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2021年8月17日 (火)

パスクィーニ作曲《イダルマ》その5

昨日(8月16日)がオペラ《イダルマ》の千秋楽であった。

今回、いろんな事情が重なって幸運にも3回観ることが出来た(全体の上演は6回)が、初めて観るオペラは3回ほど観るとよく分かるということも確認できた。1回目は、僕の場合は指揮者やオケが音楽的にどういう動き、指示をしているかが気になるので、演出の細部を見落とすことがままある。2度目になると、指揮やオケのやりとりは既知のものとなるので、歌手の歌いぶりだけではなく、演出と絡んだ動作の意味もわかってくる。3回目になると、音楽と歌詞と演出の連関を総合的に味わうことが可能になる、とでも言えようか。

このオペラが340年ぶりの蘇演であることもあって、事前にリブレットを入手することはできなかったので、プログラムに英語で記されたあらすじと、会場で売っていたリブレットをホテルに帰ってきて読むという作業があって、なかなか隅々まで判ったとは言えないのだが、かなりわかった感じがする。

先の一度目、二度目の話に補足すると、一度目は初めて観る、聴く歌手が多いと、どの人がどの役というのが頭に入りにくい。今回の場合は、幸い、イダルマとイレーネの二人の声がまったく声質が異なり、外見も異なっていたので区別は楽だった。演目によっては、ソプラノ2人で歌手の背格好も似ていたりすると一度目には混同しがちな場合もある。二度目、三度目になると歌手を見慣れてくるからその混同はなくなる。演出によってもこの混同は増加されることがあって、ソプラノ2人(テノール2人でも同様)の服が似ていたりすると区別がつきにくい。こんなことは常識だと思う読者もおられようが、そういう閉口させられる演出も少なからず経験してきた。

今回の演出ではアルミーロはごてごてと飾りのついた帽子をかぶっていたので、これは別の人物だということがすぐにわかるようになっていた。どういうコンセプトで演出をするか、ということのほかにこういった配慮もオペラの演出では大切なことだと思う。ピッティの演出などでは、登場人物の服の色でそれが表現され、たとえば、敵味方が一目瞭然となるなど、視覚的な区別に役立っていることが多い。

歌手の評価についてだが、マルゲリータ・マリア・サーラが抜群に良かったと前に書いたが、彼女の良さはどこにあるのかということを少し考えてみたい。1つは、彼女は音楽のラインがにじまないのである。リズムや音色が正確、適切にちょうどぴったりのところに来る。その気持ちよさ。たとえば男性陣では声量が大きな歌手がいるのだが、声を張り上げることに注力するせいか微妙にリズムがオケとぴたっと来ないことがある。古楽器の場合、オケではそれが顕著なのだが、音量はモダンに較べて小さい。しかし音色が均等でなく、むしろ微妙な音色の変化を味わう楽しみがある。テオルボなどはその最たるもので、リュートが大きくなったようなこの楽器は、バイオリンが何台がはいってくるとあっという間にほぼ聞こえなくなってしまうのだが、たとえばイレーネのアリアで、テオルボとチェロだけで伴奏が開始された時の絶妙な美しさは、ほかでは味わえないものだ。あるいは、アルミーロの終盤のアリアでテオルボ2丁とマンドリンでの伴奏の繊細な掛け合い。バロック・オペラの場合、歌手は、場合によっては声量よりも、リズムや音色の調整に注力しなければならないだろう。

もう1つは、イタリア語の聞き取りやすさ。サーラはアリアでもレチタティーボでも言葉がはっきり聞き取れる。イダルマ役のアリアンナ・ヴェンディッテッリはその点がいまいちだった。これは彼女がソプラノでサーラがアルトだからという面もあるが、そればかりとは言えない。テノールのホアン・サンチョの方が、バリトンのモーガン・ピアスよりも歌詞ははっきり聴き取れるのだった。こういう言葉の面は、オペラが音楽劇であることを考えると、とても重要で、イタリア人が評価する場合、言葉がはっきりしないと手厳しい評価がくだされるのを何度も聞いたし、リブレットをある程度読むようになると、聞き取れないのが欲求不満になってくる。

現地では当然ながらドイツ語字幕が出る。日本で日本語字幕が出るのと同じである。それを追ってドラマをたどる人は、イタリア語としての発音の不備があまり気にならない、あるいはまったく気にならないかもしれない。しかし作曲家は明らかに言葉にあわせて曲を構想・作曲しており、発声のケアとフレージングのはじめと終わりのタイミングの適切さは、相関していると思う。マルゲリータ・マリア・サーラの場合、台詞がこみいってきても、次のフレーズの頭が遅れないでピシっと合わせてくるのである。だから、イタリア語としても聞き取りやすいし、音楽的にもリズムが気持ちよく整っている。

ということとは別の次元なのだが、タイトル・ロールのアリアンナ・ヴェンディッテッリは最終日の第三幕で、役に入り込んで熱のこもった演技・歌唱を示した。こちらもはっとしたのだが、オケを見ると、演奏をしていない奏者が何人も舞台を見つめていた。こういう役に憑依する瞬間は、技巧・技術を越えて劇として力を持つし、歌から発せられる力も増す。

細かいことを書いてしまったが、この時代(1680)にこれほど世俗的で楽しめるオペラ、しかも一幕ものではなくて、三幕ものがあったのだ、ということを体感できた貴重な経験に感謝。

 

 

 

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