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2021年12月 8日 (水)

ドニゼッティ博物館とドニゼッティ生家とマイール

ベルガモでドニゼッティ博物館とドニゼッティの生家を訪れた。

どちらも初めてではないのだが、今回は随分、展示の仕方が整備された。生家は以前は、地下の部屋を見せるだけという感じだったが、今は、オーディオガイド(イタリア語と英語)があって詳しい説明がされる。地下には4つの部屋があるのだが、1つは木材置き場でもう1つは食料などの冷蔵所だったので、生活空間は2部屋だけで、そこに親子七人が暮らしていた。一部屋がキッチンでもう一部屋が寝室である。ドニゼッティの父は operaio (職工)だったとのことで、生家があるのはチッタ・アルタを出てすぐのところなのでチッタ・バッサよりは随分高いところにあるが、その地下に暮らしていたわけだ。というわけで音楽家の一族でも何でもなかったのだが、マイールがベルガモにやってきて、少年合唱団結成を考慮に入れた音楽教育を開始し、10数人の少年を募集したときに、ドニゼッティだけでなく兄も入った。この兄は、後に、音楽家としてコンスタンチノープルへ行きずっとそこで過ごし、オットマン帝国に雇われ、その西洋音楽教育に貢献し、後にはパシャの称号を与えられたという。作曲家のドニゼッティとはずっと文通を続けていたとのこと。

ドニゼッティの書簡集を見かけたのだが、オペラのプログラム3冊でスーツケースがいっぱいなので、後日を期すことに。

オペラ作曲家の研究に楽譜そしてリブレットが大事なのは言うまでもないのだが、リブレっティスタや劇場関係者、パトロンとのやり取り、あるいは友人に作曲の進展状況などを報告していることがあるので、書簡集やメモワール(本人のものとは限らない。フェリーチェ・ロマーニの夫人のメモワールは細部に事実誤認があるにせよ、例えば《愛の妙薬》初演時の証言としては第一級の資料である)も作曲当時の状況を知るために欠かせない資料だ。

ドニゼッティが少年の頃から音楽教育を授けてくれたマイールについては、生家に一部屋があてられその生涯が紹介されていた。マイールはメンドルフというミュンヘンの北の小さな街で生まれたが祖父も父も叔父もオルガニストという音楽一家で、イエズス会のコレージョに入り、大学で法律を学んだというエリートである。その頃、Tommaso de Bassusという男爵と親しくなるのだが、この男爵はイルミナーティの一員だった。イルミナーティは最近映画化もされたようだ。フリーメーソンとは別の組織とする見方もあるが、展示室ではフリーメーソンの中でも過激な一派という扱いであった。その過激性のため、次第にバイエルン政府の締め付けが厳しくなりとうとう非合法化され、男爵とマイールは逃亡を余儀なくされる。やがてマイールは男爵の援助を受けつつ音楽を学ぶことにし、やがてヴェネツィアにたどり着く。そこで教育を受けることからよりも、ヴェネツィアでの実際の音楽会、オペラ上演などから刺激を受け、彼の作曲家としての成長があった。元々子供の時に父から音楽の基礎教育は受けているのである。マイールの友でありパトロンである男爵が、フリーメーソン的あるいはそれ以上に階級差別廃止的な傾向のイルミナーティの一員であったことはマイールの思想にも大きく影響していると思われる。実際、彼は階級的には何の後ろ盾もないドニゼッティを全く差別していないし、むしろ音楽の才能を見出してからは、もっと彼には音楽教育を授ける機会を与えるべきという意見書などを書いている。また、ドニゼッティが最初のオペラ作品をヴェネツィアで発表する際にも尽力している。ドニゼッティも、自分がオペラ作曲家として名声を獲得してからもマイールへの敬愛の念は消えることなく文通が続いている。作曲家は伝記的なことを調べると、癖の強い人も多いのだが、マイールとドニゼッティの関係は友愛に満ちているように見える。ドニゼッティという人は、貧しい家の出ではあるが、コンプレックスに凝り固まったところがなく(当時の階級社会を思えば、そうであっても不思議はないのだが)、作曲家に関しても、先輩ロッシーニの《グリエルモ・テル(ウィリアム・テル)》の第二幕は神が書いたと絶賛している。なかなかそこまで絶賛できないのではなかろうか。かつ、後輩ヴェルディが出てきた時も褒めているのだ。心ひろき人である。

あの高貴で美しいメロディを書いたベッリーニとはその点は対照的である。

もう一点興味深かったのは、マイールが1806年に少年合唱団の育成を念頭に教育を始めたのは、その前にナポレオンによってカストラートが禁止されて彼らに代わり少年が教会で歌うことが求められるようになったから、ということだ。ちなみに、マイールは今では忘れられた作曲家という面が強いが、1790年代及び1800年代最初の10年はヨーロッパで最も有名な作曲家の一人で、ベルガモに就職する前も、パリでナポレオンから皇帝の宮廷楽長にならないかというオファーを始めヨーロッパ各地から招聘を受けたほどである。

マイールがナポレオンの招聘を受けていたら、作曲家ドニゼッティはいなかったろう。人と人との出会いの偶然と必然を思う。

 

 

 

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