テレマン《音楽牧歌劇》その2
テレマンという人について振り返ってみよう(テレマンに詳しい人は周知のことばかりかと思います)。
彼の特徴の1つは長生きだったこと。1681年に生まれ、1767年に亡くなっている。86歳だから当時としては長命で、晩年はハイドンの青年期に相当するし, 1767年にはモーツァルトも11歳になっているわけだ。その辺が1750年に亡くなったバッハと異なるところだ。だからこそ、伝統的に1750年をもって一つの時代区分とする見方があったわけで、テレマンは次の時代まで生き延びた人とも言える。もっとも最近は、1720年代、30年代には新しい音楽様式の萌芽があるとされるし、レオナルド・ヴィンチのオペラなどを聴くとたしかに、後期バロックから移行してよりホモフォニックな傾向が現れている。
さらにまた、彼はギネスものの多作家で3600以上の作品が知られ、消失作品も含めると4000以上の作品を書いたという。受難曲一つとってもいくつも受難曲を書いているのですね。これは彼が40代以降ハンブルク(マッテゾンがいた町です)の音楽監督になって、ハンブルクのためだけでも40以上の受難曲を書き、22曲が現存しているという。
オペラに関しては、1738年にハンブルクの歌劇場が閉鎖されている(再建は1827年)ので、その後は制作の機会が激減したと思われるが、それでも50作のオペラを作ったという。しかし残念ながら、日本で、いやヨーロッパでもテレマンのオペラが上演されるというのをほとんど聴いたことがないし、DVDやCDでも観たことがない。
この作品の制作年代もプログラムには ca.1713-1716 と書かれており、やや漠然としている。テレマンは30代に4年間フランクフルトに赴任しており、その時に町の有力者とも知り合いになって、結婚式の祝祭のための《音楽牧歌劇》を委嘱されたのだ、ということだろう。現存しているなかでは、テレマン最初のオペラということになっている。ただしプログラムによるとテレマンがフランクフルトのために仕事をしていたのは1712−1721年だという。必ずしも在住していない状況でポジションを持っているということはある。実際、テレマンはハンブルクに移ってからも、バイロイトやアイゼナハの礼拝堂のポジションを持ち続けていた。
ここでも歴史的な背景が意味を持ってくるようだ。この作品でフランス語のアリアが出てくるわけだが、フランクフルトはフランスからユグノー(カルヴァン派、つまりプロテスタント)が逃げてきたところで、ユグノーはこの地で貿易や金融業を盛んにし、フランクフルトの経済的繁栄をもたらした。プログラムの著者Babette Hesse によれば、フランス語とドイツ語の混成という珍しい形式は、フランス系のユグノーと、ドイツ系の人間が結婚したがゆえに生まれたのではないかとのこと。いずれにしてもこの当時のフランクフルトは3万人の住人で、コスモポリタンで自由な雰囲気を持っていたのだ。
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