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2021年8月30日 (月)

ドゥランテ《レクイエム》

ドゥランテの《レクイエム》を聴いた(インスブルック、宮廷教会)。

フランチェスコ・ドゥランテを初めて聞いたのは、20世紀最高のバリトン歌手(の1人)エットレ・バスティアニーニの日本でのリサイタルのCD(いや、最初はレコードだったと思う)で、冒頭にドゥランテの Vergin, tutt’amor を歌っている。このタイトルは、「清き乙女、愛の泉よ」と訳されていて、非常にミスリーディングである。Vergin は聖母であり、罪人が聖母マリアに切々とうったえる歌である。バスティアニーニは古楽

よりむしろ、ヴェルディやヴェリズモのオペラで名高いが、ドゥランテや時代下ってトスティの歌唱も、情感あふれる中に端正さをたもった歌の姿が凜々しい。曲の持つ気品が伝わる。

さて、ドゥランテは1684年生まれ、1755年没なので、バッハやヘンデルとまったく同時代人である。

彼はこの時代、きら星のごとく輩出したナポリ楽派の作曲家の一人である。周知のごとく、この時代のナポリには音楽院が4つあって、ドゥランテは1699年15歳の時に、その1つ Conservatorio di Sant'Onofrio に入学した。音楽院ははじめは孤児を救うためであったが、やがて音楽院としての性格を強め、ドゥランテは叔父が教えるこの音楽院に入学した。A.スカルラッティの教えをうけ、後にはローマでパスクィーニにも教えを受けたのではないかと考えられているがこれは確たる証拠がない。

その後ナポリに帰って音楽院の教師になり、パイジェッロやペルゴレージ、トンマーゾ・トラエッタなどを教えている。ドゥランテはオペラは書かず(教え子たちはオペラ作曲家になっているが)、あらゆる種類の宗教曲を書いた。

この日演奏された《レクエイム》ト短調(ca.1718) もその一曲ということになる。プログラム(Alexandre Ziane)によると、この曲はいくるかの版が現存しているが、当日ファゾーリスが使用した版は、ローマのSan Giacomo degli Spagnoli という教会(スペイン人のための教会、当時は大使館・領事館的な役割を果たしていた)のアーカイブにあるものという。まだ、ドゥランテのカタログ・レゾネ(全集)には納められていない。アーカイブの音楽家フランチェスコ・ルイージによると、この曲の音楽様式や4つのパートからなる編曲の点で1718年頃の作曲ではないかとのことで、つまりドゥランテのローマ滞在中の作。ドゥランテのスペイン人コミュニティーとの関係は1709年にさかのぼるものでミサ曲を書いている。ナポリは当時スペインに支配されていたので、ドゥランテがスペイン人の教会のために仕事をしたのも不思議ではない。

演奏は、教会の天井に近い部分に橋がかりがあるのだが、その上に独唱者、合唱、器楽がいる、という形で行われた。最初想定していた位置と異なるらしく、演奏前にファゾーリスが内陣の客に対して、演奏者は上にいるのでここからは見えないので、移動するならどうぞご自由にという意味のことを言い、移動する人もいたし、その場にある補助椅子の向きを変えて、演奏者の後方から聞く人もいた。

レクイエムは、その時代なりに Dies irae (神の怒り)がドラマティックで、リズムや音楽的表情が激しいものになると思ったし、同時にそれはあくまでもこの時代のものとしては、という限定もつくのであった。

演奏はオケがイ・バロッキスティ。独唱およびスイス放送曲合唱団。指揮はディエゴ・ファゾーリス。

 

 

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