パスクィー二作曲《イダルマ》その1
ベルナルド・パスクィー二作曲、ジュゼッペ・ドメニコ・デ・トーティス台本のオペラ『イダルマ』を観た(インスブルック、Haus der Musik).「我慢したものが勝ち」という副題がついている。
ベルナルド・パスクィーニはあまり有名な作曲家とは言えないかもしれないが、数年前にインスブルックでオペラ『ドーリ』が上演されたアントニオ・チェスティとやや近い世代だ。チェスティの生没年は1623−1669年であるのに対し、パスクィーニは1637−1710年で14歳ほど年下ということになる。しかし、パスクィーニのオペラではアッポローニの台本を使っていることが複数回あり、アッポローニはチェスティと共作している台本作家であった。
パスクィーニは、マッサ・エ・コッツィーレというピストイア県(トスカーナ州)の山奥の小さな村の出身だが1650年頃司祭をしていた叔父とともにフェッラーラに移った。50年代半ばにはローマに移り、オルガニストとして活躍している。1667年名家ボルゲーゼ家のジョヴァンニ・バッティスタ・ボルゲーゼのお抱えとなり、92年までその職にあり、93年からは息子のマルカントニオ・ボルゲーゼに召し抱えられている。
ローマでの音楽活動には深く関わっており、それはフラヴィオ・キージ(叔父は教皇アレッサンドロ7世、石鍋真澄氏の近著『教皇たちのローマ』にもあるように、教皇の甥で枢機卿だった人が美術や音楽のパトロンとして重要な働きをした)、ベネデット・パンフィリ、ピエトロ・オットボー二、スウェーデン(元)女王クリスティーナの催す音楽活動に参加していた。名家の顔ぶれは、この後にヘンデルがローマにやってきて世話になる人たちと共通している—無論、世代的にはパスクィーニはヘンデルより50年ほど年上になるわけだが。
1706年にはアルカディア・アカデミー(Accademia dell'Arcadia)に、コレッリやアレッサンドロ・スカルラッティとともに入会を認められている。鍵盤楽器奏者、作曲家としての彼の名声はアルプスの向こうまで鳴り響き、Muffat や Krieger といった人たちが彼の元を訪ね教えをこうている。ではあるが、彼の作曲活動は鍵盤楽器曲にはとどまらず、オペラ、オラトリオ、カンタータなど多くのジャンルにわたっている。
オペラは1672年に処女作を書き、1679年にカプラ二カ劇場にデビューし、その翌年に今回上演の《イダルマ》を同劇場で上演した。
長くなるので、続きは、その2以降で。
このオペラはその後、イタリアの何カ所かでは再演されたようだが、初演からすれば、340年ぶりの蘇演ということになる(厳密に言うと、イタリアでの同時代の上演の最後が何年であったかによって変わってくるが、こちらの新聞やメディア報道では340年ぶりということが強調されていた。厳密性には欠けるが、おおよそのところでは間違っているというほどのことではあるまい)。
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