ポルポラ作曲《カルロ・イル・カルヴォ》その2
さて、当日の公演について。
昨年の事情については、その1(前項)で書いた通りであるが、ここの主催団体は、親切なことに最初にフェイスブックで次にはYoutube で公演のヴィデオをストリーミングおよびビデオで公開してくれたのである。フェイスブックの段階ではオペラ以外の音楽会のほとんども公開された(期間限定で)。Youtube になって今も公開されているのは,このポルポラの Carlo il calvo である。ただし、これが去年の最大の目玉だったのだから、気前のよい措置であると思うし、ポルポラがオペラ・セリアの大作曲家だったという認識は、なかなか持ちにくかったのだが(もちろん、それまでにも優れたアリア集のCDなどはいくつもあったし、実は、全曲盤のCDもあった)このYoutube は僕にとっては決定的なものであったし、多くのオペラ・ファンにとってもそうではないだろうか。
歌手にツェンチッチやファジョーリ、レジネバといった世界の最高峰を揃え、その他の歌手も粒ぞろいである。こんな質の高い歌手陣でオペラを聴くという経験はそうそうあるものではない。指揮のジョルジュ・ペトルとオケも文句なく素晴らしい。
さて、その去年の公演と今年の公演は何が違っていたか。一番大きな違いは、一幕の退場アリアで二回、二幕、三幕でも退場アリアで一回ずつ幕を閉めてしまい、そこで間奏曲のような短い器楽曲が演奏されたことだ。おそらくポルポラ作曲のものである。去年は演奏されていなかったものだ。ここからは推測にすぎないが、もしかしたら、去年は上演を実現するために、上演時間の短縮をはかってやむを得ずカットしたものなのかもしれない(確信はまったくない)。(追記)その後、上演に深く関わるラング氏とツェンチッチ氏から直接うかがうことが出来たのだが、去年もこのシンフォニアなどは上演されたが、テレビ収録の段階でカットされたとのことであった。テレビ側は3時間という制限を言ってきて、それよりは長くなったが、多少は妥協して器楽曲がカットされたのだ(追記終わり)今年の場合、5時半開場、6時開演で終演は11時だった。全3幕で、二回休憩。ざっと30分ずつも休憩だったと思うので、4時間が上演時間、1時間休憩である。
このオペラのあらすじは、去年書いたのだが、また後に記すことにしよう。簡単に人間関係を言うと、序曲の間に王が死ぬ。王には二度目の妻ジュディッタ(Suzanne Jerosme) がおり、自分の息子カルロを王につけたくて仕方がない。王の先妻の子がロッターリオ(ツェンチッチ)。ロタリオは中年で息子も成人しているのだが、カルロはまだ子供であり舞台には出てくるが歌わない(モック、厳密に言えば泣き声は発する)。ジュディッタはカルロを王にするためには手段を選ばず、いろいろな有力者に色仕掛けをする。ロッターリオはロッターリオで、父王が全領土をカルロに譲ると決めた約束を反故にして自分および息子が王になろうと画策する。そのロッターリオとジュディッタの政治闘争がテーマとしては大きい。しかし二人の作戦の相違があって、ジュディッタは、先王の約束を順調に実行させるために、自分の娘ジルディッペ(先王の子ではなくて前夫との子、レジネバ)とロッタリオの息子アダルジーゾ(フランコ・ファジョーリ)を結婚させようとする。策略とは独立して、二人は実際に深い恋に落ちてしまう。そのため、親同士、つまりジュディッタとロッターリオの関係が武力闘争となると、ジュディッタは娘にアダルジーゾとは別れよ、と命じるが、ジルディッペは親への従順と自分の愛情の狭間で深く苦しむ。アダルジーゾも父の命令と自分の愛情の狭間で苦しむ。オペラとしては、そこで愛に悩むアリア、二重唱が出てくるわけだ。
この二重唱は、見もの、聞きもの、であった。レジネバもファジョーリも声楽的にあらゆる技巧を駆使して、たっぷりとした愛の歌をかなでる。ここで演劇的に注目すべきなのは、アダルジーゾが囚われ人となっていることで、ジルディッペは親の命に反し、彼の縄を解いてしまう。オペラ・セリアには囚われ人が出てくることは多い。ヴィンチの《アルタセルセ》もそうだ。ペルゴレージの《オリンピアデ》もそう。音楽的に言うとここは過剰なくらいロマンティックなところであるが、それはこれが一種の牢獄で二人しかいない空間だからこそ、ほんの一瞬成り立った歌なのである。この二重唱の後には、すぐに権力闘争の場面に変わってしまう。
政治闘争、駆け引きが山ほどあるので、そこにはオペラ・セリア的要素もふんだんにある。ところでジュディッタにはもう一人娘エドゥイージェ(つまりジルディッペの姉妹、Nian Wang)がいて、これまた母の命令に従順でスペインの王子ベラルド(Bruno de Sa')と婚約させられる 。
去年と違っていたのは、第一幕でのエドゥイージェのアリアのテンポである。当日の方が大分早かった。それにはペトルの指揮全体の変化が関与していると思う。最近、この曲を録音したという話も伝わっていて、そういうこととも関係するのかもしれないが、ペトルの指揮は昨年に較べ、さらに一層、細かくオケに指示を出していた。得に第一幕は、引き締まった音楽を構築しようという意志が明確に指揮ぶりに現れ、フレーズの終わりもかなり頻繁に示していた。エドゥイージェのアリアは、母の言うことに従おう、でも。。。というようなアリアで、緩やかな中に、ふと半音階的な転調がはいってきて陰のさす歌である。あくまであえて比較すればの話だが、昨年の歌と較べると、エドゥイージェは母の命に従おうという素直さがありつつも、その背後に母の強固な政治的意志があるわけで、今年の伴奏の方が、母の政治的意志がのしかかっている感をより強固に感じさせるものとなっていた。
それに対し、第二幕になるとストーリー上も、様々な恋愛が展開してくるせいか、指揮の腕も一幕では、ピシッ、パシッと止める動きが多かったのが、腕を大きく滑らかに動かし、ゆったりとしたフレーズを形成する場面が増えた。ペトルーの指揮は、その対照が非常に明確なのだ。さらに言えば、ファジョーリとレジネバの愛の二重唱は、とてもスローなテンポで歌われるのだが、よく観ていると、オケの伴奏は静かに穏やかな表情をみせているかと思うと、指揮者が渾身の力を込めて手を振り下ろし、チェロやコントラバスが弦を激しくたたいたり、こすったりするところがあり、スローなテンポでもだれることがない。二人の歌唱力、技巧の高度なことは言うまでもなく、そういうものが揃った上でのこのチャレンジングなスローテンポと思う。
他に気がついた去年との違いは、ダ・カーポ・アリアのABA' のA’で旋律に装飾音をつけていくわけだが、ジュディッタ、デ・サが目立ったが、他の歌手もその装飾音をより複雑にしていた。こういったところは去年と同じ演目の再演だからこその余裕がなせる技なのかもしれない。ペトルーの指揮がより一層指示が細かくなったのも、そういう事情もあるだろう。オケにも余裕が生まれるであろうし。
去年も今年も、歌唱もオケもそして演技も演出もレベルが高く、練り上げられた上演である。1幕の幕切れのファジョーリのアリアでモック役の一人が奇声をあげるという個人的には好まない演出もそのままだった。序曲の終わりで前王が死ぬときには老婆が奇妙な笑い声をあげ、三幕最終場面でロッターリオが死ぬ場面でも老婆が笑い声をあげる。このオペラは、ある視点からみると二組のカップルが政治的な葛藤に巻き込まれて、一時はその関係がねじれるが最後はめでたし、めでたし、という話である。上記の奇声や笑い声というのは、恋愛物語に収斂される話ではなくグロテスクな権力闘争を忘れるな、という趣旨で、恋愛物語に対し異化効果を発揮させるツェンチッチの演出なのかもしれない。つまり、この物語はもう一方から観れば王位(皇位)、領土継承をめぐる物語でもあるのだから。それをツェンチッチは、読み替え演出し、1920年代か30年代のキューバのマフィアのボスの跡目争いに読み替えて服装なども20世紀の服、戦いも中世の戦さではなくギャングの抗争風にしているわけである。オペラ・セリアの段階で観ても、むしろ王位継承争いが主で、そこに巻き込まれる恋愛が最重要のサブテーマではないか。
今回の上演では、先述の異化効果だけが突出しているのではなく、同時に二組まとまって目出度い、という祝祭感もたっぷりと味わえるようになっている。終曲の合唱の手前に、カバンアリアつまりポルポラの他のオペラからアリアを持ってきて、祝祭的気分をこの上なく高めている。このカバンアリアは、ポルポラのオペラ Siface の ’Come nave in mezzo all'onde' というアリアだ。このアリアは Youtube ではチェチリア・バルトリが歌っているのを観ることが出来る。バルトリは、文句なく見事な歌唱で、この歌詞は、荒波のただなかでも恐れるな、すぐれた舵取りが進み方を教えてくれる、という内容で、明らかに苦難に立ち向かえと奮い立たせる歌なのである。オペラ・セリアの雄々しい歌だ。金管が何度も炸裂することからもそれは判る。しかしそれを百も承知の上で、ペトルーかツェンチッチかあるいはレジネバなのかは知らないが、誰かが天才的なアイデアを出して、これをダンサブルな音楽とし、振り付けもつけて、祝祭感満載のアリアに仕立て上げたのである。(追記)チェンチッチ氏に質問することが出来て、ダンスにするのは彼のアイデアだということがわかった。彼によれば、レジネバが歌っているのを他の登場人物がみな聴いているだけというのはあり得ない、と。納得(追記終わり)ここにSiface の 'Come nave in mezzo all'onde'を持ってくること、これに踊りの振り付けをつけること、そして踊りのに相応しい演奏・歌唱にすることの3つの掛け合わせが、圧倒的な効果をもたらす。すべてを押し流す祝祭感、危険なほどの幸福感。われわれは至福の一瞬を味わったのちに、登場人物の合唱(実は観客席の端に6人の合唱団がその時だけいる)でめでたしめでたしの歌を歌い、ロッターリオの死と老婆の笑いを聴いて、幕が閉じられるのである。複雑な味わいではないか。
演奏・歌唱については、ツェンチッチ、ファジョーリ、レジネバが図抜けて素晴らしいのだが、レジネバについては、場面によってトリルなどの装飾音が早いテンポでも遅いテンポでも、パッセージの頭からでも途中からでも自由自在であり、なおかつそれはその場の表情・感情(悲しみなり、切なさなり、喜びなり)を表現するのに最適な形で現れるので、もう装飾音とは言いがたい本体と一体化した音楽表現になっていて、しかもだからと言って、様式観が崩れることもないという真に卓越した歌唱をみせていた。彼女は、二重唱でも、複数人数のかけあいでも、出しゃばることはまったくなく、相手と調和するのだった。演技においてもそうである。ファジョーリも好調で、歌にも演技にもぬかりはない(彼については別項で)。ツェンチッチは、普通の歌手が歌ったなら、なかなか魅力が引き出せず凡庸な曲に聞こえてしまいそうな曲からリリシズムを引き出すのが巧みでこのオペラではそのリリシズムをアスプランドというジュディッタの護衛(Petr Nekoranec)への愛にかぶせていた(その愛情に妻が嫉妬してロッターリオを最後に毒殺するというのがツェンチッチのしかけた演出である)。権力闘争を不気味な笑い声で表出すると同時に、愛も夫婦愛を蹴散らすようなロッタリオのアスプランドへの愛、ジュディッタのどこまでが本気でどこまでが権力のための色仕掛けが判然としないアスプランドやベラルドに対する誘惑など、愛の描き方も一筋縄ではいかないように描かれていて、リブレット以上にその部分は複雑化、現代化している。
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