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2021年8月22日 (日)

ヨハン・マッテゾン《ボリス・ゴドノフ》その2

ヨハン・マッテゾンについて。この人はハンブルクに1681年ハンブルク生まれ、1764年ハンブルク没で、ヘンデルの友人だった人でヘンデルの伝記には必ず出てくる。つまりヘンデルがハンブルクに行って初めてオペラを書くわけだが、マッテゾンの方が少し先輩で、アドバイスを受けたとされている。マッテゾンは徴税請負人の息子として裕福に育ち、幅広い教育と音楽教育を受け、最初は歌手として活躍し、ヘンデルがハンブルクに来た頃も、彼は歌手としても活躍し、作曲家としてオペラも作っていたのだ。ヘンデルと大喧嘩をしたのも自作の《クレオパトラ》というオペラ上演の際で、自分の歌手としての出番が終わったので、そこまでチェンバロを弾いていたヘンデルに替わってもらおうとしたらヘンデルが拒んでチェンバロを弾き続け、大喧嘩となって劇場の外で決闘となりヘンデルの服の金属ボタンがなかったら危うく命を落としていたところだったというエピソードは有名だ。しかし二人はその後和解し、ヘンデルの作品でマッテゾンが歌手として出演してもいるし、イギリスにわたってヘンデルとの文通は生涯続いたという。

マッテゾンにはさらに音楽理論家としての側面もあって、彼のバロック音楽論は研究の対象として重要であると思うが、音楽がいかに人間の情念を表出するものであるか、というところにポイントがあるらしい。彼はその論を展開するときにジョン・ロックの哲学なども引用し、英語に堪能だった。英国との関係でもっと重要なのは、彼がハンブルクにいたイングランド大使のジョン・ウィッチ卿の秘書であったこと。ちなみに妻も英国人であった。そしてこの作品を論じる際に重要なのは、この作品がイギリス大使に献呈されているということだ(この項目の情報は、マッテゾンの生涯に関しては、インターネット上のウィキペディアなどにもとづいており、作品自体の情報については、インスブルックで入手したプログラムの解説(Johannes Pausch執筆)にもとづいている)。煩雑を避けるため、註はつけないのでご了承ください。

このプログラムの解説に教えられたことはとても多い。あるいはマッテゾンや当時の政治状況について自分の無知を思い知らされたというか。しかしよく読むと、これまでの通説もその無知にもとづいていたことがわかる。

いくつかの大きな項目でこの作品を理解するために知るべきことがある。

1つは、1600年代、1700年代の初頭スウェーデンが北の大国であったこと。バルト海はスウェーデンの内海と言われていた。そして領土継承などをめぐり、何度か戦争がある。17世紀には北方戦争と総称されるものが、ロシア、ポーランド、リトアニア、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなどであり、イングランドはスウェーデンにつき、オランダはその反対についた。この時のスウェーデン王カール10世は、オペラの世界とは縁の深いスウェーデン女王クリスティーナが結婚するはずだった人。

そして18世紀初頭には大北方戦争(1700−1721)が起こる。スウェーデン対北方同盟の戦いで、スウェーデンの覇権をめぐる戦争であった。マッテゾンの《ボリス・ゴドノフ》が書かれ、上演中止になったのは1710年でまさにこの大北方戦争の最中である。ヘンデルとの決闘になった《クレオパトラ》は1704年。マッテゾンはイングランド大使の秘書になったこともあり、1706年から1710年にかけて音楽と政治の関係をじっくり学んだ。

 ではなぜ、1710年に上演は中止になったのか。

 つづきはその3で。

 

 

 

 

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