たとえばサヴォナローラが出てきたり、対抗宗教改革の時代にはユダヤ人に対する締め付けが厳しくなる。このあたりも具体的にもう少し詳しく掘り下げたいところだ。
メディチ家のコジモ3世(在位1670-1723)は、きわめてカトリック熱心で熱心がすぎて反ユダヤ的で、これまでユダヤ教徒に与えた特権を全部取り消し、ゲットーの外に住んでいたユダヤ人もゲットーに住まわせるためゲットーを大幅に拡張し、またキリスト教徒がユダヤ教徒のために働いてはいけないなどという布告を出した。
ユダヤ教徒がゲットーから解放されるのは1848年、そしてイタリア王国の成立(1861年)によりゲットーが壊されることになった。
この1860年から1880年にかけて、フィレンツェのシナゴーガの建設計画が議論され、そして実行されることになった。
誰が資金を出したか?
この点で決定的だったのは David Levi という父の代にシエナからフィレンツェに移住し、イタリアの銀行業界で非常に高い地位にまで登り詰めた男の遺書だった。彼は子供がいなかったこともあり、ほぼ全財産をシナゴーガの建設に使うようにという遺書を残したのである。場所については議論百出だったのだが、結局今のところ(当時は家などまばらな所だったらしい)に落ち着いた。
| 固定リンク
コメント