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2021年12月31日 (金)

ヴィヴァルディ《ファルナーチェ》(1)

ヴィヴァルディ作曲のオペラ《ファルナーチェ》を観た(フェッラーラ、テアトロ・コムナーレ)。

このオペラは1727年にヴェネツィアのサンタンジェロ劇場で初演され、その後各地で再演され、1738年にフェッラーラで上演されるはずだったのだが、当時のフェッラーラの枢機卿が介入して上演が出来なくなったといういわくつきの1738年版のフェッラーラでの初演である。

ただ、1738年版は第一幕、第二幕には他にはないほどヴィヴァルディの詳細な書き込みがあるのだが、第三幕が消失している。そこで通常は1727年版の第3幕に接ぎ木をして上演するのだが、今回は指揮者と演出家が合意して1738年版を再構成したというのだが。。。その手続きの詳細は不明である。

《ファルナーチェ》のストーリはやや複雑だが、ファルナケス2世(モーツァルトのオペラのポント王ミトリダーテの息子)という歴史上の人物に自由に恋愛話を付加したものである。

 ファルナーチェが、ローマと戦い敗れたところから劇は始まる。妻のタミーリに、ローマの捕虜とならずに息子を殺し、自殺せよと言い残す。タミーリはその場では承諾するものの、息子を殺すことをためらい、ある墓所に息子を隠す。

 一方、ベレニーチェというカッパドキアの女王がいて、彼女はタミーリの母親であるのだが、ファルナーチェを敵視している。ファルナーチェの父に自分の夫を殺されたからだ。父親憎けりゃ息子も憎し、さらにその息子も憎しで、ベレニーチェはタミーリの子供(自分にとって孫)も、ファルナーチェの子供だからという理由で死を望んでいる。復讐心の塊である。

 一方、ポンペオなどローマの人物は、もっとバランスの取れた人物として描かれている。

 ドラマ上、鍵となる女性はセリンダで、彼女はファルナーチェの妹なのだが、美貌の持ち主で、ローマの将軍アクィリオからもベレニーチェの配下の将軍ジラーデからも憧れの対象となるのだが、セリンダはそれをうまく利用して、兄を助けようとする。セリンダ、アクィリオ、ジラーデの三角関係は、この劇の恋愛的な見せ場を構成している。

 それに対し、ファルナーチェやベレニーチェは政治権力、闘争が第一の人物で、ヴィヴァルディはこれらの人物を見事に音楽的に書き分けている。声種の違いもあるのだが、それだけではなく、恋愛的状況と政治的な立場によってアリアの音楽的色合いがまったく異なるのである。アクィリオやポンペオは雄々しい、ヒロイックなメロディ、リズムを与えられている。ジラーデの恋心を歌うアリアなどは全く対象的にまさに揺れる心を表現するもので、キャラクターの描き分けはヘンデルに勝るとも劣らぬものだ。あえて違いを言えば、ヘンデルの方が木管楽器をより頻繁に使うように思う。ヴィヴァルディは弦楽器だけでリズムや弦の刻み方を変えることによって曲想を巧みに変化させてしまうので、曲想を変える時に必ずしも楽器を変えない、加えないまま進行させてしまうことがあるのだ。そしてここ一番という軍事的、政治的な盛り上がりの所では、ホルンやトランペットも登場してガラっと雰囲気を変えていくのである。この日は、ホルンもトランペットもバルブやピストンのない古楽器で、ティンパニーもモダン楽器にくらべ一回りも二回りも小柄なものだった。オケは22人。アカデミア・デッロ・スピリト・サントという名前の管弦楽団である。

指揮はフェデリーコ・マリア・サルデッリで1738年版に対するこだわりが一葉のパンフレットに短く記されていた。ここで問題なのは前述のように1738年版には第3幕が欠如していることで、再編成したとのことだが余りに短い文章なのでどう再構成したのかの詳細は不明だし、2幕3幕をあわせて75分だったので、1727年版に較べ短くなっていると思う。ややあっけなく終わる感じ(それは1727年版でもそういう面はあるのだけれど)があった。

三幕の問題をとりあえず脇に置いておくと、1幕、2幕は実に見事なもので、歌手たちもオケもその素晴らしさの実現に大いに貢献していた。タイトル・ロールはラファエレ・ぺ(カウンターテナー)。ジラーデがズボン役でフランチェスカ・ロンバルディ・マッツッリ。この人はアジリタがきく。タミーリはキアラ・ブルネッロ。メゾ。ベレニーチェはエレナ・ビスクオーラ。ポンペオはレオナルド・コルテッラッツィ。なかなかキャラクターの描き方も声も堂々としたローマ人だった。セリンダはシルヴィア・アリーチェ・ジャノッラ。長身の美貌で、役柄にふさわしい。ただし、案外この人のアリアは少ないのだ。アクィリオはマウロ・ボルジョーニでこの人も堂々とした曲にふさわしい歌いまわしが好ましく口跡が実によいのだった。

ヴィヴァルディのこのオペラは政治も恋も、恋と権力の駆け引きも熱情にも満ちていて、それを表現するアリアが旋律といいリズムといいオーケストレーションといい、実に的確に性格分けをされており、心のひだまでが描かれているようだ。大傑作と呼ぶしかない。

 

 

 

 

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2021年12月24日 (金)

バロック・オペラ研究者の見たウフィツィ美術館

ウフィツィ美術館を訪れた。

12月も下旬になって、観光客が減ってきたので、行ってみたが正解だった。朝8時に行くと、行列もできておらず数人の人とともに入館できた。

今回、数年ぶりに来てみて、やはり展示およびオーディオ・ガイドが変化したと思う。最初の部屋に巨大なジョットの聖母子像があり、二つ目の部屋にシモーネ・マルティーニの「受胎告知」があるのは前回と同じ。このシモーネ・マルティーニの受胎告知は、大天使ガブリエルの衣装や向かって左側のサン・タンサーノというシエナの守護聖人の一人の衣装が写実的に描かれているのだが、聖母の衣装は濃紺に塗り込められているし、姿勢も写実的な立場からすればやや不自然であるが、他の絵画にはない突き抜けたスピリトゥアリタを感じる。これほど、アレゴリカルな表現(たとえば大天使から発せられる言葉が金字で絵画面に描かれていること)と写実的な描写が高い次元で統合し、総体としてのインパクトを持つ絵は、ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂くらいのものか。ともかく完成度の高さ、額縁も含め装飾性と精神性が区別できないのである。

しかし歴史的に後継者が続々現れる点ではジョットが新たな時代を切り開いたと言えるのだろう。1300年から1500年にかけてイタリアのとりわけトスカーナの絵画は写実性の度合が増していく。そしてミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロが来て、線描的なリアリズムの頂点(レオナルドを単なる線描というのには抵抗があるが、大きなくくりでの話である)を極める。しかし何故かその後は、徐々に写実性が落ちて、首が不自然に長かったり、身体がS字だったりマニエリスムの時代が来る。アンドレア・デル・サルトなども、うーんと考え込んでしまう絵画で、漱石はなぜアンドレア・デル・サルトにわざわざ言及したのだろうか、ロンドンで観たのか、不思議である。同時代のヴェネツィア絵画もトスカーナ絵画と較べると線が粗い。15世紀後半、ブロンズィーノという例外はあるものの、総じて写実性が落ちていく。

それがジェンティレスキやカラヴァッジョとともに、光と影の大胆なコントラストを伴った劇的なリアリズムがやってくる。これが1590年代、1600年前後だ。音楽では1600年にローマでもフィレンツェでもオペラが始まる。ポリフォニアの世界からモノディの世界へ。あるいは通奏低音の発明があると言ってもよいかもしれない。カラヴァッジョの光と影のコントラストに相当するものは、音楽で言うとモノディにおける旋律と通奏低音のコントラストなのではないだろうか。ラファエッロの写実においては光があまねくあたっていた。これはポリフォニアの世界に通じる。どの声部も光が当たっている。主従ではない。モノディの世界では、歌詞を歌うのが単声になれば明らかにそれが主で通奏低音は従だ。それが光と影に相当するのではないか。しかし、そうだとすれば、なぜ1600年前後にそういう絵画上の、そして音楽上の大変化がシンクロするように生じたのか。あれかもしれない、これかもしれないと考えるが、まとまった形をなさない。カラヴァッジョの絵を見ながらこんなことを考えているのは、自分くらいのものかもしれない、と思いつつウフィッツィを出ると約4時間が経過していた。E6e3a5ee904a4b209c7f04d96518b9da

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2021年12月23日 (木)

イタリアのユダヤ人 その2

古代から中世にかけて、イタリア半島がユダヤ人にとってはもっとも居心地のよいところだったらしい(この項も前項に続き、Giampiero Carocci のStoria degli ebrei in Italia (Newton & Compton 2005)による)。

紀元70年に皇帝ティトゥスによって神殿が破壊され、134年にはハドリアヌス帝との戦いが待ち受けていた。もちろんその後の2000年の歴史の中でイタリアでも残虐行為がなかったわけではない。しかし第一次十次軍の時にライン川流域のドイツで起こったような大量殺戮はなかった。

 面白いのは、イタリア半島の中部および北部では、ユダヤ人の追放が時々行われたのだが、数年経つと、こっそりとあるいは堂々とそのユダヤ人が呼び戻されたのだ。そこが13世紀以降のイギリスやフランスと異なるし、15世紀末および16世紀のスペインやポルトガルとも異なるところだ。

イタリアでユダヤ人が永続的な形で追放されたのは、南部や島嶼部であり、そこはスペインの支配下だった。

 というわけで、イタリア中部と南部は、ユダヤ人が2000年に渡り中断の時期がなく住み続けられた唯一の地域だったのだ。そしてむしろ、フランスやドイツやスペインやポルトガルからユダヤ人が逃れてきたのである。だからヴェネツィアのユダヤ人はドイツ風やスペイン風その他の名字

を持っていた。

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2021年12月22日 (水)

イタリアのユダヤ人 その1

シナゴーグを訪れて、イタリアのユダヤ人についての関心が刺激されたので、本を読みつつ書いていくことにする。

そもそもイタリアにユダヤ人はどれくらいいるのだろうか。あるいはいたのだろうか。Giampiero Carocci 著 Storia degli ebrei in Italia (Newton &Compton, 2005) によると、1861年イタリア統一の年に、約3万9千人が現在のイタリア国内に居住していた。彼らは、しばらく前からゲットーをでて様々なところに居住するようになってきていた。そのため町によってはユダヤ人コミュニティーが減少したところもあるし増えたところもある。たとえばマントヴァやリヴォルノでは激減した。リヴォルノでは1841年には4771人いたのが、1938年には2235人と半減してしまったのだ。

 逆に増大したのは、フィレンツェ、トリノ、トリエステ、ローマ、ミラノだった。ミラノで急増した理由には、1933年にヒトラーが政権についてドイツ系ユダヤ人が逃げてきたということがあった。

 しかし他のヨーロッパ諸国と較べると、イタリアのユダヤ人の数は少ない。1931年にローマのユダヤ人は11280人であったが、ワルシャワでは35万人だったし、ベルリン、パリ、ヴィーン、ブダペストでは、15万人から20万人の間だった。桁が違う。

 1930年代にイタリア全体でユダヤ人の数は5万人に達しなかったが、ドイツには50万人以上がいた。

 1932年の時点で、外国から来たユダヤ人は5650人で、その中の有名な例がレオ・オルシュキで、1880年代にドイツから移住し、有名な出版社を作ったわけである。ロシアやポーランドで迫害されたユダヤ人はイタリアよりもアメリカ、フランス、イギリスに移住していったー経済的なチャンスが大きいと考えて。後にヒトラーが出てくることを考えると他の国よりイタリアにしておけばが良かったと後知恵で言えるが、19世紀後半の時点で考えれば、職があるかビジネスチャンスがあるかで判断するのはもっともなことだったろう。

 

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フィレンツェのシナゴーグ その3

フィレンツェのシナゴーグは、現在のものは1881年に20年間の計画・建築期間をへて建ったものである。

もっと古いものがかつてはゲットー(現在の共和国広場)に2つ、さらに古くはオルトレアルノにもあったらしい。

現シナゴーグは美術的に言えばモレスコ様式(スペインのアンダルシアなどで見るムスリムの建築様式)である。イスラム教徒の様式ではあるが、人物像が描かれておらず、植物的、幾何学的な模様で壁や天井の模様が構成される点では、ユダヤ教にとっても都合がよいのだと思われる。ガイドによると、シナゴーグは、建設される時代に流行っている建築・美術様式が採用されることが多いそうだ。

ただし、キリスト教の教会建築の影響が皆無かというとそうではなくて、このシナゴーグには、説教壇とパイプオルガンがあり、これらはカトリック教会に通常あるものが取り入れられたとのこと。

また、壁の装飾は計画時点では金箔をはった豪華なものにしたかったそうだが、建築費用がそこまでまかなえず、別の素材を用いたとのことで、実際に堂内を見ると金ぴかという感じはまったくなく、むしろ落ち着いた色合いである。

宗教的な施設で神(あるいは仏)の偉大さ、栄光などを称えるために金箔が使用されている例は数多くあるわけだが、奈良・京都の古寺を見慣れてくると、まったく剥落もなく金ぴかであるよりも、やや鄙びた感じになったものにありがたみを感じたりする感性もありうるわけだ。無論、日本でも奈良・京都の古寺・仏像も最初から古寺だったわけではなく、建造当初はピカピカだったわけで、何を尊いと感じるかの感性も、時代や地域、その文化に大きく左右されるのだろう。

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2021年12月21日 (火)

フィレンツェのシナゴーグ その2

16世紀にゲットーができる。1570年にトスカナ大公コジモ1世が、現在の共和国広場のところに作らせたのだ。これまた町の中心部にあったと言えよう。また、金融業などを営んでいて社会的に優位な立場にあった者はゲットーの外に住むことを許されたという。

 実際メディチ家の宮廷にはユダヤ教徒がいて、あのベノッツォ・ゴッツォリの描いた『東方の三博士の行列』(メディチ・リッカルド宮)の三博士の一人はメディチ家に仕えていたユダヤ教徒なのだそうだ。一方で居住区の制限や差別的な措置をしていながら、他方では彼らの富や知恵を利用していたものと思われるが、このあたりのより詳しいことは、何冊か本を読んで具体的なケースが紹介できればと思う。

 メディチも代々態度が一貫しているわけではなく、当主の考えや時代の風潮、たとえばサヴォナローラが出てきたり、対抗宗教改革の時代にはユダヤ人に対する締め付けが厳しくなる。このあたりも具体的にもう少し詳しく掘り下げたいところだ。

 メディチ家のコジモ3世(在位1670-1723)は、きわめてカトリック熱心で熱心がすぎて反ユダヤ的で、これまでユダヤ教徒に与えた特権を全部取り消し、ゲットーの外に住んでいたユダヤ人もゲットーに住まわせるためゲットーを大幅に拡張し、またキリスト教徒がユダヤ教徒のために働いてはいけないなどという布告を出した。

 ユダヤ教徒がゲットーから解放されるのは1848年、そしてイタリア王国の成立(1861年)によりゲットーが壊されることになった。

 この1860年から1880年にかけて、フィレンツェのシナゴーガの建設計画が議論され、そして実行されることになった。

 誰が資金を出したか? 

 この点で決定的だったのは David Levi という父の代にシエナからフィレンツェに移住し、イタリアの銀行業界で非常に高い地位にまで登り詰めた男の遺書だった。彼は子供がいなかったこともあり、ほぼ全財産をシナゴーガの建設に使うようにという遺書を残したのである。場所については議論百出だったのだが、結局今のところ(当時は家などまばらな所だったらしい)に落ち着いた。

 

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フィレンツェのシナゴーグ その1

759ed1294aad4ccc8c3ad6be68122e51 フィレンツェのシナゴーガ(英語風発音ではシナゴーグ、イタリア式ではシナゴーガ)を訪れた。

前に来たのがどれくらい前だったか記憶にない。2008年であったかもしれない。その時とは入場の仕方、展示方法が変わっていた。

まずは、敷地の外にカラビニエーリが物々しく銃をかまえて立っている。

入り口でも金属探知機らしい装置を通過して敷地内に入る。

ここはフィレンツェ旧市内(環状道路の内側)であり、1881年に建設されたシナゴーガだが、ここから歩いて数分のところにやはり旧市内にモスクがある。こちらのモスクは近年のもので、アパートを改装したものなので、通常の教会やここのシナゴーガのように独立した建物ではない。しかしどちらも遠い外れではなく、ドゥオーモから歩いて数分のところにあるのはフィレンツェのふところの深さか。

このシナゴーガは二階、三階がユダヤ博物館になっており、オーディオガイドやガイドの説明を聞き、あるいは展示を見て、フィレンツェのユダヤ人の歴史に俄然興味が湧いてきた。まずはそこで知ったあらましを記し、今後、イタリアおよびスペインからのユダヤ人の歴史について書籍を通じて興味深いことを知った際には、続編を記していこうと思う。スペインからのと言ったのは、15世紀末にスペインのレコンキスタが成し遂げられた後に、王権はユダヤ人およびイスラム教徒に改宗するか、追放を選択させたわけで、その際にローマに行ったユダヤ人がいたことは知っていたがフィレンツェを初めとしてトスカーナにやってきたユダヤ人もいたわけである。

 ローマにも立派なシナゴーガがあり、やはりテロを警戒して武装警官が警護していた。そして近所にユダヤ教徒の伝統的な料理を出すレストランがある点もフィレンツェと共通している。

  フィレンツェには古代ローマの時代からオルトレアルノ(アルノ川の向こう岸)にユダヤ人が住んでいたらしい。オルトレアルノにあったシナゴーガの残滓は、第二次大戦中にナチスが撤退する際に爆破されてしまった。彼らは、ポンテ・ヴェッキオを爆破しなかったが、その代わりにポンテヴェッキオに通じる街区をがれきの山にして交通を遮断したかったとのことだ。

 

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クラウス・マケラ&ダニエル・ロザコヴィッチ演奏会

クラウス・マケラ指揮のマッジョ・ムジカーレ・フィオレンティーノ管弦楽団の演奏会に行った(フィレンツェ、マッジョ劇場)

12月16日は、3大労働組合の全てではないのだが、いくつかがゼネストをしたため、バスが使えず歩いて行ったがフィレンツェの旧城壁を端から端まで歩いたことになり我ながらご苦労さんだった。座席はガレリアの最前列だった。かなり高さがあるのだが、音響的な響きはよく、実によく響く。

曲目は、ブルッフのヴァイオリン協奏曲とマーラーの交響曲第5番。ロマン派、後期ロマン派である。オーケストラの編成は大きい。マーラーの時には、コントラバス奏者、チェロ奏者8人ずつ、ホルン4人、フルート4人である。ヴァイオリンは多すぎて数えきれない。

古楽を主として聴いている人間の言うことと聞いてほしいが、実に現代オーケストラは音が大きい。マーラーなど1楽章、2楽章、3楽章は、圧倒され時に騒々しい限りである。その分、4楽章になり弦楽とハープでほっとするわけで、喧噪の現世対静寂の彼岸とも言えるし、ギャン泣きの赤子がやっと泣きくたびれて寝ついた一時のようでもある。

ブルッフはロマン派の協奏曲ってこう言うものだったなあ、という感じだ。

この日、最も僕が感銘を受けたのは、ヴァイオリンのダニエル・ロザコヴィッチがアンコールで弾いたイザイの無伴奏バイオリン・ソナタ第3番バラードである。この曲になって俄然、ロザコヴィッチがどう言う音楽をやりたいのかがわかる気がした。独奏になれば緩急自在だし、それに伴い表情の変化も一瞬で変化する。もともとの音楽もより調性音楽的なものと前衛的な要素がないまぜで表情の変化が激しくそれを官能的なまでにエスプレッシーヴォに弾ききったのは見事だし、ここでこそ技巧のさえが生きていた。

さらにアンコールは続き、バッハの無伴奏が2つ。これはイザイの無伴奏が、バッハの無伴奏を聴き触発されて書かれたことを想起させるし、ブルッフを間にはさんで歴史を一筆書きにした知的な構成とも言えよう。

マケラは20代半ばでmロザコヴィッチは二十歳というのは、驚くべきことだろう。

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2021年12月18日 (土)

カシオーリの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲

ジャンルーカ・カシオーリのピアノ演奏でモーツァルトのピアノ協奏曲第9番《ジュノム》をテレビで観た(RAI5)。

指揮はピエタリ・インキネン。全く同世代である。録画は明らかにコロナ以前なのだが、はっきり何年とは示されず数年前だろうということしかわからない。

カシオーリがCDでデビューした時に、そのテクニックとバッハをブゾーニ編曲で奇を衒うことなく真っ直ぐな音楽を奏でていた。一方で20世紀の作品もバリバリ弾きこなし、ポリーニを思わせる天才が出てきたと感じた。来日した時にコンサートに行ったが、おそらく1997年だったかと思うのだが、彼はドビュッシーの練習曲を弾いてやはり度肝を抜いた。フランス風の霧のかかったドビュッシーではなく、全く晴れ渡った曖昧さの微塵もないドビュッシーで、会場で会った知人は一様にテクニックの凄さは認めるものの、ドビュッシーをこう弾くことへの好悪は別れた。

僕は、ポリーニがショパンの練習曲でやったこととパラレルだなと思っていた。ポリーニのショパンの練習曲も当時は衝撃的で、サロン的な味わいが皆無の明晰の極みというピアニズムであったからだ。中川原理氏が「玲瓏」な音と描写していたことを思い出す。

こうやって彼独自のピアニズムで19世紀末から20世紀のレパートリーを開拓してくれるのかと期待していたら、しばらくして彼はソロではなくて、庄司沙矢香の伴奏者として来日するようになって(それが悪いというつもりは全くないが)、ベートーヴェン、モーツァルトのヴァイオリンソナタなどの伴奏をする人になって不思議だと思っていたが、やがて彼への関心が薄れていたし、僕自身の関心が大きくオペラに傾斜したのでも会った。

彼のソロを聞く、見るのは本当に20年ぶりあるいはそれ以上が経過している。カシオーリは上下黒い服でゆったりと歩いて普通にお辞儀をして立ち居振る舞いに奇矯なところは少しもない。のだが、音楽は全く独自なのだった。途中であれ、これがモーツァルトの何番かと気になったほどだ。つまり今まで聞いた奏者の誰とも違う弾き方をしていたのだ。それはつまり、この曲をあらかじめ完成したものとして、なるべく美しく弾こうという弾き方ではないのだ。むしろ、彼が今この曲を作曲あるいは初演していて、次の音は何にしようかと探りながら弾いている感じなのだ。技術的に言えば、右手と左手のリズムがしばしば微妙にずれる。無論、彼ほどのテクニシャンであってみれば、モーツァルトのこの協奏曲でリズムを整えるのは朝飯前だろう。しかし彼が注力しているのは、明らかに、表面的なピアニズムの磨き上げではないのだ。若い時期のモーツァルトが新しい音、和声進行、音楽の進み方を探求している様を再現したいとするかのようだった。だから、聞いていて、いかにも綺麗でしょう、という印象ではなく、次にどんな音が来るのか、という不安定さが支配する瞬間があって、妙に難解な音楽にも響くのだった。

ここで思い出すのは、少し前にたまたま見たグレン・グールドのyoutube で、その中でグールドは、モーツァルトは若い時には、新しい音楽を探求していただが、晩年は「堕落」して自分を模倣し、新しい音楽の追求をやめてしまった、という趣旨のことを言っていた。言われてみるとそういう面もある。ただし、晩年の「堕落」はあまりに美しく典雅で、憂愁を含んだ「堕落」でその魅力に抗するのは極めて困難なのだが。

そういう意味で、カシオーリは若き日のモーツァルトの持っていた前衛性を前傾化した演奏していたのだと言えよう。観客の中にもそれがどれくらい共感を持って受け入れられたのかは、観客の表情からは心もとない感じだった。

カシオーリはどういう風の吹きまわしか、アンコールにショパンの軍隊ポロネーズを弾いた。これもまた不思議な演奏で、情熱を掻き立てようとするところから切断された演奏で、通常テンポが速くなる(アッチェレランドする)ところでも、むしろ歩みが遅くなりこそすれ速くはならず、そのままポンと終わり、観客は呆気にとられた人も、不満を持った人もいたろうと思うが、僕としては上述のように、カシオーリの目指している境地はそういう情熱的ロマン派という果てしなく繰り返されてきた情景の再現ではないのだと考える。それを淡々とした表情で、しかし一貫して実現している彼のピアノに深い感慨を覚えた。たぶん40歳前後の録画だと思うが、彼の音楽的深化はこういうところにあったのか、と大いに見直した。

 

 

 

 

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2021年12月12日 (日)

ストラデッラ作曲《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》

ストラデッラ作曲のカンタータ《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》を聞いた(ジェノヴァ、カルロ・フェリーチェ劇場)。

この公演は、タイトル・ロール、洗者聖ヨハネをツェンチッチが歌うはずだったのだが、インフルエンザにかかり降板した。それをfacebook で知ったのは公演の前日であり、誰が代わりに歌うのかの情報もネット上にはなかった。

実際に会場に行ってみると、プログラムに一枚添付があり、 Danilo Pastore というカウンターテナーが代役であり、彼の経歴も細かく記されていた。彼はトリノ生まれで、ピアノと声楽を習ったのちにカウンターテナーに転向した。ノヴァーラのコンセルヴァトリオでカウターテナーの研鑽を積んだ。先月、ヴェネツィアでバロック歌唱のマスタークラスの聴講をさせてもらったのだが、その時にいたカウターテナーの歌手もノヴァーラの学生だったし、その場の人もカウンターテナーはノヴァーラのコンセルヴァトリオ出身の人が多いという話題が出ていたところだ。急な話でよく引き受けてくれたものだ。長身で痩せ形に見えるし、声も澄んでいてやや細身だ。

サン・ジョヴァンニ・バッティスタ=洗者聖ヨハネであることからお判りのように、このカンタータは、ヘロデ王とサロメがヨハネ(ジョヴァンニ)の処遇を巡り葛藤する聖書のエピソードをカンタータにしたものだ。近現代ではオスカー・ワイルドの「サロメ」、それをオペラ化したリヒャルト・シュトラウスのオペラ《サロメ》が有名だろう。ただし、このカンタータではエロディアーデ娘(彼女の母エロディアーデ母である)として出てくる。

このカンタータは登場人物は5人。洗礼者聖ヨハネと助言者、エロディアーデ母、エロディアーデ娘(=サロメ)、エロデ(=ヘロデ王)である。

この曲には二重唱がいくつもあり、特に注目すべきは、後半第二部のエロデ王とエロディアーデ娘の二重唱だ。望みは何でもかなえてやるから遠慮しなくて良いというと、エロディアーデの娘は聖ヨハネを殺して欲しいと言う。エロデ王はためらう。しかし娘は一歩もひかない。ここのエロデ王(友杉誠志)と娘(Silvia Frigato)の歌唱は、様式観を保持しつつ緊張が高まっていく実に音楽的に充実し、聴き応えのあるものだった。フリガートは、そこまでまことに清楚な歌いっぷりだったものが、徐々に激してきて声を張り上げる方向に声の緊張感が高まっていくのがわかり、サロメの激高ぶりが伝わってくるのだった。ここは聖ヨハネを殺せと求めて、エロデ王のためらいなど気にかけぬ娘を演じているわけだから、この歌い方の変化は実に説得力がある。それにたじたじとなるエロデ王も、深みのある低音(バスバリトン)であるからこそ、娘の高音とのコントラストが生きている。エロデ王の歌唱もサロメをしっかり受け止め、様式観を保持しつつ、エロデ王の内面の苦渋を表現するもので、この曲の真価が伝わってきた。最後もこの二人の二重唱のまま、あたかもモンテヴェルディの《ポッペアの戴冠》のように美しい二重唱で終わる。こちらは内容的には悲劇的なわけだが。スパッと終わるのもまたスタイリッシュだ。

タイトル・ロールは洗者聖ヨハネなのだが、むしろ出番はエロデ王とエロディアーデ娘の方が多いだろう。ヨハネにはなんともチャーミングなアリアがあり、ここで予定外の拍手が起こってしまったのも気持ちはわかるのだった。このアリアをツェンチッチで聴きたかったという気持ちもあるが、ダニロ・パストーレの透明感の高い声も素敵だった。この曲、助言者と呼ばれる脇役のアリアは、伴奏がヴァイオリンがお休みでビオラ・ダ・ガンバやチェロ、チェンバロなどの通奏低音だけがリズムを刻み、これがまた格好いい曲なのである。それぞれに聴かせどころがあるのだ。

オケは客席からみて向かって右にヴァイオリン群がいるのに左にも二人いておやと思ったが、終演後、ジェノヴァ在住のKさんに教えていただいたところによると、右側は劇場のオーケストラで左側の古楽器群が古楽器専門のEnsemble  Mare Nostrum の奏者であるとのことだった。それで納得。指揮者のアンドレア・デ・カルロは、カーテン・コールの時、わざわざ指揮台の楽譜を取り上げて拍手に応えていた。曲が素晴らしいのだということを強調したいのだと思う。100パーセント同意。

ストラデッラは、女性関係がらみで、ジェノヴァで刺客に殺された。ピアッツァ・バンキという海に近い広場。そこから徒歩数分のバジリカに埋葬されている。

 

 

 

 

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2021年12月 8日 (水)

スカラ座開幕

今年のスカラ座開幕の様子をテレビ中継で見た(RAI 1).

演目はヴェルディ作曲の《マクベス》。例年との厳密な比較はイタリアにずっと住んでいる人でないと難しいが、今年は力が入ってると見えて、先月からRAIの通常の放送の時に、この演目の宣伝のスポットが何度も流されたのである。これは去年はコロナのせいで通常の形での上演が出来なかった、観客が入れられなかったが、今年は再び観客が入れられることが大きいかと思う。しかも、ドイツやオーストリアでは再び感染者が増えて劇場の通常の活動が出来なくなっている中で、イタリアはスーパーグリーンパスを導入しつつ座席を満席にできるという状況を保っている。

司会者も超大物のブルーノ・ベスパが起用されていた。

大統領が入場すると、平土間の人は全員が起立して、後ろを、ロイヤルボックスの方を向いて拍手。拍手が鳴り止まない。大統領が手を振り、さらに拍手で何分間か鳴り止まなかった。マッタレッラ大統領は、もう任期の終わりが近いのだが、ミラノ市民の熱い支持を得ているのは明白だ。そしてようやく国歌、インノ・ディ・マメリ。これは不思議なのだが、僕の経験では一番歌詞をきちんと歌えていたのは2011年のトリノの観衆だった。国家統一は自分達(の祖先)が成し遂げたという誇りがあるからなのだろうか。2011年はイタリア統一150周年だったので、どこの歌劇場でも大統領が臨席でなくても国歌演奏がしばしばあったのだが、抜群に多くの人が歌っていた。

《マクベス》はシャイーの指揮、リヴァモアの演出で、舞台はミラノだか、ニューヨークだか大都市であり、序曲の間には登場人物が自動車に乗っていたりする。

マクベスは、ルカ・サルシ。新聞のインタビューでは、今回、ヴェルディの自筆稿にあたる機会を与えられ、作曲家の細かい指示を数十箇所にわたって新たに読み込んだという。シャイーもテレビのインタビューに答えて言っていたが、《マクベス》ではヴェルディは歌手の音声の大音量を期待しておらず、徹底的に表情をつけることにこだわっていたという。だからPPP の後にさらにデクレッシェンドが来たりするという。問題は、観客がそういう歌い方を期待しているか、期待するようになるか、ということだろう。

僕が見たのは別の用事のため第一幕のみだが、マクベス夫人ネトレプコの衣装は真っ赤で、そこにワッペンを貼り付けるように立体的に鶴の刺繍がいくつもあるのだった。ネトレプコの声は、以前よりもさらに低く太くなっているようだ。最初から顔の表情も迫力満点で、あんな楚楚とした女性が殺人を唆すのか、という意外性はなく、最初からなんというか脂ぎって欲望のためには何でもやるという感じが漲っているのだった。無論、マクベス夫人の人物造形にはどちらの可能性もあるだろう。

 

 

 

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ドニゼッティ博物館とドニゼッティ生家とマイール

ベルガモでドニゼッティ博物館とドニゼッティの生家を訪れた。

どちらも初めてではないのだが、今回は随分、展示の仕方が整備された。生家は以前は、地下の部屋を見せるだけという感じだったが、今は、オーディオガイド(イタリア語と英語)があって詳しい説明がされる。地下には4つの部屋があるのだが、1つは木材置き場でもう1つは食料などの冷蔵所だったので、生活空間は2部屋だけで、そこに親子七人が暮らしていた。一部屋がキッチンでもう一部屋が寝室である。ドニゼッティの父は operaio (職工)だったとのことで、生家があるのはチッタ・アルタを出てすぐのところなのでチッタ・バッサよりは随分高いところにあるが、その地下に暮らしていたわけだ。というわけで音楽家の一族でも何でもなかったのだが、マイールがベルガモにやってきて、少年合唱団結成を考慮に入れた音楽教育を開始し、10数人の少年を募集したときに、ドニゼッティだけでなく兄も入った。この兄は、後に、音楽家としてコンスタンチノープルへ行きずっとそこで過ごし、オットマン帝国に雇われ、その西洋音楽教育に貢献し、後にはパシャの称号を与えられたという。作曲家のドニゼッティとはずっと文通を続けていたとのこと。

ドニゼッティの書簡集を見かけたのだが、オペラのプログラム3冊でスーツケースがいっぱいなので、後日を期すことに。

オペラ作曲家の研究に楽譜そしてリブレットが大事なのは言うまでもないのだが、リブレっティスタや劇場関係者、パトロンとのやり取り、あるいは友人に作曲の進展状況などを報告していることがあるので、書簡集やメモワール(本人のものとは限らない。フェリーチェ・ロマーニの夫人のメモワールは細部に事実誤認があるにせよ、例えば《愛の妙薬》初演時の証言としては第一級の資料である)も作曲当時の状況を知るために欠かせない資料だ。

ドニゼッティが少年の頃から音楽教育を授けてくれたマイールについては、生家に一部屋があてられその生涯が紹介されていた。マイールはメンドルフというミュンヘンの北の小さな街で生まれたが祖父も父も叔父もオルガニストという音楽一家で、イエズス会のコレージョに入り、大学で法律を学んだというエリートである。その頃、Tommaso de Bassusという男爵と親しくなるのだが、この男爵はイルミナーティの一員だった。イルミナーティは最近映画化もされたようだ。フリーメーソンとは別の組織とする見方もあるが、展示室ではフリーメーソンの中でも過激な一派という扱いであった。その過激性のため、次第にバイエルン政府の締め付けが厳しくなりとうとう非合法化され、男爵とマイールは逃亡を余儀なくされる。やがてマイールは男爵の援助を受けつつ音楽を学ぶことにし、やがてヴェネツィアにたどり着く。そこで教育を受けることからよりも、ヴェネツィアでの実際の音楽会、オペラ上演などから刺激を受け、彼の作曲家としての成長があった。元々子供の時に父から音楽の基礎教育は受けているのである。マイールの友でありパトロンである男爵が、フリーメーソン的あるいはそれ以上に階級差別廃止的な傾向のイルミナーティの一員であったことはマイールの思想にも大きく影響していると思われる。実際、彼は階級的には何の後ろ盾もないドニゼッティを全く差別していないし、むしろ音楽の才能を見出してからは、もっと彼には音楽教育を授ける機会を与えるべきという意見書などを書いている。また、ドニゼッティが最初のオペラ作品をヴェネツィアで発表する際にも尽力している。ドニゼッティも、自分がオペラ作曲家として名声を獲得してからもマイールへの敬愛の念は消えることなく文通が続いている。作曲家は伝記的なことを調べると、癖の強い人も多いのだが、マイールとドニゼッティの関係は友愛に満ちているように見える。ドニゼッティという人は、貧しい家の出ではあるが、コンプレックスに凝り固まったところがなく(当時の階級社会を思えば、そうであっても不思議はないのだが)、作曲家に関しても、先輩ロッシーニの《グリエルモ・テル(ウィリアム・テル)》の第二幕は神が書いたと絶賛している。なかなかそこまで絶賛できないのではなかろうか。かつ、後輩ヴェルディが出てきた時も褒めているのだ。心ひろき人である。

あの高貴で美しいメロディを書いたベッリーニとはその点は対照的である。

もう一点興味深かったのは、マイールが1806年に少年合唱団の育成を念頭に教育を始めたのは、その前にナポレオンによってカストラートが禁止されて彼らに代わり少年が教会で歌うことが求められるようになったから、ということだ。ちなみに、マイールは今では忘れられた作曲家という面が強いが、1790年代及び1800年代最初の10年はヨーロッパで最も有名な作曲家の一人で、ベルガモに就職する前も、パリでナポレオンから皇帝の宮廷楽長にならないかというオファーを始めヨーロッパ各地から招聘を受けたほどである。

マイールがナポレオンの招聘を受けていたら、作曲家ドニゼッティはいなかったろう。人と人との出会いの偶然と必然を思う。

 

 

 

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2021年12月 7日 (火)

マイール《コリントのメデア》その1

ヨハン・ジモン・マイール作曲の《コリントのメデア》を観た(ベルガモ、テアトロ・ソチャーレ)。

マイールはドイツ生まれでイタリアで活躍した作曲家。表記はマイル、マイヤーなどいくつかあるが同じ人物です。

今回はドニゼッティ・フェスティバルの一部として上演されたのだが、通常上演されるナポリ版ではなく、マイール自身によって改訂されたベルガモ版が使用されたので、そのことも含めやや詳しく説明したい。

メデアはギリシア神話の中でも有名な人物だと言って良いだろう。ジャゾーネ(イアソン)と駆け落ちし、コリントに暮らして子供もいるのだが、コリント王がジャゾーネ(イアソン)を自分の娘の婿にと考え、運命の歯車が狂い出す。ジャゾーネはその気になり、メデアは復讐として花嫁に毒薬を塗った花嫁衣装を贈り暗殺し、ジャゾーネとの間に生まれた子供も殺してしまう。

この基本線はマイールでも変わらない。というかリブレットを書いたのは若き日のフェリーチェ・ロマーニ(《愛の妙薬》も彼のリブレット)であった。今回の演出では、メデアとイアソンの出会いを1959年に設定し、最後の場面は現在2021年なので、ジャゾーネは白髪の老人となって一人ぼっちになる。メデアの方はあまり老けていなくて子供を連れてどこかに行くように見えた。ジャゾーネの方が哀れな存在として描かれている結末だった。この演出では、だから、現代のアパートで家族が暮らす様子が展開されるのだが、コリント王女クレウサが恋の成就を願う歌をメデアが目の前で聞いているのだ。メデアは超絶的な察知能力があることを示そうとしているのだろうか?

音楽を聴いた印象では、モーツァルトの初期、イドメネオを含むそれ以前のオペラに似ている部分とロッシーニのオペラ・セリアを想起させる部分があった。二幕でだんだん状況が切迫してきてからも切迫した音楽もあるのだが、神に訴えたりする際に妙に明るくてのんびりした音楽が出てくる。この印象は、実は、今回の上演された版と関係している。つまり、初演はナポリのサンカルロ劇場で1813年なのだが、今回上演されたのは1821年にベルガモで上演されその際にマイール自身が手を入れたものである。

《コリントのメデア》は2013年にリコルディからクリティカル・エディションが出版されていて、その編者パオロ・ロッシーニが、本公演のプログラムに寄稿し、1813年版と1821年版の違いについて詳細に述べている。また今回の指揮者ジョナサン・ブランダー二はナポリ版とベルガモ版を両方指揮した経験から違いを述べているのだが、ここではかいつまんで紹介したい。まず考慮すべきは、この間にロッシーニ旋風がイタリア半島、いやヨーロッパ中に巻き起こったことだ。そのため1821年に幾つかのアリアを書き換えた時に細部に置いてロッシーニ風が取り入れられた。もう1つは、初演のサンカルロ劇場と21年のベルガモでは劇場経営の状況が異なり、サンカルロの方がスター歌手を集められるし、オケや合唱団も充実していたことは想像に難くない。マイールは元々ベルガモで大聖堂の楽長であり音楽教師であったのだからベルガモの事情は熟知している。

ナポリでは混声合唱だったものがベルガモでは男性合唱のみに変更となっている。今回の上演では合唱は、桟敷の最前部つまり舞台に最も近い席にいたし、人数が少ないせいもあって言葉が明確に聞き取れた。いくつかのレチタティーヴォ・アコンパニャーティはセッキに変更されている。オーケストラ伴奏からチェンバロ(フォルテ・ピアノ?)伴奏に変わった。アリアは14のうち7つに手が加えられているので大きな変更である(残存している自筆稿や写譜稿は膨大なもので、パオロ・ロッシーニが批評校訂版を作る際の過程は目が回るほど複雑なものなのでここで言っていることはあくまで大まかなものとして捉えていただきたい)。メデアのパートは最も影響が小さい。コリント王女クレウサの婚約者エジェオとの二重唱や彼のアリアが書き換えられている。ジャゾーネとの二重唱を除き、クレウサのアリアはほぼ新曲となっている。エジェオも大部分が新しい。ジャゾーネも書き換えられている。ブランダーニによれば、どちらが良い悪いではなく、マイールがプロフェッショナルに、歌う歌手の声楽的な特徴(音域やコロラトゥーラの得意・不得意など)に合わせて書き換えたのであり、当時はそれが普通だった。

また音楽学者の観点から楽譜のレベルで確認はされていないのだが、ベルガモ版にドニゼッティが協力したかどうかという点に関して、ブランディーニは、エジェオの第二幕のカバレッタの最後の数小節にそれまでのマイールには見られないパターンがあり、彼としてはドニゼッティかもしれないと考えているという。

 

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2021年12月 6日 (月)

ドニゼッティ《愛の妙薬》

ドニゼッティ作曲フェリーチェ・ロマーニ台本の《愛の妙薬》を観た(ベルガモ、ドニゼッティ劇場)。

ドニゼッティ・フェスティバルの演目として上演するだけあってこだわりが色々ある。

一つは、イタリアで初めてという完全版の上演。通常カットされる部分が全部演奏された訳で、確かに聞き慣れた二重唱でも、後半部分でおや、ここは聞き覚えがないという箇所があったし、最後のアディーナのアリアがあれほど長いのだとは知らなかった。印象としては全部を上演すると、より理屈っぽく展開しているのだということがわかった。通常の上演では、アディーナがネモリーノが自分への愛のために命の危険を冒して入隊を決意したことに感銘を受けて、あとはネモリーノと相思相愛になってめでたしめでたしという省略版か、それよりは少し多くて、ネモリーノが愛がないのだったら、兵隊から除隊できても嬉しくない、兵隊として死ぬとゴネる場面を含むものか、という省略版を通常観ている訳だが、その後のアディーナのアリアが長大なのだ。

また、もう一つのこだわりは、ドニゼッティ時代の古楽器、ピリオド楽器を使用したことである。たしかに、木管、金管楽器がほのぼのした、より暖かく、しかし音程をとるのは難しそうな楽器を用いていたのだった。

演出も変わったところがあって、観客は劇場の入口で歌詞の書いてある旗を渡される。歌詞は第二幕冒頭の合唱の一節だ。幕開けの前に三人が出てきて二人は楽器を持っているのだが、司会役の人が音頭をとってその部分を観客に歌の指導をして彼が合図をしたら旗を振り、歌うようにということで、何度かその部分を練習した。本番でもその場面で、皆、大きな声で歌い旗を振り楽しんだ。《愛の妙薬》にはこんな演出もコロンブスの卵であるが、あっていると思った。

指揮はフリッツァ。演出Wake-Walker.  アディーナはカテリーナ・サラ。なかなか見事な歌いっぷりだった。ネモリーノはハヴィエル・カマレーナ。ベルコーレはセンペイ。ペーザロでも何年か前に歌っていた。一幕の出だしではもたもたしていたが、二幕になったらそんなことはなく適切なテンポ、歌いっぷりだった。ドゥルカマーラはロベルト・フロンターリで、くどい味付けはせず、淡々と歌っていくがポイントはしっかり押さえている。ジャンネッタはAnais Mejias. 

今回も合唱団はマスクで独唱者はマスクなし。観客が劇場に入る時は正面に2つの入口でパルコ(桟敷席)の右側と左側、劇場の横から平土間席の客が入るという風にして、密になるのを避けているようだった。グリーンパスのチェックあり。

 

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2021年12月 5日 (日)

ドニゼッティ《連隊の娘》

ドニゼッティの《連隊の娘》を観た(ベルガモ、ドニゼッティ劇場)。

周知の通り、ベルガモは丘の上の街(チッタ・アルタ)と下の街(チッタ・バッサ)があるのだが、ドニゼッティ劇場があるのはチッタ・バッサで近所にはイタリア銀行などもある街の中心部である。

ドニゼッティ・フェスティヴァルの一環。上演の40分ほど前には、連隊の娘とやや無理矢理関連づけてダンス(社交ダンスとタンゴ的な南米のダンス)が披露されていた。ダンスは、劇場の前の広場で披露されているので、オペラの切符を買っているいないは関係ない。実際見ている人も雑多な人たちで、近くには子供が遊べる公園(観覧車などあり)もあるので、家族づれも結構見かけた。オペラ(の空間)と一般市民を結合させる試みとしては面白いものと見た。切符を買ってオペラを観る人だけに閉ざされているのでは将来に向けての発展性に乏しい。スカラ座なども、ゲネプロは若者に安い値段で提供しているし、色々な工夫で子供や若者にアクセスしやすい回路を築いていくことが求められているのだと思う。

南米のバレエは《連隊の娘》と関係がないように思えるかもしれないが、今回の演出では連隊の太鼓係が叩くのが伝統的な西洋軍楽隊の太鼓ではなく、サンバなどで使われる二連の太鼓なのである。さすがに、タンゴその他のダンサーは出てこなかったけれども。

この劇場でもグリーンパスのチェックがあった(体温のチェックはなかった)が、その他に、入口を分けていて、平土間の客と桟敷席の客は全く別の入り口から入るようになっていた。ソーシャルディスタンスをなるべく取るための措置かと思われる。座席は空席を設けることなく入っていた。

また、合唱団が全員マスクをしていた。独唱者は、マスクなし。(先月、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で《フィデリオ》を観たのだが、その時も合唱団はマスク、独唱者はマスクなしであった。フェニーチェの場合、オケも弦楽器奏者はマスク、管楽器奏者はマスクなしと言う具合だった。今回は、オケピットが深くて見えず確認できていない)。

指揮はミケーレ・スポッティ。演出は、ルイス・エルネスト・ドーニャス。キューバの映画監督である。タイトル・ロールのマリはSara Blanch スペインの歌手。トニオはジョン・オズボーンで例の高いド連発のアリアで喝采を浴びていた。マリの実は母親であることがわかる侯爵夫人はAdriana Bignani Lesca.ガボン出身。達者なコミカルな演技が大いに受けていた。

軍曹シュルピスはパオロ・ボルドー二ャで、さすがペーザロのロッシーニで鍛えられており、歌の様式感が抜群に良い。その点では伍長のアドルフォ・コッラードも端正な歌を聞かせていて注目したが、調べてみると彼はまだ27歳。大いに期待したい。バスバリトンとのこと。

ドニゼッティにはロマン派的な要素があり、本人も自覚してその新しい傾向を取り入れていたわけだが、一方でベルカント的な様式美が厳然として備わっており、その揺らぎ、葛藤がまた魅力の一つでこれが表現されていないと物足りないと感じる。その点でボルドー二ャとコッラードの歌唱は満足のいくものだった。

さらに贅沢な物言いになるが、劇の中にコミカルな三重唱が何度か出てきて、指揮者も歌手も乱れることなく調和して歌っていたのだが、あえて言うと、もう少し弾んで軽やかであって欲しかった。浮き浮きするところがあって、対照的に沈んだり、しっとりとした悲しみを歌うコントラストがドニゼッティの真骨頂である。だから悲しみを嫋々と歌う分、コミカルさの軽妙さは同様に重要なのだが、こちらの方が実現の難易度は高いのだった。今回の場合、演技で笑わせてくれるところは随分頑張っていたが、歌唱の軽妙さは目指していることはわかるのだが、到達点としては、今一歩と言う面がないとは言えないのだった。ま、非常に贅沢な話ということは承知した上での話ですが。

マリが連隊から侯爵夫人に引き取られて、上流社会の子女にふさわしい存在となるために音楽のレッスンをする場面がかなり長々あって、そこでは

「古臭い」音楽をマリが調子っぱずれに歌って笑いを撮るところなのだが、今の僕が聞くとああ、これはバロック調だなと思い、ちゃんと歌ったら結構素敵な曲だろうに、と思ってしまうのだった。ロッシーニのセビリアにも周知のごとく似たような「古臭い」歌を教える場面があって、この当時の作曲家は、自分達の音楽の新しさをこうやって劇中で主張しているわけだが、これは何を意味しているのだろうか。当時まだまだ「古い」音楽の支持者が多かったので、自分達の音楽を正当化する必要を感じていたのか。それとも、観客もそう感じていることをダメ押ししていたのか。こういう観客の感性、感覚は100年、いや180年経過してしまうと、実感することが実に困難なものだ。

 このオペラ、初演がパリのオペラ・コミックなので、フランス語上演であり、またレチタティーヴォはなく、アリアと通常のセリフで構成されているのも久しぶりに聞いてみると新鮮であると同時に微かな違和感を感じたが、これは慣れの問題であろう。

 そういう意味で、ドニゼッティやその時代について色々考えさせらる興味深い公演だった。

 

 

 

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2021年12月 4日 (土)

ベルガモへの険しき?道

ベルガモへの旅程は思いがけずきつかった。

フィレンツェーミラノはフレッチャ・ロッサという高速列車だったが珍しく10数分遅れた。そのため、ミラノでの乗り換えが慌ただしいものとなったのだが、ミラノからヴェルニーゴへのローカル線がストライキと工事区間のため20分以上遅れ(本来なら30分弱なのに)、乗り換えるはずの列車が目の前で出発して行った。次の電車は1時間後だよ、と軽く駅員に言われ、駅そばのバールでパニーニを食す。1時間後に乗った列車は、ちょっと動いては止まり、また動いては止まり、駅のホーム内で3回停止した。その後、バックするではないか。ただごとではないと思った乗客はホームに降りて車掌に事情を聞いている。車両の不具合があって修理中だが、車両を交換するか、修理ができてこの車両で出発するかはわからないと言う。結局、修理ができてそのままの車両で発車したが、電車が低速になると止まってしまうのではないかとハラハラした。

ベルガモで降りて、チッタ・アルタ(高台の上)に行こうと思い、おまわりさんに尋ねると、この道をまっすぐ行けば、フニクラの駅に着くという。これが結構距離があった。身軽ならいいのだが、リュックを背負いスーツケースを引いていると負荷が高い。

ま、こうして予定よりも2時間ほど余計に時間がかかって到着。あらためて旅程を組む時には、ぎちぎちにしておいては何か起こると対処しにくい。あそびの時間、調整用の時間をあらかじめ取っておいた方がかえって効率的なこともあると思った。

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2021年12月 2日 (木)

音楽博物館

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ヴェネツィアの音楽博物館に行った。アカデミア美術館から橋を渡り、サンマルコ方面に行ったところにある。

現代のオーケストラで使われているモダン楽器は、ほぼ規格、サイズが統一されているが、バロック時代まで遡ると、まるで別の楽器かと思うくらい大きさも弦の数も違っていたりする。以前に、ある講座でチェロの来歴を学んだ時に、バッハの頃まで四弦のも五弦のもあり、また大きさも実にさまざまであることを教わった。また、金属弦も一気にガット弦に入れ替わったのではなく、最初は一番低い弦だけが金属弦になったのであり、そのことがわかる絵画があるのだった。

 写真は、3台のコントラバスだが、遠近法が効いているのではなく、この3台は大きさが異なるのだ。同じ時代に作られた場所、地方によって異なるものだった(そういえばピッチー音高もバロック時代に皆今より半音低かったという訳ではなく、地域差があったという)。ドイツやイタリアは統一国家もなく、通貨や度量衡もバラバラであったわけで、楽器に関してだけ、統一基準が設定されていたと考える方がおかしいといえばおかしいだろう。

 また、今となってはクレモナの弦楽器がストラディヴァリウスとかアマティなど有名な親方・工房により弦楽器の産地として有名だが、ヴェローナやローマ、ナポリなどイタリアだけでも各地で弦楽器は作られていたし、ドイツ語圏でも作られていたのだ。

 そういったモダン楽器以前の楽器、今のオーケストラでは見かけない楽器を見たり、弦楽器工房の復元された部屋を見ることができる小さいが楽器に興味がある人には面白い博物館である(オーディオガイドありー日本語はなかったかと思う)。

 

 

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サン・マルコ大聖堂

サン・マルコ大聖堂を見た。

内陣を見ると、大きさや豪華さは全く異なるのだが、構造的にはサン・ニコロ・デイ・メンディコリ教会に似ている。聖職者のゾーンの前に門のよううに仕切りがあって、その上に聖像がある。ビザンチン風なのだろう。これが様式の共通性ということで、視覚的なものの場合は、見てとることが相対的には容易だが、音楽などで馴染みが薄い時代のものだと最初は看取できないこともままある。E133decadafe407792bd016b018c00d1

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