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2021年8月30日 (月)

チェスティ声楽コンクール その2

ファイナルコンサートの模様はストリーミングで中継されたようで、現在もYoutube で観られる。

https://www.youtube.com/watch?v=mY_pq9TB50U&t=402s

聴衆は入り口で、当日のプログラムと当票用紙(黄色)を渡される。投票用紙はドイツ語と英語で書いてあって、フィナリスト10人の名前の左に四角があり、一人にだけ印をつけること、二人以上つけたら無効と書いてある。

式次第は司会者がいるのが、いつものコンサートとは異なるが、コンサートとして楽しめる工夫もある。

まず、指揮者と古楽の十数人のオケの伴奏である。コンサートは前半と後半に分かれていて、前半では5人が17世紀のカルロ・パッラヴィチーノ(1630−1688)のオペラ L'amazzone corsara から一曲アリアかレチタティーヴォとアリアを歌う。残りの5人は自由曲で、ヘンデル、ヴィヴァルディ、ポルポラのアリアを歌った。後半は前半と入れ替わるように、前にヘンデル、ヴィヴァルディ、ポルポラを歌った5人が今度はパッラヴィチーノを歌い、前半でパッラヴィチーノを歌った人がヘンデル、ポルポラ、ペルゴレージ、ヴィヴァルディを歌った。

率直に言えば、パッラヴィチーノからヘンデル、ポルポラ、ヴィヴァルディに切り替わると、白黒テレビからカラーテレビに変わったような多彩感に打たれる。こんなに音の色が表情が、テンポがフレーズが劇的に変わるのかと。しかし聞き慣れると17世紀の音楽には、独特の味わいがある。ちょうど白黒写真だからカラー写真よりつまらないということはなく、名手の白黒写真の味わいが深いのに似ると言えばよいか。

パッラヴィチーノが課題曲になっているのは、うまく考えられていて、来年の若手オペラの演目がパッラヴィチーノなのである。だからここでうまく歌えた人は、来年その出場者となる可能性が高い(最も最後の授賞式でデ・マルキはその点のつめはこれからするので、確かなことは数週間後に発表するとのことであった)。ともかく、コンクールにはエージェントや劇場関係者が審査員にいるし、ストリーミングもあるわけで、ここで注目を集めれば、将来、活躍の場が開ける(可能性が高い)。実際、審査員のシュヴァルツも、たとえ入賞しなくてもファイナルに残ってその後活躍している人がいるし、君たちもそうなれる、という意味のことを繰り返し述べていた。

たしかに、このあたりの人だと、音程が少しあやふやだとか、声がもう少し響けばとか、改良の余地が明白にあって、それが克服できればよくなる伸びしろを感じる人はいた。その中の一人が若手有望賞として選ばれたフランスのカンターテナー, Remy Bres-Feuilletで荒削りなところもあるのだが、ポルポラの難曲にいどみアジリタで輝かしい声を放っていた。24歳(出場者は男女とも年齢が明記されている)と出場者の中で二番目に若いこともあり将来性を認められたということだろう。

優勝したのは Shira Patchornik というイスラエルのソプラノで、この人は声のコントロールも、歌うときの表情・しぐさも極めて完成度が高かった。一位獲得だけでなく、アンデア・ヴィーンからのオファーももらっていた。しいて言えば、彼女が歌った曲はテンポが遅めで叙情的な曲だったので、アジリタがどれくらい見事なのかは判断しようがないのだった。しかし、叙情的な曲に限って言えば、強弱の変化と同時に声の表情・音色を変化させていく繊細さは文句のつけようがなく、彼女は叙情的な曲はバロックに限らず、ドニゼッティでもプッチーニでも見事に歌えそうだ、という感触を持った(そちらに進んで欲しいという意味ではありません)。

一票を投じるとなると、何か減点主義のようにアラ探しをしてしまいがちになるのだが、僕などは、選ぶ曲の性質があまりに違うと比較がむずかしい(スローで叙情的な曲か、ポルポラのようにテンポが速くてアジリタが必要な曲か)とも思ったりした。審査員もいろいろ議論がもめたという。

何を基準にというのがむずかしいところなのか。

それはともかく、こうやって12回目となるコンクールが終了した。先にも述べたが、コンクールが人材の発掘、来年のインスブルック古楽祭の演奏者発掘にもつながっていること、そしてもちろん、参加者にとってインスブルックだけでなく、各国での活躍の場をオファーされる可能性を大きく広げる機会となっていること、などの点で、よく考えられたコンクールであると思う。どこのコンクールでもエージェントや劇場関係者は来ているものだと思う。たとえば、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルで、ザルツブルクやスカラ座の監督をつとめたリスナーなどを見かけることもあった。このコンクールではそれが審査員のメンバー、および狭い意味での入賞者以外に、次年度の各地の音楽祭へのオファーを発表することで見事に可視化されていると言えよう。

ちなみに、パスクィーニのオペラ《イダルマ》のイレーネ役で、当ブログで賞賛したマルゲリータ・マリア・サーラは去年、2020年のこのコンクールの優勝者だった。ブログ執筆後しばらくして知って驚いた。彼女の場合、若手オペラの方ではなくて、音楽祭のメインのオペラのしかも重要な役に抜擢されたのである。実力が抜きん出ていたということなのだろう。

シュロス城のリサイタルなどにも、数年前のコンクール入賞者などがいる。こうして成長して里帰り?する人もいるわけだ。地元の人で、毎年コンクールを見ていて、彼女/彼の成長ぶりに、この人は伸びると思ったわ、などと目を細めている人もいるのかもしれない。そういう場所・町と演奏家との縁、つながりというのも案外大事なものかと思う。バロックの時代の作曲家と町、宮廷(の領主・妃)の関係を考えることが多くなって、以前より強くそう思うようになった。バロック時代の作曲家はなにより演奏家でもあったのだし。

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チェスティ声楽コンクール その1

https://www.youtube.com/watch?v=mY_pq9TB50U&t=402s

チェスティ声楽コンクールのファイナル・コンサートを聴き、聴衆としての一票を投じた(インスブルック、Haus der Musik, 大ホール)。

正式にはバロック・オペラのためのピエトロ・アントニオ・チェスティ国際声楽コンクールというようだが、チェスティ・コンクールと呼ばれている。ファイナル・コンサートの出場者は1次予選(8月25,26日)、2次予選(8月27日)を勝ちぬいた若者たちで、8月29日にファイナル・コンサートは行われた。これがインスブルック古楽祭の最終日であり、最終行事である。

僕は予選は残念ながら観ていない。

ファイナリストは10人。ソプラノが4人、アルトが2人、カウンターテナーが2人、バリトン1人、バス1人。男女でいえば女性6人、男性4人である。

出身国はチェコ/ロシアが1人、フランス2人、アメリカ1人、ドイツ2人、イタリア2人、イギリス1人、イスラエル1人。

出場者には年齢制限があり、女性は1990年以降生まれ、男性は1988年以降の生まれということで、男女で異なる年齢制限で、女性は31歳まで、男性は33歳までということになる。

審査員は歌劇場やエージェントの面々が多く、7人いるのだが、ジュリオ・カストロノーヴォはエージェント Stage Doorのシニア・アーティスト・マネージャー。ルーカス・クリストはヴェネツィアのフェニーチェ劇場のキャスティング・ディレクター。アレッサンドロ・デ・マルキは、この音楽祭の総監督で指揮者である。ミヒャエル・シャーデは、歌手で、バロックターゲ・シュティフト・メルクというバロック音楽祭の芸術監督、ノラ・シュミッツはグラーツ・オペラおよびドレスデンのゼンパーオーパの総監督、ゼバスティアン・シュヴァルツはトリノのテアトロ・レージョの芸術監督、カロリン・ヴィールピュッツはアンデア・ヴィーン劇場の芸術監督、という具合だ。

コンクールによって優れた新人を発掘し、自分たちも起用していくという立場にある人たちなのである。そのせいもあって、ホームページにあがっている賞は一位から三位までと将来有望の若手という4人に対してだが、実際の授賞式では、この人は来年のヴァレ・ディストリア(イタリア南部の音楽祭)に出てもらうとか、先にあげたバロックターゲに出演してもらうといった来年の出番を獲得しました賞もあった。それが入賞者と一致する場合もあるし、賞には入ってないのだが、出演を約束された人もいてなかなか興味深い。

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ドゥランテ《レクイエム》

ドゥランテの《レクイエム》を聴いた(インスブルック、宮廷教会)。

フランチェスコ・ドゥランテを初めて聞いたのは、20世紀最高のバリトン歌手(の1人)エットレ・バスティアニーニの日本でのリサイタルのCD(いや、最初はレコードだったと思う)で、冒頭にドゥランテの Vergin, tutt’amor を歌っている。このタイトルは、「清き乙女、愛の泉よ」と訳されていて、非常にミスリーディングである。Vergin は聖母であり、罪人が聖母マリアに切々とうったえる歌である。バスティアニーニは古楽

よりむしろ、ヴェルディやヴェリズモのオペラで名高いが、ドゥランテや時代下ってトスティの歌唱も、情感あふれる中に端正さをたもった歌の姿が凜々しい。曲の持つ気品が伝わる。

さて、ドゥランテは1684年生まれ、1755年没なので、バッハやヘンデルとまったく同時代人である。

彼はこの時代、きら星のごとく輩出したナポリ楽派の作曲家の一人である。周知のごとく、この時代のナポリには音楽院が4つあって、ドゥランテは1699年15歳の時に、その1つ Conservatorio di Sant'Onofrio に入学した。音楽院ははじめは孤児を救うためであったが、やがて音楽院としての性格を強め、ドゥランテは叔父が教えるこの音楽院に入学した。A.スカルラッティの教えをうけ、後にはローマでパスクィーニにも教えを受けたのではないかと考えられているがこれは確たる証拠がない。

その後ナポリに帰って音楽院の教師になり、パイジェッロやペルゴレージ、トンマーゾ・トラエッタなどを教えている。ドゥランテはオペラは書かず(教え子たちはオペラ作曲家になっているが)、あらゆる種類の宗教曲を書いた。

この日演奏された《レクエイム》ト短調(ca.1718) もその一曲ということになる。プログラム(Alexandre Ziane)によると、この曲はいくるかの版が現存しているが、当日ファゾーリスが使用した版は、ローマのSan Giacomo degli Spagnoli という教会(スペイン人のための教会、当時は大使館・領事館的な役割を果たしていた)のアーカイブにあるものという。まだ、ドゥランテのカタログ・レゾネ(全集)には納められていない。アーカイブの音楽家フランチェスコ・ルイージによると、この曲の音楽様式や4つのパートからなる編曲の点で1718年頃の作曲ではないかとのことで、つまりドゥランテのローマ滞在中の作。ドゥランテのスペイン人コミュニティーとの関係は1709年にさかのぼるものでミサ曲を書いている。ナポリは当時スペインに支配されていたので、ドゥランテがスペイン人の教会のために仕事をしたのも不思議ではない。

演奏は、教会の天井に近い部分に橋がかりがあるのだが、その上に独唱者、合唱、器楽がいる、という形で行われた。最初想定していた位置と異なるらしく、演奏前にファゾーリスが内陣の客に対して、演奏者は上にいるのでここからは見えないので、移動するならどうぞご自由にという意味のことを言い、移動する人もいたし、その場にある補助椅子の向きを変えて、演奏者の後方から聞く人もいた。

レクイエムは、その時代なりに Dies irae (神の怒り)がドラマティックで、リズムや音楽的表情が激しいものになると思ったし、同時にそれはあくまでもこの時代のものとしては、という限定もつくのであった。

演奏はオケがイ・バロッキスティ。独唱およびスイス放送曲合唱団。指揮はディエゴ・ファゾーリス。

 

 

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「ティンパニーとトランペットとともに」その2

太鼓とトランペットのその昔の軍楽は、何度か繰り返しやっていてもう一度観に行った。

1回目は、メンバーが広場の一隅にいたのであるが、今回は、黄金の屋根と言われる建物のバルコニー(建物の3階から突き出てて、黄金の屋根の真下である)にメンバーがいて、観衆は広場のカフェでコーヒーを飲んでいたり、立ち見だったりする。ここは歩行者天国なので自動車の来る心配はない。今回も子供がけっこういて、明らかに小学校前の3歳から5歳くらいの子が、トランペットや太鼓の音を聴きつつ走り回っている。兄妹らしき二人が追いかけっこをしていたり、姉弟が手をつないでぐるぐるまわっていたり、なぞのステップを踏んでいる男の子がいたりして、楽しい。曲が終わると、その子らも拍手するのである。まわりの大人が拍手するからではあろうが、親にうながされているわけではなく自然にというか自発的に拍手をしている。次の曲がはじまると、また走りまわったり、ステップを踏んだりしている。

非常に興味深い音楽との出会いだと思う。小さい子が音楽会で椅子の上に一定の時間じっと座っているのはなかなか厳しいものがあろう。この場合は、いつ来ても、いつ帰ってもよいわけだが、子供は案外あきる様子なく走ったり、踊ったり、ステップを踏んでいる。こういう基本的音階でリズムも明快な音楽は、身体にはいりやすいとも言えよう。

インスブルックは、町から空港が近いので、野外のコンサートでは時々、飛行機の爆音が割り込んでくるのだが、そういったことは些細なことに思えるおおらかさがこういった街角のフリーコンサートにはあるのだった。このティンパニーとトランペットのミニコンサートは最初に観た時とは少なくともメンバーが2人入れ替わっていた。今回は男性4人女性2人だった。

演奏された曲は、前回に聞いた記憶があるものが4曲はあったので、もしかするとすっかり同じかもしれない。

公園の東屋での古楽演奏とは異なり、こちらは係員もいないし、ペラのプログラムもない。立ち見の観衆がスマホで撮影するのもまったく自由である。あらゆる意味で開かれたコンサートなのだった。

 

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2021年8月29日 (日)

コンサート《Lost in Arcadia》

《Lost in Arcadia》(アルカディアにさまよって)と題されたコンサートを聴いた(インスブルック、シュロス城)。

この日は、前日よりも涼しげだったので、長袖シャツの上にヤッケを羽織って出かけたのだが、冷え込みが予想以上で、会場でも寒くてヤッケが脱げず、バツが悪かった。会場は、シュロス城のスペイン広間という長方形の部屋で、長い一辺の真ん中に舞台があり、3方に客席があるのだが、この日は正面席だった。前に横の席で聴いたときには、反響、残響が多く悩ましかったが、正面席だとまったく気にならないことがわかった。

正面席の一列目には聖職者が2人いたし、いかにも社会的地位の高い人らしき(州政府の重鎮?)人たちが居並んでいた。インスブルック古楽祭自体が連邦の芸術・文化・スポーツ省、ティロル州、インスブルック市の支援で支えられているのである。その他にも、多くの企業の協賛がある。こうした充実した音楽祭は、芸術、文化を推進すると同時に、地元の文化を活性化し、なおかつこれも重要なことだが、地元の観光産業(ホテル、レストラン、土産物屋など)、商店街を活性化するだろう。

この日は、ソプラノと5人の室内楽の共演。ソプラノはステファニー・ヴァルネリン。オケはラストレというトリノを本拠地にする5人組。フランチェスコ・ドラツィオ(ヴァイオリン)、パオラ・ネルヴィ(ヴァイオリン)、レベカ・フェッリ(チェロ)、ピエトロ・プロッセル(テオルボ)、ジョルジョ・タバッコ(チェンバロ)である。彼女も、彼らもそれぞれ複数のCDを出している。

この日のプログラムはカルロ・フランチェスコ・チェザリーニ(1665−1741)のカンタータを中心に、コレッリやストラデッラの器楽曲をはさんだもの。

最初はアルカンジェロ・コレッリ(1653−1713)のSonata da camera a tre ト短調、op2の6。バロックの室内楽は、CDで聴くより実際の舞台を観ながらの方がずっと興味深い。音が生音で、古楽器の微細なニュアンスがわかるということが1つ。しかしそれ以上に大きいのは、4,5人のグループで演奏している場合、演奏者は、お互いに目をみたり、うなずいたり、弓を上下させたりで、仲間の演奏者に合図を送ったり、音の出を合わせたり、音量の調整や、音の表情づけを合わせたりしている。それがCDだと結果の音しかわからないわけだが、目の前での演奏だと、まさに演奏者の息づかいとともに、上記の演奏者同士のやりとりが視覚的・聴覚的に伝わってくるわけで、音楽の勘所がはるかに把握しやすい。演奏者にとっても、二人の息がうまくあっていった時の(一瞬の)満足げな表情がうかんだり、テオルボやチェロが時たまではあるが、はっしと低弦をはじいたり、弓をぶつけたりする気迫にはっとさせられたりもする。音だけで聴いている時よりもずっとカラフルで、立体的な表情が読み取れるのである。僕はCDやストリーミングで音楽を聴くことの価値をおとしめたいのではない。昔の王侯貴族ではないのだから、いつも演奏家がそばにいるわけもなく、日本で自宅にいても車にのっても音楽が手軽に聴けるありがたさは人一倍感じている。ではあるが、だからといって生のコンサートの意義がいささかも減じることはない、と言いたいのである。少なくとも、僕にとって、テレマンやコレッリは、目の前の演奏者を観ながらのほうが、ずっと音楽の動きをいきいきと感じることができた。

次は Carlo Francesco Cesarini の 'Fetone, e non ti basta' Cantata da camera。これはかなりオペラに近いものえ、レチタティーヴォ、アリア、レチタティーヴォ、アリア、レチタティーヴォ、アリアという構成である。つまり、オペラのある場面を切り取ってきた感じなのだ。チェザリーニで重要なことは、この人は枢機卿のベネデット・パンフィーリ(1653−1730)にお仕えした人で、この日のカンタータはすべてパンフィーリの歌詞に曲をつけたものである。

パンフィーリと言えば、ヘンデル好きの人は思い出すであろうが、ヘンデルがローマ時代に世話になった人で、最近比較的よく演奏されるようになったヘンデルの Il triomfo del Tempo e del Disinganno (時と悟りの勝利)の歌詞を書いたのは、このパンフィーリであった。というか、この枢機卿は、この時代の芸術の偉大なパトロンで、A.スカルラッティであれ、ボノンチーニであれ、ヘンデルであれ、チェザリーニであれ、自分の歌詞に曲をつけさせているのである。美術でも建築でも音楽でもそうなのであるが、この時代、ローマの名家や教皇の甥で枢機卿だったもの(パンフィーリの場合は、大叔父がイノケンティウス10世)で、美術・建築・音楽のパトロンだったものは数多く、中にはパンフィーリのように制作に深く関与しているのである。

だからパンフィーリの書いたものに、チェザリーニが曲をつけたという言い方の方が実態にあっているだろう。チェザリーニの同時代の作曲家にはアレッサンドロ・ストラデッラやアレッサンドロ・スカルラッティ、ボノンチーニらがいたわけである。

これらの人物に関係した重要な出来事として1690年にアッカデーミア・アル・アルカディア(Accademia all'Arcadia)の設立がある。17世紀に支配的だったマリニズムに対抗するものであり、ローマにおけるスウェーデン女王クリスティーナのサロンを継承発展するものだった。これが一種の文学の共和国と称されるようになり、さらには文学者のみならず、哲学者、科学者そして作曲家もメンバーに加わるようになり、コレッリやパスクィーニやA.スカルラッティが加わった。もちろんベネデット・パンフィーリもメンバーだった。

3曲目はアレッサンドロ・ストラデッラ(1639−1682)のSinfonia  McC22. 

4曲目がチェザリーニの Cantata , La Gelosia ('Filli, no'l niego, io dissi')

ここで休憩が入った

5曲目 チェザリーニの Cantata, L'Arianna ('Gia, gl'augelli canori')

6曲目 コレッリの Sonata da camera a tre ニ長調 op.4の4。

最後、7曲目 チェザリーニの Cantata Oh dell’Adria reina.

アンコールにはヘンデルのカンタータが歌われたが、比較をすると、ヘンデルの方が派手にアジリタを駆使して同一音を連続して歌わせる部分があって、演奏効果は高いのであった。チェザリーニによって逆にヘンデルの特長が浮かび上がった瞬間でもあった。

また、歌手ヴァルネリンの才能の違った一面を垣間見せてくれた瞬間でもあった。

 

 

 

 

 

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コンサート《Aus der Zeit》その2

《Aus der Zeit》その1の翌日に、演奏団体は同じだが別の演目のミニ・コンサートを聴いた。

今度は場所がLandhauskapelle というバロックの礼拝堂。Landhaus というと別荘という意味だが、

オーストリアがナチスに併合されていた時期に、この建物が拡充され、政府の出先機関が入っていたようである。

この礼拝堂は先日のイエズス会の教会よりはずっと小ぶりで、信者の座る席が6列しかないのだが、当日の聴衆は

13名ほどだったのでまったく密ではない。

この日も少し早めに行くと、練習を聴くことが出来た。入り口の真上、つまり祭壇と反対側の上方にパイプオルガンがある。先日の音楽監督だったMarian Polinがオルガンを弾きながら、仲間と演奏の細部について練習しながら話し合っている。

この日は歌手はおらず、バロック・ヴァイオリンのMarco Kerschbaumer, テオルボのAlessandro Baldessarini, ヴィオローネ(チェロ)のJoachim Pedarnigが共演者。

曲目構成は、プログラムによると、インスブルックの宮廷ヴァイオリニストだったパンドルフィ・メアッリ、宮廷音楽監督だったヴィヴィアーニ、ヴィーンのヴァイオリニスト、作曲家のシュメルツァーの名人芸的技巧を要するヴァイオリン曲(ハプスブルクのお家芸だったという)の間にフローベルガーの鍵盤楽器曲をはさんだもの。

最初が Giovanni Antonio Pandolfi Mealli (1624-1687)のSonata seconda 'La Cesta' (インスブルック、1660)

次はフローベルガーでJohonn Jacob Froberger (1616-1667) Toccata II FbWV102

Giovanni Buonaventura Viviani (1638-1692) Introduttione prima 

Johann Jacob Froberger,  Capriccio III FbWV503

最後が

Johann Heinrich Schmelzer (1623-1680)

Sonata VI (1664) 

である。

この礼拝堂は、礼拝堂としては小ぶりだが、オルガンがあり、天井はカマボコ型で、音が天井から降り注ぎ、かつ全体を包みこむ。こういう音は2チャンネルのステレオでは絶対に再現できないと思いつつ、音の渦に浸る。同じ古楽でもホールでの音と教会の音では、残響の長短がまったく違うし、大きい目の教会と小さい礼拝堂でもまた音によるつつまれ感は異なる。こういう環境で、祭壇にはバロックの後光のさした神や天使、そのややしたには大司教らしき人物が錫杖を持っている。そこで上から振ってくる音楽に包まれると、天上の音楽という感じがする。

以前に書いたが、東屋などではチェンバロ、チェロ、リコーダーに対し、ヴァイオリンの輝かしい音色は抜きん出たものがある(もちろん、それぞれの楽器に異なる音色の味わいがあることは言うまでもないが)が、オルガンが出てくると、ヴァイオリンとは比較にならない存在感がある。オルガンの低音は、周知のことではあるが、チェロともテオルボとも比較にならない迫力で単に音量が大きいのでなく、耳ではなく、体感する低音で、小さい礼拝堂などでは、びんびんと身体に響いてくるのだった。ロックなどのPCで電気的に増幅された音とは本質的に異なる。生音で空気感の低音。長らく教会での演奏で声楽とオルガンが特権的な地位にあったのもむべなるかな。

宗教絵画では in situ (元の場所)でないと、観る人と絵画の位置関係や、光のあたり具合など十全に作品を評価できないわけだが、初期バロックの多くの曲も、それがもともと演奏された環境(教会か宮殿か)に近いところで演奏されてこそ、本来の十全な魅力を発揮するのだと思った。

さらにミニ・コンサートではあるが、大変意欲的なプログラムであることはお分かりいただけよう。こういった初期バロックのものになると、古典派以降のコンサートとは聞き手の態度が変わってくるのを感じる。つまり、初期バロックは、作曲家も曲目も手垢にまみれておらず、こちらとしては Mealli の曲を聴く、Viviani の曲を聴くという態度であり、モーツァルトやベートーヴェンのように、過去の数々の演奏と眼前の演奏を比較してしまうということが生じない(生じにくい)。こういう態度に自然になっていくのも、インスブルック音楽祭の効用の一つかもしれない。

 

 

 

 

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コンサート《Aus der Zeit》その1

またまた無料のお昼のコンサート。《Aus der Zeit》(時の中から、ということか。

これはオーガナイズの仕方としては、なかなか複雑で、La florida Capella という古楽の団体{2020年に設立されたオーストリア、イタリア系の団体)が、1日3回または4回ミニコンサートを開いているのだが、その3回、4回それぞれ場所が異なる。いずれも教会・礼拝堂ではあるのだが。

最初に聞いたのは Jesuitenkirche (イエズス会の教会ですね)でのもの。

カウンター・テナーのフェデリコ・フィオーリオの歌が中心だったが、プログラムにはソプラノと書いてある。調べてみるとフェイスブックなどでは彼自身は自らをソプラニスタと規定している。ソプラニスタとカウンター・テナーはどこで線引きがなされるのだろうか。同じプログラムを二回目は大聖堂(Dom zu St.Jakob)で聴くことが出来たので、本人に直接尋ねてみた。彼によると、ほとんどのカウンターテナーはアルトの音域で歌っており自分はソプラノの音域で歌っているからソプラニスタなのだ、ということで、音域の違いをあげていた。

伴奏者はテオルボのアレッサンドロ・バルデッサリーニとヴィオローネ(チェロの古い形)のヨアヒム・ペダルニッヒ、音楽監督のマリアン・ポリン。4人のメンバーで音楽監督と思われるかもしれないが、たまたま演奏会の始まる少し前について練習風景を見ることが出来た。マリアン・ポリンは、練習の際には、ここはリズムはこう、といって歌やヴィオローネに指示を与えていた。

曲目は

Francesco Cavalli (1602-1676) のモテット O quam suavis es et decora

その後が器楽曲でGiovanni Girolamo Kapsberger (1580-1651) のToccata seconda (Intavolatura di Chitarrone の第一巻、ヴェネツィア、1604)

再び声楽曲で Barbara Strozzi (1619-1677)Parasti in dulcedine. Al Sacramento ('Sacri musicali affetti' 1655 から)

この曲は、カヴァッリの曲(素直に美しい)と較べると、半音階に満ちて、不安や苦悩の表情がうかがえる劇的なものであった。この曲集はバルバラ・ストロッツィがアンナ・デ・メディチというメディチ家からインスブルックのフェルディナンド・カール大公に嫁いだ女性に献呈したもの。インスブルックとの縁が深い。中間部になると、喜ばしい曲想に転じる。曲想の振れ幅が大きいし、リズムの動きもドラマティックである。

次がまたKapsberger の器楽曲でCiacona.  (こちらはIntavolatura di Chitarrone の第四巻)

終わりが Maurizio Cazzati (1616-1678)の Ad tuba, ad cantus .{ボローニャ、1666)。モテットである。これは非常に、弾む楽しげな曲で、テンポも早く、伴奏も弾んでいた。当たり前だが、17世紀の曲でも、聞き慣れてくると随分バラエティーに富んでいると感じる。

こういう教会で聞くと例によって残響が長く、休止符の長さをどれくらいとるかは、残響が収まるまでの時間に左右されるだろうと思った。

つまり、テンポ設定も、単に曲想によるだけでなく、音が次々にかぶるのを防ぐためには、休符やテンポの設定が重要になってくる。この日の演奏でFederico Fiorioはそのあたりが実に見事で、綺麗に透明感のある声を響かせていた。カヴァッリとストロッツィの歌いわけも説得力のあるもの。

30分ほどではあるが、贅沢なひとときである。彼らの団体設立趣旨のなかに、イタリアからハプスブルク領にかけての初期バロック音楽は、まだまだ発掘されていないものがあり、その多様性を全体として把握しきれないという認識があるが、まったくその通りだと思う。

バロック音楽の研究、演奏は次々に新しい地平が切り開かれている。彼らもその一翼を担いたい、ということだ。

フェデリコ・フィオーリオのバロック・オペラでの姿、活躍も観てみたいものだと思う。

 

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2021年8月28日 (土)

テレマン作曲《音楽牧歌劇》その4

当公演のプログラムには、解説のほかに、指揮者ドロテー・オベルリンガーと演出家ニルス・ニーマンの対談が掲載されている。インスブルック音楽祭のプログラムは、判型は新書が横広になった程度で、値段も3ユーロ程度であるが、中身はとても充実している(ちなみに昼のコンサートなどの1枚のペラのプログラムは無料で配布している)。作品解説、解釈、そして演奏家は白黒ながら写真がついて簡単な略歴が紹介されている。

思えば、レパートリー作品の上演の場合、新しいことを言う、書くのはそう簡単ではないだろう。インスブルックのように、蘇演やそれに近い手垢にまみれていない作品の上演の場合、あらすじを初めとして観客に伝えるべきことは山ほどあるわけだ。とは言え、その山ほどある情報を通り一辺なレベルでなく、本格的な関心を持つ人にも有益な情報が詰まっている場合が多い。

さて、オベルリンガーとニーマンの対話であるが、多少、解説と内容はかぶっているがご了承を願いたい。オベルリンガー:テレマンがこのオペラをフランクフルトの市民のために書いたことはわかっているが、どういう人だったか具体的には判っていない。当時のQuantz という人が、テレマンは各国のスタイルをマスターした人だと言っている。フランス風もイタリア風もマスターしている。フランスオペラから眠りの場面(これはリュリのアティスというオペラが初めだったとのこと)を取り入れ、さらには民衆的要素もある。ニーマン:究極のところ、牧歌劇は羊とはあまり関係がなくて、アルカディアという理想郷の話。働かなくてよくて、愛に没頭できる。羊飼いだというのは、自由であることを表現していて、いろいろな拘束から自由である。オベルリンガー:スコアは非常に計画的に書かれていて、多様な楽器を用いている。ホルン、トランペット、オーボエ、リコーダー、弦楽器。通奏低音もファゴット、チェロ、コントラバス、ティンパニーその他の打楽器。これだけ揃えるのにはお金がかかっただろうから、注文主はお金持ちだったろう。レチタティーボも非常に綿密に書かれている。テレマンは良い声のバリトンだったので、こういうセミ・プライヴェートな演奏、注文を受けて注文主をよく知っている場合、自らダモンを歌った可能性もある。この時代にはそういうことは珍しいことではなかった。同時代のマッテゾンは、言葉と音とジェスチャーが完全なハーモニーをなしていなければならないと言っている。

演奏について

オケはオベルリンガーが2002年にケルンで設立したアンサンブル1700.演奏水準は高い。

カリストは Lydia Teuscher. イリスはMarie Lys でバロックものには彼女の方が一日の長があったが、二人とも、若手オペラの歌手と較べると

一皮も二皮もむけ、歌も演技もしっかりしている。二人とも、一番肝心の、心が変わる場面の演技、歌が出色で、そういうところでのオケの合わせ方も実にはまっていて、完成度が高かった。ダモンはFlorian Gotz. アミンタはAlois Muhlbacher. 彼はカウンターテナーであるが、ところどころアジリタの部分でテンポが遅れてしまいがちなところがあった。クニルフィクスのVirgil Hartinger ははまり役で、演技といい、声の表情といい、コミカルな味を完璧に表現していた。

テレマンの残存する最初のオペラがこれだという。心から楽しめるオペラであるし、音楽的にも充実し聞きがい、観がいのあるオペラであった。他のオペラもぜひ聴いてみたいものだ。

 

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2021年8月27日 (金)

テレマン《音楽牧歌劇》その3

テレマンの《音楽牧歌劇》が現代に伝わったのは幸運の積み重ねだった。

プログラム(Babette Hesse)によると、テレマンの最初の劇音楽である当作品は、残存した唯一のスコアは、いろいろの事情でキエフのある所にしまわれていた。冷戦終了後、2002年にベルリンに戻ってきた。というわけでこの作品は、ウクライナのKirill Karabits とドイツの音楽学者 Peter Huth によって二度再発見された。現代では2004年にベルリンのコミーシュ・オーパーで蘇演された。2005年にCDも出ているとのこと(うかつにも筆者は知らなかった)。批評校訂版が2014年に出版された。作曲当時、テレマンはフランス音楽に通じた人と評価されていた。Pastorelle という形式自体は、モリエールとリュリの作品 Divertissement Royal をモデルにしたのかもしれないと考えられている。これはルイ14世が自ら踊った最後の作品だという。テレマンは創意工夫をそこに加えているが、詞の一部分は直接取っているのだという。

また Chirstin Wollmann が明らかにしたところでは、ダモンの他のアリアは、1713年にパリで出版された曲集がソースであり、テレマンは聴衆を最新流行のパリの曲を用いて喜ばせたのだろう。

ここからは筆者の感想だが、この曲の序曲はオペラの規模からすると華やかかつ壮大だ。曲想もスピリトーゾ、アダージョ、アレグロ、アダージョ、プレスト、アダージョ、ヴィヴァーチェと何度も変化する。テンポの速いところでは、トランペット、ホルンが派手にパンパカ吹き鳴らされる。祝祭にふさわしい序曲(Concerto) である。

テレマンの最初の妻はお産で亡くなってしまったのだが、テレマンはフランクフルトで1714年に再婚している(テレマン33歳、妻16歳)。1721年までには6人の子をなした(が、彼女は賭博癖などいろいろの問題を抱えてりやがて離縁する)。

ここからまた筆者の感想となるが、この曲のなかで、イリスとカリストは、自由こそ大事、恋愛なんて、というところから、愛の素晴らしさに目覚めるというか屈するというか、そこへと大きく態度が変化するわけで、その変化の過程には迷いや戸惑いがある。最初はイリスが愛するべきかしら、と言って悩むのであるが、この場面のテレマンの筆は冴えていて、実に聞き応えがある。また、次にカリストがためらう場面も同様に、入念に描かれている。フランス風な序曲で付点を多様したリズムと金管楽器の派手な仕様で花火を打ち上げるかと思えば、揺れ動く女性の微妙な心の動きを描き出すことも巧みなわけで、他のオペラもぜひ観てみたい、聴いてみたいと思った。ダモンの場合には、前述のように、苦悩はチェロの動きに任せて、旋律的にはそれほど深く感情移入をさそうものにはなっていない(あるいは、意図的にそうしていない)。

女性の心理を描く際、見事であるのだが、やり過ぎることはなく、心理的精神的にバランス感覚のすぐれた作曲家なのかとも思う。古典派で言えば、モーツァルトやベートーベンよりもハイドンに近い気質、テンペラメントなのかもしれないと思った。

 

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2021年8月26日 (木)

テレマン《音楽牧歌劇》その2

テレマンという人について振り返ってみよう(テレマンに詳しい人は周知のことばかりかと思います)。

彼の特徴の1つは長生きだったこと。1681年に生まれ、1767年に亡くなっている。86歳だから当時としては長命で、晩年はハイドンの青年期に相当するし, 1767年にはモーツァルトも11歳になっているわけだ。その辺が1750年に亡くなったバッハと異なるところだ。だからこそ、伝統的に1750年をもって一つの時代区分とする見方があったわけで、テレマンは次の時代まで生き延びた人とも言える。もっとも最近は、1720年代、30年代には新しい音楽様式の萌芽があるとされるし、レオナルド・ヴィンチのオペラなどを聴くとたしかに、後期バロックから移行してよりホモフォニックな傾向が現れている。

さらにまた、彼はギネスものの多作家で3600以上の作品が知られ、消失作品も含めると4000以上の作品を書いたという。受難曲一つとってもいくつも受難曲を書いているのですね。これは彼が40代以降ハンブルク(マッテゾンがいた町です)の音楽監督になって、ハンブルクのためだけでも40以上の受難曲を書き、22曲が現存しているという。

オペラに関しては、1738年にハンブルクの歌劇場が閉鎖されている(再建は1827年)ので、その後は制作の機会が激減したと思われるが、それでも50作のオペラを作ったという。しかし残念ながら、日本で、いやヨーロッパでもテレマンのオペラが上演されるというのをほとんど聴いたことがないし、DVDやCDでも観たことがない。

この作品の制作年代もプログラムには ca.1713-1716 と書かれており、やや漠然としている。テレマンは30代に4年間フランクフルトに赴任しており、その時に町の有力者とも知り合いになって、結婚式の祝祭のための《音楽牧歌劇》を委嘱されたのだ、ということだろう。現存しているなかでは、テレマン最初のオペラということになっている。ただしプログラムによるとテレマンがフランクフルトのために仕事をしていたのは1712−1721年だという。必ずしも在住していない状況でポジションを持っているということはある。実際、テレマンはハンブルクに移ってからも、バイロイトやアイゼナハの礼拝堂のポジションを持ち続けていた。

ここでも歴史的な背景が意味を持ってくるようだ。この作品でフランス語のアリアが出てくるわけだが、フランクフルトはフランスからユグノー(カルヴァン派、つまりプロテスタント)が逃げてきたところで、ユグノーはこの地で貿易や金融業を盛んにし、フランクフルトの経済的繁栄をもたらした。プログラムの著者Babette Hesse  によれば、フランス語とドイツ語の混成という珍しい形式は、フランス系のユグノーと、ドイツ系の人間が結婚したがゆえに生まれたのではないかとのこと。いずれにしてもこの当時のフランクフルトは3万人の住人で、コスモポリタンで自由な雰囲気を持っていたのだ。 

 

 

 

 

 

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テレマン作曲《音楽牧歌劇》その1

テレマン作曲の《Pastorelle en musique(音楽牧歌劇)》を観た(インスブルック、Haus der Musik, Grosser Saal).

音楽牧歌劇というと判りにくいが、要するに、短めのオペラである。そして登場人物がカリストとかアミンタとか牧歌(劇)によく出てくる人物なのだ。だから、オペラなのだが、素材は、寓意的な牧歌(劇)ということである。

別にはセレナータとも言われており、一夜の余興として企画されたのかもしれない。と思ってプログラムを読んでみると、これは実はフランクフルトでブルジョワのカップルが結婚する際に委嘱された作品であることがわかった。

あらすじは後に詳しく記すとして、大雑把に言えば、二組の男女の羊飼いと、間抜けなブッフォ役(バスではなくて、テノールですが)が1人、あとはその他大勢の羊飼いが登場人物。二組の男女のうち、女性2人は自由が大事!というモットーをかかげ、恋愛には見向きもしない、はずだったのだが、やがてイリスが恋愛に目覚め、最後にはカリストも恋愛に目覚め、二組はめでたく結ばれる、というお話。

結婚式を祝すための音楽劇である。

もう少し詳しくあらすじを紹介しよう。

羊飼いたちの谷に春がやってきた。羊飼いの一人ダモンは、ミュゼット(フランス式バグパイプ)という楽器にあわせて恋愛の素晴らしさを歌い上げる。他の羊飼いも愛を求めている。ダモンとアミンタ、クニルフィクスはお嫁さんさがしに出かける。

女羊飼いのカリストとイリスは恋愛より自由が何より大事、と考える。彼女らは大真面目である。自由がモットーという歌は長くて、他の女羊飼いたちも合唱で加わる。というわけで、ダモンがカリストに求愛するが、結果は望み薄。ダモンがフランス語のアリアを歌っても、カリストの心はとけない。(この後もダモンは何度かフランス語のアリア(air)を歌う。基本的にはドイツ語で、ところどころフランス語のアリアがはいるという形である。この点でマッテゾンのオペラ《ボリス・ゴドノフ》で基本はドイツ語、アリアのいくつかがイタリア語というのと似ている)

アミンタの求愛の顛末のほうがまだましだった。イリスに求愛して、平手打ちをくうのだが、やがてイリスの気持ちが愛情に変わっていく。アミンタはあえてそこから先には進まず、イリスは逆に混乱した気持ちを抱える。

そこへお調子者のクニルフィクスが登場し、恋愛って本当に宴会よりいいのかなあ?などと言って、女羊飼いをうかがうが、彼に好意を寄せる女羊飼いは見当たらない。クニルフィクスは、選り好みしていないで、ぱっと決めなよ、などと忠告?をはなつ。踊りのマスターが、手をかそうとするが(この場面、当日は、ヴァイオリン奏者の一人が演奏しながら踊るという見事な演技・演奏を披露した)、クニルフィクスは踊っても相手の足を踏んづけるありさま。

ダモンは絶望している。クニルフィクスが求愛の進み具合を尋ねるが、まともな返事はない。結婚は慎重にせねばとクニルフィクスは考える。

アミンタが戻ってくる。彼は自分の振る舞いに確信を持っている。一方、デーモンは悲しみに沈み、死にたいという(このあたりの音楽は、あまり悲しみに沈んだものではないのだが、これはテレマンの気質によるものとも言えるだろうし、結婚式という祝祭の性質を考えてあまりしんみりした音楽はふさわしくない、という配慮もあるだろう)。アミンタは、デーモンに自分を律することをすすめる。

その間、カリストは不思議な心の内の動揺を感じる。心が勝手にある方向に動き出したと感じるのだ。心の葛藤に疲れ、解決したいと思いつつ眠ってしまう。眠っている間にクーピド(愛の神キューピッド)が出てきて、笛を吹く。ダモンがはいってきてそこにカリストを見つける。最初はやさしげな子守歌を歌うが、カリストの眠りを破りかねない小鳥たちを追い払う。カリストは目覚め、ダモンがそばにいるのに気づくが、愛を得ることが絶望的なので死にたいという。

イリスとアミンタがやってきて、イリスはカリストに忠告し、自分はアミンタの求愛に応じ、とても幸せであると告げる。カリストはしばらくためらっているが、やがて同意する。ダモンの一途さに打たれたからだ。羊飼いたちが新しいカップルを祝福する歌を歌い、ダモンとカリストは二重唱を歌う。クニルフィクスのみが、一人のほうがいいやと言いつつ、最後の大団円のコーラスに加わる。めでたし、めでたし、である。

他愛もない話と言ってしまえばそれまでだが、そもそも結婚という祝祭の出し物(オペラは周知のように誕生の当初から、宮廷で演じられる際にはそういう祝祭の出し物であることが多かった)である。また、牧歌や牧歌劇にはヨーロッパには長い伝統がある。たとえば1690年に設立された最も有名なアカデミアである、Accademia dell'Arcadia は、古代ギリシアのアルカディアを理想郷として、その羊飼いたちの簡素で美しい歌に立ち返ることを理念として含んでいる。

 

 

 

 

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2021年8月24日 (火)

ヨハン・マッテゾン《ボリス・ゴドノフ》その5

《ボリス・ゴドノフ》のあらすじ。

第一幕 (注意すべきは皇帝が登場するが、それはボリスではなく、ボリスの前の皇帝であること。つまり、皇帝という場合、ボリスではなくテオドルス・イヴァノヴィッチを指している)

クレムリン宮殿の一室。皇帝テオドルス・イヴァノヴィッチの妻イリーナは帝国の団結を説き、ボリス・ゴドノフ(イリーナの兄)がモスクワ総督に任命される。大貴族のフェドロは、イリーナに愛を告白し、イリーナはそれを拒絶もしないが注意して振る舞うようにとさとす。ボリスが現れ、自分の望みを語る。外国のプリンス、ガヴストとともに、皇帝がイリーナを離別しようとする計画を邪魔しようというのだ。さらに最近やってきた外国のプリンス、ヨゼナーが何を企んでいるのかを探ろうと考えている。突然、皇帝の重病が伝えられる。人々は退室し、ガヴストだけが残る。ボリスの召使いボグダはこの間ずっと眠っていたが、突然目覚める。皇帝の病気という騒ぎで目が覚めたという。ガヴストは、ボリスの娘アクシニアに恋をしている。

プリンセス・オルガとヨゼナーが入場。オルガ(今回の演出では皇帝の看護師として車椅子を押している)とガヴストは愛の性質について歌う。一方ヨゼナーは恋愛問題からどんな利益が引き出せるかを強調する。ボリスの娘アクシニアが入ってきて、ヨゼナーは皇帝の突然の病への懸念を語る。二人は語り合い、ヨゼナーは仕事があるといって退場する。ガヴストは、ボリスの命を受けて、ヨゼナーのモスクワでの行動の真意を探るがうまくいかない。

ガヴストは、ボリスとフェドロに合う。二人は皇帝の健康問題について相談している。知らせをうけ、みな瀕死の皇帝のもとへ集まる。皇帝の死後、フェドロは、イリーナへの愛がやっと叶うかもと期待する。

 

第二幕

皇帝テオドロスの死後、イリーナ、ボリス、フェドロとガヴストは集まり、危機的状態を4声のカノンで歌う。ボリスは、混乱を避けるために、テオドロスが死ぬまえに王冠と王笏(皇帝のシンボル)を手に入れておいたと告げる。彼は宮廷生活に疲れたので、修道院にはいって平安を得たいと述べる。フェドロが驚くことに、イリーナ(皇帝の未亡人でボリスの妹)も兄と行動を共にしたいという。ボリスとイリーナは去り、みな退室する。

一人になって、ヨゼナーはアクシニア(ボリスの娘)と結婚し、義父の助けを得て皇帝になるという野心を吐露する。それどころか、彼はすでにオルガとその趣旨で協約を交わしていたのだ。ガヴストは、ヨゼナーとオルガの話を立ち聞きし、アクシニアにそれを伝え、復讐を誓う。

(筆者のコメント)

ここまで書いてくると明らかだが、皇位継承をめぐる政治的駆け引き、陰謀、それへの対抗といったものが恋愛と絡めてある話だ。前の項目で書いたようにたとえばガヴスト(Gavust)はグスタフ(Gustav)のアナグラムになっていて、これはスウェーデンだな、ということが判る仕組みになっている。前皇帝からボリス・ゴドノフへの皇位継承であると同時に、1710年当時の大北方戦争への言及、プロパガンダを含んだものである、ということが十分うかがわれるプロット、ストーリーと言えよう

(コメント終わり)

ボリスと妹イリーナは、修道院に暮らしているが、そこへ貧しい子供たちや老人がやってきて、ボリスに皇帝になってほしいと嘆願にくる。フェドロも口を開き、イリーナに、国中の人々があなたに再び会いたいと考えていると告げる。そこへガヴストからのメッセージが届き、正式にボリスに皇帝即位の願いが届く。ボリスは国のために自分を犠牲にすることを受け入れる。一同喜ぶ。

第三幕

舞台は再びモスクワ。オルガとヨゼナーは自分たちの敗北を悟る。ガヴストとフェドロは二人を捕らえ、ヨゼナーの政治的策謀を白状させる。罰としてヨゼナーは追放される。オルガとアクシニアは驚くが、やがてほっとする。ガヴストは、アクシニアとの間の障害がなくなったことを喜ぶ。フェドロは相変わらずイリーナの愛を求める。ボリスは《王冠と愛》をめぐる騒ぎに憮然としている。新しい皇帝(ボリス)が戴冠し、ヨゼナーはボリスによって赦され、オルガとも和解する。ガヴストは、愛するアクシニアと結ばれ、イリーナは恋人たちの命令に従うーフェドロは常に彼女を待っている。

(あらすじ、終わり)

(以下筆者コメント)

上記のあらすじは、プログラムに記されたものを大雑把にまた、人物関係などは説明を補いつつ訳したものだが、実際の舞台だとこの通りの筋書きをたどるのはむずかしい。第三幕では、ある人物が射殺され、アクシニアさえピストルを向けられ、殺されたかと思うと、空に向けての発砲だったことが判る、と言ったリブレットにはない仕掛けがところどころにあるからだ。

演出家 Jean Renshaw の解説を読むと、台本を読んで途方に暮れ、しばらく苦しみ抜いたという記述がある。それを料理するのは至難の業だったというわけだ。

実際、この台本には登場人物が多く、恋愛と政治的策謀が絡んでいるわけだが、1710年当時のハンブルクの観客は、自分たちの眼前に繰り広げられる列強の争いが、自分たちの命運を左右する切実な問題であったからこそ、間接的な形でも、あれとあれがくっついて、これと戦う可能性があるな、とか想像を巡らせることが出来たのだろう。言い換えれば、リブレットを書いたマッテゾンはそういう観衆を想定することが出来たのだろう。リブレットの元原稿には、マッテゾン自身がリブレットも作曲も自分が書いたと銘記してあるそうだ。マッテゾンの他の作品ではリブレットを誰が書いていたのかを確認しなければ確かなことは言えないが、この作品に関しては、1710年の政治状況が絡んでいるのだとすれば、イギリス大使の秘書をつとめ、ロシア大使が赴任挨拶にイギリス大使のところにやってきた際にも同席したマッテゾンは、この国際情勢にどんなリブレッティスタよりも自分は通じている、という自負があったとしても不思議はないだろう。それだけに、1710年のイングランドの総選挙で、すべての前提が崩れ、オペラ上演が水疱に帰したわけで、それがその後、上演されることがなかったのも理解はできる。

バロック・オペラを読み解く、味わうには、いかに多角的な視座が必要かを実感する貴重な経験であった。楽譜だけ、台本(リブレット)だけ、演出だけ、では全然足りないし、3つ併せても足りないことを思い知った。一つ一つの要素を取り上げて、精密に分析・考察し、他作品と比較したりすることも一つのプロセスであることは言うまでもないのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ランチコンサート

今日もランチコンサートがあった。演奏団体はアンサンブル・カメオといい、先日のものとは違う。曲目も違う。これまた無料である。

というわけで、インスブルック音楽祭の間に、時間の融通さえつけば、無料で聴けるコンサートは随分あるし、その曲目も幅広い。

庭園の東屋という場所は同じで、20分ほど前にいくと20人ほど並んでいた。

アンサンブルのメンバーは実は先日のMokka Barock とチェンバロとチェロが重なっているのでどういうことか調べてみると、チェリストは実際両方の団体に所属(かけもち)しているのだった。今日弾いたチェンバリストは本来アンサンブルカメオのメンバーで先日のMokka Barockでは代理で出演したのだと思う。Mokka Barockのサイトではチェンバリストは日本人と思われる方が掲載されているのでコロナ禍の影響があったのかもしれない。ザルツブルクを根拠地として活動しているとのこと。

今日のメンバーは4人。ブロックフレーテ(縦笛)のBalint Kovacs, ヴァイオリンのJuan Manuel Araque-Rueda, チェロのCecilia Clo',  チェンバロのAgata Meissner.

ヴァイオリンのJuan  Manuel Araque -Rueda は抜群にうまかった。上手さの要素を考えてみると彼の演奏スタイルが完全にバロック様式を活かしきっていることに思いいたった。最近では珍しいことではないが、椅子に座らず演奏している。これはフレーズの途中でもぱっと強弱を変えたり、音の表情を変えたりする時にやはり膝の屈伸もふくめ全身を使って急激な変化を弓使いに与えているのだとわかった。19世紀以降の音楽では、楽器の音(ヴァイオリンにせよ、ピアノにせよ)均質な音を求めていく傾向が大きい。ヴァイオリンで言えばアップボウかダウンボウかわからない方が良いし、ピアノもどの指ででも同じように弾けるように練習し、均質な音で音階を駆け上がったり駆け下りたりする練習をするわけだ。バロック楽器は、弦楽器にせよ、管楽器にせよ、均質な音は出ない。ダウンボウとアップボウが違うだけでなく、弓使いの途中で音が変化してしまうし、管楽器も息づかいがまったくはっきり伝わる。均質でない音の細かいニュアンスをむしろ楽しむ、味わうことが前提で音楽が出来ているといってよいだろう。だから、今日のように4人の合奏で、それぞれの奏者のニュアンスの幅が大きく、そのニュアンスが常に変化していくので、たとえば最初の演目 テレマン(1681−1767)の四重奏 TWV 43/e4 では、近距離で聴いているせいもあって(東屋は椅子にすわっているのは60名程度で20人弱の立ち見がいたかと)細かいニュアンス、強弱の素早い変化、音色やアタック音の柔らかさ、激しさが、非常によく伝わり、和声的な豊かさだけでなく、音楽的色彩の豊かさに圧倒されるのだった。

次はジャック・デュフリ(1715−1789)のチェンバロ曲2曲で、La Forqueray と Medee'. 前者は物憂げな感じで、後者は決然とした感じがあったが、彼の生きた時代は微妙な時期で、フランス革命勃発の翌日に亡くなっている。しかし音楽はむしろバロック的な表情を感じた。

次がマラン・マレ(1656−1728)の組曲第二番ト短調。おしまいがマルコ・ウッチェッリーニ(1603−1680)の Aria sopra La Bergamasca という曲だったが、ブロックフレーテが軽快に駆け回る楽しい曲だった。

先日も同じことを書いたが、今日もこの本格的なコンサートが無料で市民に開放されていることに感銘を受けた。

 

 

 

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2021年8月23日 (月)

ヨハン・マッテゾン《ボリス・ゴドノフ》その4

ヨハン・マッテゾンのオペラ《ボリス・ゴドノフ》の音楽的特徴について。

オーケストレーションや登場人物同士が集まっての合唱あるいはカノンがあったり、レチタティーヴォ、アリア、二重唱(結構数が多い)は、18世紀前半の他のオペラと較べて、オーソドックスで二重唱は美しい曲が多い印象を受けた。

マッテゾンと友人・ライバルでもあったヘンデルのオペラと比較するといくつか目立つことがある。

1つは、テンポのゆったりした曲が多く、駆け抜けるような曲はなかった。オケは早いパッセージも時たまあったのだが、アリア自体にはない。また、超絶技巧を要求される曲はなかった。アリアの終わり近くでカデンツァとなり歌手が少しの間自由に歌える部分はしばしばあったのでそういう部分にゆだねていたのかもしれない。

もう1つは、上記のことと関係してくるが、声種の問題だ。前の項目で書いたように、このオペラは登場人物が9人と多い。この多さは、表面的・字義的にはボリス・ゴドノフとその時代のプリンスらを扱いながら、寓意的には作曲当時、1710年の大北方戦争の参加国を表象するという狙いからくるだろう。大北方戦争に参加したプレーヤー(国家・君主)は数多いのである。

なのであるが、前の皇帝、次の皇帝であるボリス・ゴドノフ、ロシアの大貴族フェードロと、3人もバスがいる。ムソルグスキーの時代ならともかく、バロック・オペラの約束事としては、身分の高い人は高い声、場合によってはカストラートのようにソプラノで歌われるか、テノールで歌われることが普通と言ってよいだろう。これはなぜなのか。マッテゾンがロシアの特殊性と思われるものを強調するために、いつもと違う声種を選んだのか。これを判断するためには、マッテゾンのほかのオペラでの声種の配置がどうなっているのかを知りたいものだ。

ハンブルグのこのオペラ劇場は1678年にドイツで初めて公衆劇場(宮廷のではなくて、という意味)として設立された。当時支配的だったイタリア様式に対抗してドイツ風バロックの牙城となったということがウィキペディアなどに記されているが、イタリア様式が何を意味して、それに対抗してどこをどう変えたのかが問題である。おそらくはドイツ語オペラというだけで十分チャレンジングだった時代だろう。実際、このオペラでもアリアになると突然イタリア語になってしまうという曲がいくつもあった。歌手もドイツ語でもイタリア語でも歌うのだからご苦労さまであるが、少なくともイタリア語の発音に関して、歌詞の聴き取りやすさに関しては、タイトルロールのOlivier Gourdy とイリーナ(前の皇帝の未亡人でボリスの妹)のFlore van Meerssche に一日の長があった。オルガ役の Flore van Meerssche などはあと一歩磨きをかければ、というところがイタリア語発音に関しても、歌唱にかんしてもあって、若手中心のオペラ上演なので、ここからの成長を期待したいところだ。

話を声種に戻すと、要するに、カストラート歌手の存在を前提としていない構成である。そしてそれに照応するように超絶技巧を要求する曲がなく、比較的ゆったりしたテンポのアリアが多い。ヘンデルが特殊とも言えるが(イギリスの聴衆はイタリア語を解さないのでレチタティーヴォを切り詰めている)、このオペラでは結構、ドイツ語レチタティーボが長い。かつ、一カ所では、おそらくは演出家により加えられた台詞(そこだけ字幕が出ない)を生の台詞として(レチタティーボ的にではなく)言わせていた。カウンターテナーの技巧的な曲、その超絶技巧の中から浮かびあがる激しい感情の表出に慣れてしまうと、テンポの早い曲、超絶技巧の曲がないのは、正直なところ、少し物足りない感じもある。

しかし逆に言えば、この曲の上演には、傑出した歌手が複数名必要というような条件はつかず、上演しやすい曲とも言えよう。この時代のことであるから、マッテゾンはどの役をどの歌手が歌うかをほぼ想定した上で当て書きしているであろう。マッテゾン自身が歌手として自分のオペラもヘンデルのオペラにもでているのだから、個々の歌手の音域やどういう技巧が得意か不得意かもわかっていたろう。その上で、ソロの超絶技巧は断念し、むしろテンポがゆったりとしながらも美しい二重唱を魅力的に響かせる選択をしたのかもしれない。以上のことは当時のハンブルクの劇場の歌手の状況、マッテゾンの他のオペラの書き方などを参照しなければ断言はできないわけで、まったくとりあえずの感想として受け止めていただければ幸いです。

しかし、とは言え、マッテゾンの1つのオペラを全曲通して観る・聴く機会などめったにないので、貴重な経験であり、まったくありがたいことと思う。

(追記)

当公演の指揮者マエストロ・マルキオルに質問することが出来た。マッテゾンの楽譜に、オーケストレーション、即ち楽器の割り振りはあったのか、と尋ねると即座になかった、という返事。誰がやったのですか?というと僕です、と誇らしげな返事をいただいた。バロック時代の楽譜ではオーケストレーションまで書かれてないことは、ありがちで(たとえば、通奏低音とのみ書かれていても、それがチェロなのかテオルボなのかチェンバロなのかわからないーというかその時、手配できるものでやれば良いという考えかと思う)むしろ例外的に綿密な楽器指定が書き込まれていると言ってもよいのかと思う。綿密な楽器指定から、ほぼ無しという間のグレーゾーンが何段階もあるのだと考えればよいだろうか。

 

 

 

 

 

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ヨハン・マッテゾン《ボリス・ゴドノフ》その3

なぜ1710年の上演は中止になったか。これまでは作者が作品の質に満足できなかったから、とか上演の状況が整わなかったからなどと言われていたが、政治状況を考える必要もあろう。作品中にロシアの皇帝が二人出てくるわけだが、それに対してロシア大使が介入したのか、という疑問も浮かぶが、否定されている。作品の質も問題ないし、上演時の経済状況にも問題がないし、ロシア皇帝がでてきても当時のロマノフ朝ではないので問題とはならなかった。

このオペラはロシアの前の皇帝が亡くなり、その後いろいろあるが、ボリス・ゴドノフが皇帝になる、という話である。そこに登場人物として外国の王子というのが2人いる(この辺の情報も、前項と同じくインスブルックでのプログラム解説から)。GavustとJosennah だが、これはGustavとJohannes のアナグラムだ。Gustav はスウェーデンの王子であり、Johannes はデンマークの王子だ。これらの王子は、当時ではなく100年ほど前に実在した人物がモデルだという。スウェーデン侯グスタフ(1568−1607)は実際モスクワに妃候補をさがしにいき、ボリスも彼を婿にしたがったというし、もう1人はデンマークのプリンス、ヘルツォーク・ヨハン(ネス)(1580−1602)(この人物の詳細不明)。スウェーデンの王子はプロテスタントの信仰を捨てるのを拒んだので結婚が成立しなかったという(ウィキペディアではこの王子がポーランド滞在中にカトリックに改宗したという記述もあるのでチェックが必要だろう)。デンマークのプリンスはモスクワで死んでしまった。こういった歴史上の人物を暗示的に搭乗人物にいれているわけだ。1709年には新たなロシア大使が赴任し、イギリス大使のところにも挨拶に来て、その場にマッテゾンはいたはずで、当然北方戦争やホルシュタイン・シュレスヴィヒ・ゴットルプの領有・継承をめぐる問題が論じられたであろう。イングランドはこの時点では、これらに関与すつもりだった、その前提でマッテゾンは作品を書いた。

ところが1710年の秋にイングランドで総選挙があった。トーリーは1701年から続いていたスペイン継承戦争からの撤退を主張して選挙に勝った。この選挙の勝利により、イングランドが北方戦争に関与する可能性は現実的でなくなった。それによって、このオペラの上演の意義が失われたわけである。

こうしたオペラと政治動向の相互連関を考察する研究方法は、日本でヘンデル研究において三ヶ尻正氏が早くから主張しているものと共通すると思う。

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2021年8月22日 (日)

ヨハン・マッテゾン《ボリス・ゴドノフ》その2

ヨハン・マッテゾンについて。この人はハンブルクに1681年ハンブルク生まれ、1764年ハンブルク没で、ヘンデルの友人だった人でヘンデルの伝記には必ず出てくる。つまりヘンデルがハンブルクに行って初めてオペラを書くわけだが、マッテゾンの方が少し先輩で、アドバイスを受けたとされている。マッテゾンは徴税請負人の息子として裕福に育ち、幅広い教育と音楽教育を受け、最初は歌手として活躍し、ヘンデルがハンブルクに来た頃も、彼は歌手としても活躍し、作曲家としてオペラも作っていたのだ。ヘンデルと大喧嘩をしたのも自作の《クレオパトラ》というオペラ上演の際で、自分の歌手としての出番が終わったので、そこまでチェンバロを弾いていたヘンデルに替わってもらおうとしたらヘンデルが拒んでチェンバロを弾き続け、大喧嘩となって劇場の外で決闘となりヘンデルの服の金属ボタンがなかったら危うく命を落としていたところだったというエピソードは有名だ。しかし二人はその後和解し、ヘンデルの作品でマッテゾンが歌手として出演してもいるし、イギリスにわたってヘンデルとの文通は生涯続いたという。

マッテゾンにはさらに音楽理論家としての側面もあって、彼のバロック音楽論は研究の対象として重要であると思うが、音楽がいかに人間の情念を表出するものであるか、というところにポイントがあるらしい。彼はその論を展開するときにジョン・ロックの哲学なども引用し、英語に堪能だった。英国との関係でもっと重要なのは、彼がハンブルクにいたイングランド大使のジョン・ウィッチ卿の秘書であったこと。ちなみに妻も英国人であった。そしてこの作品を論じる際に重要なのは、この作品がイギリス大使に献呈されているということだ(この項目の情報は、マッテゾンの生涯に関しては、インターネット上のウィキペディアなどにもとづいており、作品自体の情報については、インスブルックで入手したプログラムの解説(Johannes Pausch執筆)にもとづいている)。煩雑を避けるため、註はつけないのでご了承ください。

このプログラムの解説に教えられたことはとても多い。あるいはマッテゾンや当時の政治状況について自分の無知を思い知らされたというか。しかしよく読むと、これまでの通説もその無知にもとづいていたことがわかる。

いくつかの大きな項目でこの作品を理解するために知るべきことがある。

1つは、1600年代、1700年代の初頭スウェーデンが北の大国であったこと。バルト海はスウェーデンの内海と言われていた。そして領土継承などをめぐり、何度か戦争がある。17世紀には北方戦争と総称されるものが、ロシア、ポーランド、リトアニア、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなどであり、イングランドはスウェーデンにつき、オランダはその反対についた。この時のスウェーデン王カール10世は、オペラの世界とは縁の深いスウェーデン女王クリスティーナが結婚するはずだった人。

そして18世紀初頭には大北方戦争(1700−1721)が起こる。スウェーデン対北方同盟の戦いで、スウェーデンの覇権をめぐる戦争であった。マッテゾンの《ボリス・ゴドノフ》が書かれ、上演中止になったのは1710年でまさにこの大北方戦争の最中である。ヘンデルとの決闘になった《クレオパトラ》は1704年。マッテゾンはイングランド大使の秘書になったこともあり、1706年から1710年にかけて音楽と政治の関係をじっくり学んだ。

 ではなぜ、1710年に上演は中止になったのか。

 つづきはその3で。

 

 

 

 

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google 翻訳のカメラ入力

google 翻訳のカメラ入力について。

google 翻訳自体は、以前から知っていて、日本語訳などは物笑いの種だった。当然予想できることであるが、ヨーロッパ言語の場合、日本語訳よりは英訳のほうが精度が高い。同じインド・ヨーロッパ語族なので、文法構造や文化的背景の共通性があって置き換えやすいのだと思う。

それでも1年半ほど前はドイツ語から英訳でも初歩的なミスがあったのだが、最近のものは精度があがったように思う。

さらに今回知ったのは、カメラ入力である。これまで、ネット上のテクストをコピペしてドイツ語から英語にという形で使っていたのだが、

インスブルック古楽祭のプログラムには英訳部分がない(オペラのあらすじのみが例外)。スマホや iPad でgoogle 翻訳のカメラ入力を起動し、スキャンをかける(画面上の丸く浮かびあがるものを押すだけ)と、1,2秒で英訳ができあがる。非常に便利。くどいようだが、日本語訳より精度が高い。

リブレットのように文学的レトリックを駆使したものはどの程度の能力があるのかはわからない。そもそもドイツ語はその文学的表現をこちらが理解できないから、イタリア語のリブレットで試してみないとたしかなことが言えないが、それはまたあらためて。

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ギター・リサイタル

《美しい無名の曲》と題されたギター・リサイタルを聴いた(インスブルック、アンブラス城のニコラウス礼拝堂)。

小さな礼拝堂で客席は100もなかったかと思う。ギタリストはフランチェスコ・ロマーノで、アンサンブルや個人での演奏活動のほか、フィレンツェのケルビーニ音楽院でリュートやギターを教えており、使用した楽器もケルビーニ音楽院のコレクションで、ルイ・パノルモ製作(1835年)である。ロマンティック・ギターということだ。曲目は、大雑把にいうとオペラや歌曲からの編曲ものがほとんどであった。

最初はモーツァルトの魔笛をFernando Sor (1778-1839)がギター用に編曲したものが6曲。

次はシューベルトの歌曲を Johann Kaspar Mertz (1806-1856) がギター用に編曲したもの2曲。久しぶりにシューベルトのセレナーデを(ギター編曲ではあるが)聞いた。ずっと古楽を聞いていて、モーツァルトを聴くとちょっとほっとする感じもあるのだが、シューベルトまでくると逆に驚きを感じる。表情の付け方が、こんなところまで来てしまったのだなあ、という感覚。

Fernando Sorの Fantaisie op.7 (1824)

パガニーニ(1782−1840)はパイジェッロやズスマイヤ—のアリアからの編曲

最後は Dionisio Aguado (1784-1849) の Le Fandango  op.16 (1835-38).

古楽から初期ロマン派の世界に迷い込むと不思議な感覚につつまれることがわかった。ではあるが、フルオーケストラではなくて、ギター一丁なので過剰さは相当にそぎ落とされている。

 

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ランチコンサート

《コーヒーの道》と題するバロックのコンサートを聴いた(王宮庭園、東屋)。プログラムの解説によると、コーヒーはエチオピアから世界に広まったもので、その道をたどってプログラムを構成しているとのこと。

場所は、王宮庭園(無料で誰でも入れる)の中にパヴィリオン、東屋があって、そこでランチコンサートがあった。午後1時から一時間ほど。このコンサートも無料である。インスブルック古楽祭には、こうした市民が気軽に参加できるコンサートがいくつもある。ぼくもこれで3つ目である。やや遅めに行くと、60席ほどの座席は埋まっていて、まわりは立ち見でそこに加わって聞いた。

プログラムの最初は

Taburi Mustafa Cavus (1700-1770)のFasil で中東風の響きがする。

次は一気にヨーロッパなのだが、プログラムの解説によると、1624年からヴェネツィアによってコーヒーの大量輸入が始まったのだという。

Antonio Vivaldi (1678−1741)のConcerto ト短調、RV103  この曲は比較的有名で実演でも何度か聴いているのだが、一瞬わからなかった。編成が違うからである。当日の演奏者は5人でバロックチェロの Cecilia Clo,  リュート、テオルボ、バロックギターの Elias Conrad Pfetscher, チェンバロのAgata Meissner,  縦笛のFlorian Brandstetter , Tabea Seibert 。縦笛はブロックフレーテと言ってもリコーダーと言ってもよいのだろうが、弦楽器と違って大きさによる名称の違いがない。二人の縦笛奏者は、五本ずつ笛を用意し、曲によって、場合によっては曲の途中で違う笛に持ち替えていた。おおまかに言えば長くて太い笛が低い音がするのであり、短くて細い笛は高い音がする。しかしほとんど同じ長さの笛もあったりして、音色で使いわけているのだろうか。

これはオペラのオーケストラのリコーダー奏者も複数の笛を持ってきていたし、テオルボ奏者も複数のテオルボを持参して持ち替えているのを観た。むろん、バロックのオケでいつもそうであるわけではなく、カールスルーエで観たときにはテオルボ奏者は楽器は一つだけを持ってきていた。

というわけでこのグループはチェンバロ、チェロ、テオルボとリコーダー2人という珍しい構成なのだ。つまりヴァイオリンがいないのである。ヴィヴァルディのこのコンチェルトは主題とヴァイオリンの音色がこの音色でなければ、という具合に即しており、リコーダー二丁の響きは不意をつかれた思いがした。それも曲のあらたな面の発見を促してくれるのかもしれない。

次は Nicolas Bernier (1664-1734) の Le caffe' から Prelude. フランスの作曲家らしいが、僕ははじめてで聞いたことのない曲だった。

つぎは Marin Marais (1656-1728) のヴィオラ曲集第三巻 La saillie du cafe'

Jean-Baptiste Lully (1632-1687) Le bourgeois gentilhomme の Marche pour la Ceremonie des Turcs トルコ人が出てきた。

Johann Caspar Kerll (1627-1693)トリオ・ソナタト短調. ケルルはイタリアでカリッシミに師事したオルガニスト、作曲家である。

Georg Philipp Telemann (1681-1767) Klingende Geographie II Europaishce Turkei:Les Turcs,  Asiatische Turkei:Mezzetin en turc 

Johan Sebastian Bach (1685-1750) トリオソナタト長調 BWV1039 バッハにはコーヒーカンタータがあるが、楽器編成の点でトリオソナタが選ばれたものと思われる。バッハの曲は他の曲と少し様子が違う。より精密で通奏低音の動きが緻密であるがゆえに気楽な聴き方がおのずと出来なくなる。アダージョ・エ・ピアノの部分では短調になって同じ音型が繰り返され内省的になったあとで、プレストで明るく早いパッセージが出てくると喜びが内から湧き上がる感じがして、バッハ独特の良さがある。その一方で次の Tarquino Merula (1595-1665) のCiaccona を聞くと、まったく軽快な曲で、こういう気楽さもいいな、と思うのであった。

よく考えられたプログラムであり、いかにも素人向けという選曲ではまったくないことはお解りいただけるだろう。聴衆も熱心に聞いている。係員も2人いてスマホでの録音、撮影を制止していた。

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2021年8月21日 (土)

ヨハン・マッテゾン《ボリス・ゴドノフ》その1

ヨハン・マッテゾンのオペラ《ボリス・ゴドノフ》を観た(インスブルック、Haus der Musik).

Haus der Musikには2つホールがあって、先日《イダルマ》を観たのは上の大きいホール。この大きいホールにはオーケストラ・ピットはなくて、最前列の客と同じ高さにオケの団員は座っている。

それに対し、この日のホールは地下にあってやや小ぶりなのだが、オーケストラ・ピットは存在している。こちらはヤング・バロック・オペラということで若手中心。指揮者はイタリアのアンドレア・マルキオルというチェンバロ奏者として有名な人らしい。日本でもマスターコース?で教えたというようなことが書いてあった。歌手は、昨年のチェスティ賞(この音楽祭の声楽コンクール)入賞者が中心に配役されている。若手に賞と賞金を渡すだけではなく、こういうプロダクションに参加させるのは、実によく考えられた企画だと思う。

ペーザロのロッシーニ・オペラ・ファスティヴァルの場合は、アカデミーがあってそこの生徒、若手歌手が《ランスへの旅》を上演する決まりになっていて、観客の中にはエージェント関係の人もいて、有望な若手の発掘・発見を期待しているわけで、観客も同様だ。あそこに通っている間は、毎年1度か2度《ランスへの旅》を観ていて、演出も同じだったので、見方、聴き方はおのずとある方向にバイアスのかかったものになるのであった。

インスブルックの場合、ヤング・バロック・オペラは以前はヘンデルのものをやっているのを観たことがある。演目が固定しているということはない。上演演目が変わるのであるから、指揮も演出も変わる。その部分はロッシーニ・オペラ・ファスティヴァルとは異なるが、若手の機会という点は共通しているわけだ。

《ボリス・ゴドノフ》といえばムソルグスキー作曲のものがあまりにも有名で、You tube で検索しても延々とムソルグスキー作曲のものの演奏が出てくる。しかし根気よくあるいは作曲者名をいれるとこのマッテゾンのものも出てくるのだ。当然ながらこちらが先に作曲されたものだ。Peter Petreus によって1615/1620に書かれ作曲された作品をもとに、マッテゾンが作詞作曲を1710年にハンブルクでした。

ところが何の理由か、マッテゾンはこの作品を急に取り下げて上演しなかった。そのまま忘れ去られ、第二次大戦後も消失したものと考えれていた。ところが20世紀の終わりに、楽譜の所在がアルメニアで突き止められた。その結果、約300年遅れで2005年にハンブルクで初演がなされたqのである(このあたり、カヴァッリ作曲のオペラ《エリオガバロ》と似た面がある。)

 演出はイギリスの若手、ジーン・レンショー。ロシアの話ということで、酒瓶のボトルが何度も大量に出てきて、ロシア人でも酔ってへべれけになる様を演じさせていた。また毛皮のコートを着ていて、キャスターのついたハンガー(10着ほどの毛皮のコートがかかっている)が舞台上にあるのも、ロシアといえば毛皮のコートということなのだろうか。

 こちらは《イダルマ》以上に登場人物が多く、あらすじもややこしい。その2以降(その5になりました)で書きます。

 音楽は驚くほど、古典的にバロックな感じで、拍子ぬけするくらい聞きやすい音楽。登場人物による合唱があり、レチタティーボ、アリアがありという具合で、変わっているのは歌詞。ドイツもので他にもそういう例は知っているが、ほとんどの部分がドイツ語で書かれているのだが、退場アリアとか幕切れのアリアになると突如イタリア語の歌詞になるのである。当時の観客はどう受け止めたのかはわからないが、今聞くと不思議な感じである。

 当日は、歌詞がドイツ語の時もイタリア語のときも、一貫して、ドイツ語の字幕が舞台上方に示されていた。ドイツ語能力がごく低い当方としては、まわりが笑っていても何が可笑しいのかわからないのが残念であった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「テインパニーとトランペットとともに」

「ティンパニーとトランペットとともに(Mit Pauken und Trompeten)」と題された小コンサートを聴いた。

これはプログラムの写真をみて黄金の屋根の館のバルコニーに演奏者がいて、観客は広場から仰ぎ見る形で聞くのかと思ったが、コロナの影響があるのかもしれないが(飛沫の飛散という観点から)、奏者は広場におりてきて、広場の一隅に6人並んで演奏した。5人のトランペットと1人のティンパニー(太鼓は2つで二つの音程をたたきわける)。さすがというか、ここでも使われる楽器は見事に古楽器で、ティンパニーも現在よくみるものとは異なるし、トランペットも音程の調整は唇でという古風なもの。トランペット奏者3名が女性、トランペット奏者2名とティンパニーが男性。観客には小さな子供もちらほらいて、トランペット奏者にママ—と声をかけていたり、2歳くらいの子供が音楽に合わせて踊り出したりするのも、こういったオープンなコンサートならではの光景かもしれない。これも市民、観光客に自由に開かれ無料である。

 インスブルックには古くから宮廷の行事や軍楽のためにこういった軍楽隊がありその伝統は19世紀まで続いていたらしい。トランペットや太鼓というのは、オープンなところでも良く通るし、オープンであるから残響がどうのという懸念はまったくない。

 音楽はプログラムによると、

Music by

Girolamo Fantini
Cesare Bendinelli
Bartholomäus Riedl
Johann Baptist Schiedermayr

とあるのだが、どれが誰のものかは、説明なしに次々と演奏されるし、まあ、ここは五月蠅いことは言わず、トランペットと太鼓の音、雰囲気を楽しめばよいのだろう。

 音楽はドソドソが基本でそこにミがはいってきたり、さらになだらかにファミレミなどとなったりするのだが、そういえばモーツァルトの《フィガロの結婚》でケルビーノが兵隊に行くという歌(もう飛ぶまいぞこの蝶々)は、メロディーの最初がソッソミ、ソッソミだったと思い出す(調性の関係で移調した音程になっているかもしれないが、手元に楽譜がない)。軍楽隊の響きをモーツァルトも当然聴いていたはずで、その響きの反映があそこにはあったのだと気がついた。

 

 

 

 

 

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2021年8月20日 (金)

コンサート『兄弟の不和と賢い王』

『兄弟の不和と賢い王』と題されたコンサートを聴いた(インスブルック、ドゥオーモ)。

インスブルックにはマクシミリアン1世の墓所がある宮廷教会とそれとは別に大聖堂としてのドゥオーモがある。教会も天井が高く残響が長いことは宮殿と同じだが、ただし礼拝堂があって床はともかく平らな面がすくない、直方体からずいぶんずれている。天井もドーム状になっていることなどが効を奏しているのか、昨日の宮殿よりは響きの点でましな気がするのだった。また、それはこちらの教会で奏でられた曲が教会での上演を前提として作られていたからということもあるかもしれない。

曲は2つあって、どちらも旧約聖書のなかの話がもとになった台本を舞台なしで劇音楽にしたて、独唱者と合唱とオーケストラから構成されている。シャルパンティエとパスクィーニの曲で、シャルパンティエのものはCDなどの紹介でモテットと紹介されているが、ここではモテットとオラトリオの区別はほぼないと言ってよいだろう。そのせいか、当日のプログラムにはどちらの曲にもモテットともオラトリオとも記述はない。

1曲目が Marc-Antoine Charpentier (1643-1704) 『ソロモンの裁き(Judicium Salomonis)』H.422, パリ、1702

で、ソロモンの裁きは、ヘンデルのオラトリオでも取り上げられているが、二人の女性が(片方の女は自分の子が死んでしまったのでもう片方の女の子供といれかえる)この子は自分の子だ、いや違うと王の前で言い争うが、この子を二つに引き裂いて2つに分けてください、それなら私はあきらめます、というやりとりで、後者を本当の母とソロモンが認めたという裁きの話である。歌詞はラテン語で、ソロモンや神が出てくると荘重でテンポもゆったりとしたレチタティーボだったりするのだが、やがて二人の女(真の母とにせの母)が出てくると、まるで世俗的になってああだ、効だと言い争ってるのがよくわかるテンポの速いほとんど二人の台詞、歌詞が重なり合う掛け合いとなる。そういう意味で世俗的な劇音楽と均しい面白さがあるのだった。歌手は真の母がEmilie Renard (メゾソプラノ)、にせの母が Nile Senatore (カウンターテナー)、ソロモンがFurio Zanasi (バリトン)、神が Luigi de Donato(バス)。オケはオペラ《イダルマ》と同じだが、曲の編成の関係でシャルパンティエの時には木管の人数が増え、パスクィーニの時には木管が退場していた。

2曲目がパスクィーニの『カインとアベル』で聖書にある最初の兄弟殺しである。このテーマは、後にアレッサンドロ・スカルラッティが《最初の殺人》という題で、より長大なオラトリオとして作曲している。指揮はオペラ《イダルマ》の時と同じアレッサンドロ・デ・マルキなので、デ・マルキは今年はパスクィーニに打ち込んでいると言ってよいだろう。いや楽譜の編纂を考えたら、何年にもわたってと言ったほうがよいだろう。

こちらはシャルパンティエにも増して充実した音楽的内容をもっており、実に聴き応えがあった。対位法的な要素もたっぷりある。こちらは歌詞はイタリア語で作者はジョヴァンニ・フィリッポ・アポッローニで、チェスティのオペラの台本などを書いている人だ。

歌手は、語り手(testo)が Furio Zanasi, エヴァ(イブ)が Sophie Rennert (メゾソプラノ)、カインが Emilie Renard, アベルが Nile Senatore, アダムと悪魔と神を Luigi de Donato. アダムや神は重々しく、ゆったりとした音楽またはレチタティーボがあてられている。ソロモンの時ほどではないが、カインとアベルも言い争いがある。そこはテンポ速く、世俗劇に近い。カインがアベルを殺してしまうのだが、その後が結構あって、アベルは虫の息の状態で、神にカインの赦しを乞うのである。私の血を、彼の罪を洗うためにお受け取りください、などと言うのですね。神や悪魔はそれらしく、カインやアベルとはくっきりと描きわけられていて面白かった。声種も違うのだが、明らかに音楽的なフレージングも異なっているのだ。これなら、グラインドボーンでヘンデルのオラトリオを上演するときのように、舞台化しても十分成り立つのではないか、とも思ったりした。まあ、その場合は、神、悪魔、アダムの一人三役は難しくなるかもしれないが。

二曲あわせて90分強だったと思うが、充実した満足感があった。教会内は客席も明るく、リブレットを見ながら聞くことが可能だった。プログラムは対訳歌詞が掲載されているが、教会内に字幕はない。教会では祭壇の前に演奏者がおり、普段の会衆の席に観客が座るという形であった。

 

 

 

 

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2021年8月19日 (木)

チロル州立博物館

チロル州立博物館に行った。音楽愛好者としての観点からの報告と考えて欲しい。17,18、19世紀について絵画はあったが省略。絵画のなかで僕の目を惹いたのは上にあげたクラウディオ・モンテヴェルディの肖像画である。モンテヴェルディに関する本で、しばしばこの肖像画、あるいはその一部が掲載されていることが多い。全体では、モンテヴェルディの手が楽譜の上にのっているのがわかる。ベルナルド・ストロッツィの描いたもので、ストロッツィもモンテヴェルディと同時代にヴェネツィアで活躍していたらしい。ヴェネツィアにあるのはこれの写本らしいのだが、そのあたりはネットを検索しても確実なことは得られなかった。ストロッツィの描いたものがここにあるらしい、ということが言えるのみだ。

また、ある部屋は musical collection という名がついていて、古楽器の展示や、音楽の演奏中の演奏家を描いた絵や、インスブルックで宮廷や修道院でどのように音楽が発達していったかを解説するパネルが何枚かある。それによるとこの地方でのポリフォニーの発達はシトー派の修道院が中心でフランシスコ会はポリフォニーに反対していたという。

 

 

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2021年8月18日 (水)

レア・デザンドレのリサイタル《アマゾネス》その2

後半のプログラム。

こちらは明らかにヴィヴァルディが中心であった。

Antonio Vivaldi (1678-1741)

Sifonia, I, allegro (Ercole sul Termodonte, ローマ、1723)

Giuseppe de Bottis (1678-1753)

Aria 《Che farai misero core》(Mitilene) (Mitilene, regina delle Amazzoni, ナポリ、1707)

Georg Caspar Schurmann

Aria 《Non ha fortuna il pianto mio》(Hyppolite) 第一幕2場 (Die getreue Alceste, ハンブルク、1719)

Antonio Vivaldi

Sinfonia, II. Andante

Giuseppe de Bottis

Aria 《Lieti fiori, erbe odorose》(Mitilene) (Mitilene, regina delle Amazzoni)

Antonio Vivaldi

Sinfonia III. Allegro

Aria 《Onde chiare che sussurrate》(Ippolita)第二幕1場、《Scendero', volero', gridero'》(Antiope)第三幕8場(Ercole sul Termodonte).

見てお解りのように、後半はヴィヴァルディのシンフォニアとアリアが中心でシンフォニアをばらして演奏して間に他の作曲家をいれている。こうやって聞くと、いかにヴィヴァルディの曲が技巧的に派手で超絶技巧を要求されるかがわかるし、オケの方も赤毛の司祭はヴァイオリンが得意だった、だからシンフォニアでもアリアの前奏でも最も肝心なところ、表現をヴァイオリンが担っていることがわかる。

駆け抜けるようなヴィヴァルディに会場は拍手喝采。

やや意外だったのは、アンコールで、一曲目はリュートのトムが作曲したアマゾンの曲で、アマゾン川を大事にしよう、という曲。二曲目はコントラバス奏者の曲でオーシャン(海)、オーシャンを大切にしようという曲だった。曲想自体は、なんというかミュージカルやディズニーの映画音楽を古楽の伴奏で演奏技術高く弾いた感じになった。開かれたプログラムとも言えるだろうし、プログラム本体とアンコール曲の接続については賛否の分かれるところかもしれない。

彼女が優れたバロック歌手であることは疑いのないところだ。オペラ全曲の中で聞いてみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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レア・デザンドレのリサイタル《アマゾネス》その1

メッゾ・ソプラノ歌手レア・デザンドレのリサイタル《アマゾネス》を聴いた(インスブルック、王宮リーゼンザール)。

写真では判りにくいかもしれないが、天井の高い(10メートルはあるだろう)、壁にはハプスブルク家の皇帝や各国に嫁いだ皇女の肖像画が等身大以上の大きさで描かれている。この部屋も長方形の形だが、長い辺の片側に舞台を設定し、そこにオケと歌手がいて、その三方を観客が囲む形である。バロック音楽をやるのに視覚的にはふさわしい豪華な空間なのだが、聴覚的にはかなり問題がある。反響がものすごく、残響時間が長い、長すぎるのである。ゆったりとしたテンポの曲は良いのだが、早いパッセージがくると、特に低音部は、前の音とかぶって塊となってしまい、音の輪郭がぼけてしまう。教会でオケが演奏する場合などにも起こりがちなことである、と言えばおわかりいただけるだろうか。

レア・デザンドレはつい最近に《アマゾネス》というCDを出した。当日のプログラムとすっかり同じかは確認できていないが、コンセプトは同じと考えてよいだろう。バロック・オペラから強い女性をえらび彼女らのアリアを歌っている。個人のリサイタルでは当然ながら、歌ばかりでは歌手の負担が大きすぎるので、ところどころシンフォニアなどの器楽曲が挿入されている。

レア・デザンドレの経歴を見ると、20歳でウィリアム・クリスティー・アカデミーに入り、すでにザルツブルク音楽祭にもデビューしている。共演した指揮者もミンコフスキーやクリスティーなどがいる。2018年に独演会で世界各地をまわり、欧米をはじめ上海には来ているのだが、日本には来ていない。彼女だけではなく、バロック音楽の団体・個人がアジアに来て、中国、韓国に来るのに日本に来ないことがあるということは、ままあると聞く。残念なことである。

この歌手は登場すると、思いのほか小柄でスリムである。バレエを15年やっていたということに納得がいく。声質としては、素直で透明感の高い声でメゾというが高いほうはどんどん出る感じで、逆に低い方は出てはいるがあまり響かない。

彼女は今までに3人の女性で一緒にCDを作るということは何回かしていたのだが、ソロアルバムは初めてのようだ。共演したオケは、CDと同じくアンサンブル・ジュピターという団体で、リュート奏者のトマス・ダンフォードによって2018年に結成された団体で、この日のメンバーは9人。ヴァイオリンが2人、ヴィオラ1人、チェロ1人、ヴィオラ・ダ・ガンバ1人、コントラバス1人、テオルボ1人、チャンバロ兼オルガン1人、打楽器1人である。リュート・テオルボ奏者がリーダーというのは比較的珍しいと思うが、実際に曲を弾いている時には、第一ヴァイオリン奏者は特にトマス・ダンフォードの方を見る様子はなく、第二ヴァイオリン奏者が第一奏者を見ながら弾いて合わせている。リュート奏者はむしろチェロ奏者と目を合わせながら、音を合わせていた。むろん、全体で9人であるし、互いが互いの音を聞きながら、という前提の上でだが。

プログラムは前半、休憩、後半に分かれる。

前半

Francesco Provenzale (1624-1704) 

Aria 《Non posso far》(Lucillo), 第一幕5場(《Lo schiavo di sua moglie》ナポリ、1671より)

Francesco Cavalli (1602-1676)

Simfonia (Ercole amante, パリ、1662,より)

Francesco Provenzale

Aria 《Lasciatemi morir, stelle crudeli》(Menalippa)第一幕8場、(《Lo schiavo di sua moglie》より)

Giovannni Buonaventura Viviani (1638-1692)

Aria 《Muove il pie' furia d'averno》(Mitilene) 第三幕19場( Mitilene, regina delle Amazzoni, ナポリ、1681)

Georg Caspar Schurmann (1672/73-1751)

Sinfonia pour la tempete (Die getreue Alceste, ハンブルク、1719)

Carlo Pallavicino (1630-1688) /Nicolaus Adam Strungt (1640-1700)

Aria 《Vieni, corri》(Antiope) 第三幕最終場 と 《Sdegni,fuori barbari》(Celinda) 第三幕15場(L'Antiope, ドレスデン、1689)

Anne Danican Philidor (1681-1728)

Marche, Re'cit & Air 《Venez, troupe guerriere...Combattons courrons a' la gloire》(Thalestris), Marche (La Mascerade des Amazones, マーリ、1700)

Marin Marais (1656-1728)

L'Americaine  (Premier Suitte d'un gout etranger, パリ、1717)

Andre' Cardinal Destouches

Air 《O Mort! O triste Mort》(Thalestris)、第三幕5場 (Marthesie, premiere reine des Amazones より)

Marin Marais

Plainte en sol mineur

Andre Cardinal Destouches

Air 《Quel coups me reservait la colere celeste》(Marthesie), 第五幕5場(Marthesie, premiere reine des Amazones より)

ここで休憩。前半はおおまかに言えば前半がイタリアもので後半がフランスものであった。ゆったりとしたテンポと駆け抜けるテンポ、軽快な曲想のものと変化をつけたプログラムである。

続きはその2で。

 

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2021年8月17日 (火)

パスクィーニ作曲《イダルマ》その5

昨日(8月16日)がオペラ《イダルマ》の千秋楽であった。

今回、いろんな事情が重なって幸運にも3回観ることが出来た(全体の上演は6回)が、初めて観るオペラは3回ほど観るとよく分かるということも確認できた。1回目は、僕の場合は指揮者やオケが音楽的にどういう動き、指示をしているかが気になるので、演出の細部を見落とすことがままある。2度目になると、指揮やオケのやりとりは既知のものとなるので、歌手の歌いぶりだけではなく、演出と絡んだ動作の意味もわかってくる。3回目になると、音楽と歌詞と演出の連関を総合的に味わうことが可能になる、とでも言えようか。

このオペラが340年ぶりの蘇演であることもあって、事前にリブレットを入手することはできなかったので、プログラムに英語で記されたあらすじと、会場で売っていたリブレットをホテルに帰ってきて読むという作業があって、なかなか隅々まで判ったとは言えないのだが、かなりわかった感じがする。

先の一度目、二度目の話に補足すると、一度目は初めて観る、聴く歌手が多いと、どの人がどの役というのが頭に入りにくい。今回の場合は、幸い、イダルマとイレーネの二人の声がまったく声質が異なり、外見も異なっていたので区別は楽だった。演目によっては、ソプラノ2人で歌手の背格好も似ていたりすると一度目には混同しがちな場合もある。二度目、三度目になると歌手を見慣れてくるからその混同はなくなる。演出によってもこの混同は増加されることがあって、ソプラノ2人(テノール2人でも同様)の服が似ていたりすると区別がつきにくい。こんなことは常識だと思う読者もおられようが、そういう閉口させられる演出も少なからず経験してきた。

今回の演出ではアルミーロはごてごてと飾りのついた帽子をかぶっていたので、これは別の人物だということがすぐにわかるようになっていた。どういうコンセプトで演出をするか、ということのほかにこういった配慮もオペラの演出では大切なことだと思う。ピッティの演出などでは、登場人物の服の色でそれが表現され、たとえば、敵味方が一目瞭然となるなど、視覚的な区別に役立っていることが多い。

歌手の評価についてだが、マルゲリータ・マリア・サーラが抜群に良かったと前に書いたが、彼女の良さはどこにあるのかということを少し考えてみたい。1つは、彼女は音楽のラインがにじまないのである。リズムや音色が正確、適切にちょうどぴったりのところに来る。その気持ちよさ。たとえば男性陣では声量が大きな歌手がいるのだが、声を張り上げることに注力するせいか微妙にリズムがオケとぴたっと来ないことがある。古楽器の場合、オケではそれが顕著なのだが、音量はモダンに較べて小さい。しかし音色が均等でなく、むしろ微妙な音色の変化を味わう楽しみがある。テオルボなどはその最たるもので、リュートが大きくなったようなこの楽器は、バイオリンが何台がはいってくるとあっという間にほぼ聞こえなくなってしまうのだが、たとえばイレーネのアリアで、テオルボとチェロだけで伴奏が開始された時の絶妙な美しさは、ほかでは味わえないものだ。あるいは、アルミーロの終盤のアリアでテオルボ2丁とマンドリンでの伴奏の繊細な掛け合い。バロック・オペラの場合、歌手は、場合によっては声量よりも、リズムや音色の調整に注力しなければならないだろう。

もう1つは、イタリア語の聞き取りやすさ。サーラはアリアでもレチタティーボでも言葉がはっきり聞き取れる。イダルマ役のアリアンナ・ヴェンディッテッリはその点がいまいちだった。これは彼女がソプラノでサーラがアルトだからという面もあるが、そればかりとは言えない。テノールのホアン・サンチョの方が、バリトンのモーガン・ピアスよりも歌詞ははっきり聴き取れるのだった。こういう言葉の面は、オペラが音楽劇であることを考えると、とても重要で、イタリア人が評価する場合、言葉がはっきりしないと手厳しい評価がくだされるのを何度も聞いたし、リブレットをある程度読むようになると、聞き取れないのが欲求不満になってくる。

現地では当然ながらドイツ語字幕が出る。日本で日本語字幕が出るのと同じである。それを追ってドラマをたどる人は、イタリア語としての発音の不備があまり気にならない、あるいはまったく気にならないかもしれない。しかし作曲家は明らかに言葉にあわせて曲を構想・作曲しており、発声のケアとフレージングのはじめと終わりのタイミングの適切さは、相関していると思う。マルゲリータ・マリア・サーラの場合、台詞がこみいってきても、次のフレーズの頭が遅れないでピシっと合わせてくるのである。だから、イタリア語としても聞き取りやすいし、音楽的にもリズムが気持ちよく整っている。

ということとは別の次元なのだが、タイトル・ロールのアリアンナ・ヴェンディッテッリは最終日の第三幕で、役に入り込んで熱のこもった演技・歌唱を示した。こちらもはっとしたのだが、オケを見ると、演奏をしていない奏者が何人も舞台を見つめていた。こういう役に憑依する瞬間は、技巧・技術を越えて劇として力を持つし、歌から発せられる力も増す。

細かいことを書いてしまったが、この時代(1680)にこれほど世俗的で楽しめるオペラ、しかも一幕ものではなくて、三幕ものがあったのだ、ということを体感できた貴重な経験に感謝。

 

 

 

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2021年8月16日 (月)

パスクィーニ作曲《イダルマ》その4

上演について。

上演場所は、初演は1680年2月6日、ローマのカプラ二カ劇場である。今回は、インスブルックのHaus der Musik. いつもはその隣に立つ州立劇場が使われるのだが、今、改修工事中とのこと。

 例年は、Haus der Musik は若手歌手中心のオペラが上演されている。

今回の上演は、まず作曲者の自筆稿がフランス国立図書館にあり、それをもとにGiovanna Barbati と Alessandro De Marchi (今回の指揮者でもある)が新しいエディションを作成した。

歌手の配役は

イダルマ   アリアンナ・ヴェンディッテッリ (ソプラノ)

リンドーロ  ルーパート・チャールズワース (テノール)

アルミーロ  モーガン・ピアース  (バリトン)

イレーネ  マルゲリータ・マリア・サーラ(アルト)

チェリンド  ホアン・サンチョ (テノール)

ドリッロ   アニータ・ロザーティ(ソプラノ、ズボン役)

パンターノ  ロッコ・カヴァッルッツィ (バス0

アレッサンドロ・デ・マルキ 音楽監督

アレッサンドラ・プレモーリ 演出

インスブルック祝祭オーケストラ (指揮・チェンバロを含め22人)

デ・マルキはチェンバロを弾きながら振る(バロックではよくあるスタイルだが)。このオケは、古楽器・ピリオド楽器を使っており、様式的にはまさにこのオペラにふさわしい。個々人の技量にはややバラツキがあって、対位法的な受け渡しや、早いパッセージになると、わずかにばたつくところもあるが、全体としては満足できるレベル(などと言っていられるのが、ヨーロッパでのバロック演奏のレベルの高さを示しているとも言えよう)。オーケストレーションに関して、どこまでがパスクィーニによるもので、どこからが現代の編纂者によるものかは確認できないが、この場で鳴っている音は、彩り豊かである。

(追記)

その後、当作品の楽譜編纂者であり、指揮者であるアンドレア・デ・マルキ氏に直接うかがう機会を得た。マエストロによると、パスクィーニの楽譜にはまったくオーケストレーション、楽譜の割り振りはなかった、とのことで、マエストロ自身がオーケストレーションをしたとの確言を得た。また、声種について指定は書かれていないが、いずれにせよ、当時は全員男性が歌ったとのことであった。納得。(追記終わり)

 gelosia (嫉妬)などという言葉が出てくると、激しい音楽的パッセージが出てくるのは後のヘンデルなどと同様である。作詞家、作曲家が近い関係にあって制作していたのだろうし、この台詞はこんな表情で音楽をつけようというのが、うまくいっている。二重唱も多い。二組の二重唱が代わる代わるあるいは同時に歌われ、《リゴレット》の四重唱のご先祖がここにいたのか、と驚くところもあった。チェスティの《ドーリ》と較べてもさらに音楽的な発展、言葉に即したメロディー性が充実しているように思う。1600年代におけるオペラの発展、進化、おそるべし。

 さて、演出は、前にも少し述べたが、舞台が改修工事中の古風なパラッツォ(館)。現代の工事人がヘルメットをかぶって出入りするのだが、彼ら彼女らはモックで、そこに時代衣装をまとった本来の登場人物たちが現れる。リンドーロには工事人が見えるのだが、工事人にはリンドーロは見えない、という仕掛けで、現場監督の女性がタバコに火をつけようとすると、そのたびにリンドーロが吹き消して、女性はいぶかしむ。現場監督が置いていったスマホを、ドリッロが見つけて眺めたりすかしたり、囓ったりするという演出もあった。さらには、アルミーロが剣を振り回して、工事現場の電気線を切ってしまい、ブラックアウトするという幕切れもあったりする。

 改修中というのは、隣の州立劇場の改修中にかけているのではという批評もあった(ネットで見た。ちなみに、ドイツ語から英語へのグーグル翻訳は進化している。1年半ほど前には、明らかにおかしな表現があったのだが、今は少なくとも英語として意味の通る翻訳になっているードイツ語にあたってチェックする能力は筆者にないのであくまで印象ということにはなるけれど)。というわけで森はまったく出てこない。が、全体として十分機能しているし、楽しめる演出であった。

歌手については、イレーネ役のマルゲリータ・マリア・サーラが抜群に良かった。声の表情と言葉が即しているだけでなく、音楽の様式観にもあっていて、それでいて感情表出も素直に伝わるのだった。タイトル・ロールのアリアンナ・ヴェンディッテッリやルーパート・チャールズワースも熱演だった。ホアン・サンチョがなんといってもここではベテランなわけだが、二幕、三幕で高音部にサンチョ節とも言えるナキがはいっていたせいか、会場からの拍手は思いのほか地味だった。

こういう舞台の場合、個々の歌手の出来・不出来も意味がないわけではないが、むしろ340年の時をへて、このオペラが蘇ったことの意義が大きいだろう。しかも、実に楽しめる作品であることがよくわかった。ヨーロッパでのバロック作品の蘇演はレベルが高く、ほこりをかむった古くさいものという感じが微塵もしない。むしろ19世紀のオペラの大抵の演奏よりも、僕にとっては、現代的な感性に訴える音楽として鳴り響くのである。

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パスクィーニ作曲《イダルマ》その3

パスクィーニ作曲、デ・トーティス台本、オペラ《イダルマ》のあらすじを紹介する。

あらすじと今回の上演の舞台は微妙に異なる。今回の演出は、ある館の修復、修繕工事が現代において行われている最中で工事関係者(現代人)が出入りする中に、幽霊のごとくオペラの登場人物が出てきて、現代人にはオペラの人物は見えないのだが、オペラの人物には現代人が見えるのでいたずらをする、といった仕掛けになっている。もちろん、工事関係者はモック役で台詞や歌はない。

まずは、演出とは切り離してリブレットのあらすじを紹介する。

全部で三幕ある。一幕がほぼ上演一時間で、30分の休憩が二回あり、全体では4時間強の上演時間だった。なんでこんなに長いかというと登場人物が結構多いのである。リンドーロという女たらしというか浮気者がいて、その部下(ドン・ジョヴァンニで言えばレポレッロ)がパンターノ。実は、リンドーロはイダルマという女性と結婚しているのに、元カノのイレーネに惹かれている。イレーネはリンドーロと別れてからチェリンドという男と結婚したのだが、これがリンドーロの親友。こちらのカップルにもドリッロという召使いがいる。そこに加えて、イレーネの兄アルミーロというのがいて、この人はイダルマに一目惚れしてしまうので、余計にストーリーがこんがらがったものになる。

上記の説明と重複するところもあるが一幕ごとにあらすじを紹介する。

第一幕

リンドーロはローマでかつて恋人だったイレーネを捨て、ナポリにやってきて、密かにイダルマと結婚する。リンドーロはイダルマを連れてローマに行く途中の森で、もうイダルマへの気持ちが冷めて、もとカノのイレーネへの情愛が盛り上がる。そこで、森で寝たままのイダルマを捨ててイレーネのもとへ向かう。そこへイレーネの兄アルミーロが通りかかり、イダルマを見て一目惚れする。しかしイダルマはリンドーロへの貞節を守りつづける。一方、リンドーロはイレーネのところに着いてみるとイレーネが自分の親友チェリンドと結婚していたことをしり、えらく落胆する(あまりに勝手な男で怒るより吹き出しそうになるー筆者の感想)。イレーネは、イダルマからリンドーロに捨てられたと聞いて激怒し、二人を仲直りさせることを決意する。しかしイレーネの怒りを聞いた召使いのドリッロは、イレーネがリンドーロに思いを寄せているものと誤解する。イレーネはドリッロにリンドーロを連れてくるように命じる。

第二幕

チェリンドは兄から手紙をもらい名誉にかかわることがあるのでナポリに来るように言われる。召使いのドリッロは、ローマに留まるように言う。なぜならイレーネはリンドーロの愛する人だからだ。リンドーロとのやりとりで、イレーネは彼の愛の誓いを信じるフリをし、彼が愛の《約束》(イダルマへの約束)を守るよう求める。イダルマは二人のやりとりを盗み聞きしているが、イレーネの意図を誤解し、嫉妬に燃える。イダルマがチェリンドにイレーネとはライバル関係だと言うと、チェリンドはリンドーロに不倫はさせないぞ、とイダルマに誓う。ところがこのやりとりを陰でみていたイレーネは、イダルマがチェリンドに愛の告白をしたのだ、と誤解してしまう。二人の女性は激しく対立する。アルミーロは再びイダルマに求愛するが拒絶され、イレーネはドリッロを使いにやってリンドーロを迎えにやる。

イダルマとイレーネは仲直りする。イレーネはリンドーロの良心に訴える、それをイダルマが盗み聞きしている。リンドーロはチェリンドが剣を持って迫ってくるのを見ると逃げ出す。チェリンドは、イレーネを殺そうとするが、イレーネも難を逃れる。イダルマはチェリンドに正しい認識を持たせようとし、アルミーロも彼女を助ける。

第三幕

リンドーロは自分の浮気性を認める。彼の召使いパンターノはドリッロにイレーネと話しをさせてくれと頼む。その間、チェリンドだけでなく、アルミーロもイレーネが浮気をしていると思い込み、二人はイレーネとリンドーロを殺そうと決意する。パンターノはイレーネに、リンドーロはあなたと駆け落ちしたいと願い、町の外で待っていますと言う。アルミーロは二人がいるところに乱入するが、パンターノは逃げる。イダルマは死んでしまいたいと思う。アルミーロはイレーネを殺そうとするが、イダルマが気絶するのに気をとられて、その間にイレーネは逃げる(確認のために言えばイレーネとアルミーロは兄妹ですー筆者註)。アルミーロとチェリンドは、パンターノを捕まえ、リンドーロの駆け落ちプランを白状させ、どこで待っているのかを吐かせる。ドリッロはイレーネに逃げるよううながす。イレーネはいっそ死んでしまいたいと思うが、しぶしぶ逃げる。リンドーロは森でチェリンドとアルミーロに捕まる。二人はリンドーロを殺そうと思うが、そこにイダルマが割って入る。リンドーロはこれまでイダルマに邪険にしたことを悔いる(遅すぎ!)。イダルマは、自分のためにイレーネはリンドーロと親密に話し合っていたのだと説明する。それでもチェリンドが彼女の話を信じようとしないので、彼女は自分の父親の名前を明かすーヴァレンツァのロズモンド、即ち、チェリンダの兄なのだ!(ということは、イダルマとチェリンドは叔父と姪ですねーなんで今まで知らなかったの?と思うかも知れないが、土壇場近くで、こういうもっとも肝心な身分・正体・アイデンティティーが明かされるというのは、バロック・オペラでは定番といってもいいくらいよくあるパターンですー著者註)。叔父であるチェリンドは姪のイダルマが家の名誉を汚したと言うが、ここでリンドーロが実はイダルマは自分の妻だと告白する(リンドーロとイダルマは秘密の結婚だったのですね)。ここでようやく、チェリンドは妻イレーネの潔白を信じる。イレーネがドリッロと一緒に現れると、チェリンドはイレーネと、そしてリンドーロとも和解する。最後に Chi dura la vince (耐えるものが勝つ)と歌いあげられる。

まあ、最後の最後には教訓めいたものがあるのだが、途中までリンドーロはどっから見ても、キリスト教道徳など体現してなどいない男なのだ。

逆に言えば、この当時は教皇は君主としての性格を強くもっているし、枢機卿はその補佐をしていて美術や音楽のパトロンとして重要な役割を果たしている。その際に、教会の聖職者だということに中身が縛られるということがほぼないのだ。オペラ関係で言えば、教皇国家では原則、女性歌手が歌えなかった、ということと、教皇によっては劇場というものをうさんくさいものとして、劇場を壊してしまう教皇も出たりすることがあった。

バロック・オペラとローマ、教皇庁の関係はこの後も浅からぬものがあるが、その話はあらためて。

 

 

 

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パスクィーニ作曲《イダルマ》その2

パスクィーニ作曲のオペラ《イダルマ》のリブレットを書いたのはジュゼッペ・ドメニコ・デ・トーティスだが、彼はどんな人か。ウィキペディアやトレッカーニによると、1644/5にローマで生まれた。兄弟のCarlo Vincenzo はグッビオの司教となっている。1680年代半ばには枢機卿ベネデット・パンフィリに仕え、後、枢機卿ピエトロ・オットボーニに仕えている。教皇庁の仕事もしている。

  文学者としては、Accademia degli Umoristi やあの有名な Accademia dell' Arcadia のメンバーとなり、彼の詞にパスクィーニやアレッサンドロ・スカルラッティが作曲している。1679年には五幕ものの悲劇 Elvimero を書いてスウェーデン女王クリスティーナに献呈している。この作品のプロローグは音楽付きであった。

 さて、こういうデ・トーティスの経歴を見ると、枢機卿や教皇庁にお仕えし、当時の有名なアカデーミアの会員になり、というわけで、リブレットの内容もどんな宗教的あるいは寓意的、なんか堅苦しいものなのではないか、と予想する方もいるかもしれないが、まったくそれと正反対なのがおかしい。

 一言で言ってしまえば、ドン・ジョヴァンニ的な女好きリンドーロがいて、妻がいるのに元カノを口説こうとする、という話なのだ。

 詳しくはその3で。

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オルリンスキーのリサイタル

カウターテナー歌手オルリンスキーのリサイタルを聴いた(インスブルック、Haus der Musik).
オルリンスキーはデビュー当時は、ルックスや歌って踊れるとかヴィジュアル系でいくのかとも思われたが、CDアルバムは1枚目は宗教曲、2枚目は世俗曲だが世界初録音が8曲もあるという真摯なもの。コンサートの演目もこの最新アルバムと重なる(一部異なる)。またオケはポモドーロだが、指揮者というかリーダーがZefira Valova. いつもながらポモドーロのアンサンブル能力・音楽性には脱帽。リズムや音色がつねに生き生きとし、通奏低音とヴァイオリンも常に音楽的に連帯している。音の消え際までコントロールする精妙さを持ちながら、馬鹿丁寧なあまりリズムが鈍くなるところが微塵もない。
オルリンスキーは(英語)で司会をしながら進めていく。オーストリアでのリサイタルは初めてで、しかもコロナ渦で最近は短いリサイタルしかやったことがなく、本格的なものは久しぶりとのことで歌える嬉しさが身体からにじみでていた。彼の透明感があり、強弱の幅の大きい声は、叙情的な曲に向いている(ヘンデルの超絶技巧を求める劇的な曲よりも)と思った。この日の演目は,
カヴァッリ(1602−1676)Sinfonia e recitativo ed aria 《Erume e solinghe ...Lucidissima face》(Endimione) (《La Calisto》ヴェネツィア、1661,より)
ジョヴァンニ・アントニオ・ボレッティ(1640−1672)Aria 《Chi scherza con Amor》(Eliogabalo) (《Eliogabalo》ヴェネツィア、1672、より)
Sinfonia e Aria 《Crudo Amor non hai pieta'》(Claudio) (《Claudio Cesare》、ヴェネツィア、1672,より)
ジョヴァンニ・ボノンチーニ(1670−1747)Aria 《Infelice mia costanza》(Aminta) (《La Costanza non gradita nel doppio amore d'Aminta》, ローマ、1694,より)
Sinfonia (《La Nemica d'Amore fatta amante》ローマ、1693,より)
フランチェスコ・バルトロメオ・コンティ(1681/2−1732)、Aria《Odio, vendetta, amore》(Fernando)(《Don Chisciotte in Sierra Morena》, ヴィーン、1719,より)
ヘンデル(1685−1759)Aria《Pena tiranna》(Dardano)(《Amadigi di Gaula》HWV11, ロンドン、1715、より)
ここで休憩
ヘンデル recitativo ed aria 《Otton, qual protentoso fulmine... Voi che udite》(Ottone) (《Aggrippina》HWV6, ヴェネツィア、1709より)
Aria 《Spera che tra le care gioie》(Muzio)(《Il Muzio Scevola》HWV 13, ロンドン、1721より)
ルーカ・アントニオ・プレディエーリ(1688−1767)、Aria 《Finche salvo e' l'amor suo》(Scipione) (《Scipione il giovane》ヴェネツィア、1731,より)
ニコラ・マッテイス・デアユンガー(1670−1737)、Ballo dei Bagatellieri (《Don Chischotte in Sierra Morena》, Wien, 1719)
これは器楽曲です。
ルーカ・アントニオ・プレディエーリ(1688−1767)Aria 《Dovrian quest'occhi piangere》(Scipione) (《Scipione il Giovane》、ヴェネツィア、1731)
ジュゼッペ・マリア・オルランディー二(1676−1760)/ヨハン・マッテソン(1681ー1764)Aria《Che m'ami ti prega》(Nerone)(《Nerone》、ハンブルク、1723,より)
初めて聞く曲が多かった。アルバムと同じく《愛のさまざまな顔》と題されたリサイタルで、歌詞は、ひたむきの愛を歌うもの、変わらぬ愛を皮肉るもの、恋人の裏切りを恨むもの、様々だ。音楽的にも、軽快にはねるような音楽、しみじみ歌い上げる曲、驚くほど多様な音楽と出会うことができた。ヘンデルがすぐれた大作曲家であることは疑いないが、孤立した存在ではなく、同時代や前後には優れた作曲家が大勢いたことを実感できた。
ツェンチッチやジャルスキーもそうだが、すぐれたカウンターテナー歌手は、われわれが今まで聞いたことのなかった曲を発掘し、しかも21世紀のわれわれの音楽的感性に訴えかけるものとして提示し、われわれの音楽観を更新し続けている。音楽学者の活動と両輪の輪であるが、その豊かな実りを感じることのできた時間であった。カウンターテナーに関して、われわれはとても贅沢な時代に生きているのだと思う。

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2021年8月15日 (日)

オーストリアにおけるマスク

インスブルックに来てマスクについて気づいたこと。

道路では、マスクをしている人はほぼいない。店にはいると皆している。これはイタリアと同じである。イタリアも道を歩いているときにマスクをしている人はほとんどいない。誤解はないと思うが、それが良いとか悪いという価値判断をしたいのではなく、事実の報告として受け止めてもらえれば幸いです。

インスブルックの音楽会に数回行ったところある共通した傾向が見られたので報告する。

音楽会の入り口では、ワクチン接種証明書(グリーン・パス)とアイデンティティー・カード(パスポート)とマスクをしていることの確認を求められる。音楽祭からは、コンサートなりオペラの前日に、会場には上記の3点を持ってくるようにというリマインダーのメールが来る。

そこからがちょっと不思議と言えば不思議なのだ。みなマスク(ほとんどの人がFFP2という鼻先がとがったマスク、色は白も赤もある)をして会場に入るわけだが、着席するとマスクをはずす人が1割くらいいる。会場には係員が複数いるのだが、注意はしない。昨日、オペラ会場で、ぼくは列のまんなかあたりにいたのだが、ちらっと見ると右の3人も左の4人もマスクをしていなかった。

ところが、休憩時間になるとマスクをつけて移動するのである。これは何故なのか? 歩くという活動をするときにはマスクをするべきだが、座っているという静かな状態ではマスクの必要がない、と考えている人が一定数いるのだろうか。念のために言えば、座っている間もマスクをずっとつけている人が大勢ではあるのだ。座るとマスクをはずす人も、休憩時間でフォワイエやロビーや建物の外に行くときはマスクをし、建物の外にでればまたはずすのである。あるいは、フォワイエで飲み物、食べ物を頼めば当然ながらはずす。

ちなみに、オペラで演奏家は歌手はもちろんだが、弦楽器奏者やチェンバロも含め全員がマスクなしである。指揮者のデ・マルキは、指揮台に登るまでマスクをして、指揮台でマスクをはずして演奏を開始する。

なかなかそのオン・オフの基準が飲み込めない(悪いと言っているのではありません)が、彼らなりにあるんだろうな、とは思うし、それが結構柔軟性をもっているのかもしれない。国や地域によって感染状況も異なるし、対策に対する考え方も違うのだろう。とは言え、東チロルではマスク着用基準が強化されたのだ。オーストリアの中も基準が一様ではないのである。

 

 

 

 

 

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インスブルックの位置

インスブルックは、前にも書いたかもしれないが、ミュンヘンの南95キロに位置していて、ミュンヘンからイタリアに抜ける場合も、オーストリアのザルツブルクからイタリアに抜ける場合も必ず通るところだ。だから町の中には、ゲーテが泊まったホテルとかモーツァルトが泊まったホテルというのが残って今も現役で活動している。

インスブルックから南へ85キロほどいくとボルツァーノというイタリアのボルツァーノ県の県都である。そのせいか、結構イタリア人観光客も多い。博物館のパンフレットなどもドイツ語、英語に加えてイタリア語がある。第一次大戦後の経緯については前項で記した通りである。

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チロル民俗博物館

日曜日でかつ8月15日ということで音楽会はなく、博物館に行った。

チロル民俗博物館は初めてではないのだが、現在の展示が興味深かった。ティロル地方の近現代史を扱っていて。イタリアとの関係をひもといていた。

チロルは、第一次大戦前はチロル伯爵領であった。

第一次大戦中、イタリアは最初は中立を保っていたが、やがてオーストリアと戦う。一時はイタリア内部まで攻め込まれたが、山岳地帯での塹壕戦などをへて、イタリアが勝利する。イタリアは戦勝国になったはずなのだが、失ったもの、払った犠牲に対し得たものは少なく国民の間、帰還兵の間に不満が充満した、といったところが教科書的な記述である。

今回、新たに知ったのは、1918年の11月4日に南部戦線が休戦となった後に、1918年11月23日に、イタリア軍がインスブルックに進駐していたことだ。その後、1919年9月10日にサンジェルマン・アン・レ条約が調印される。オーストリアと連合国の条約で、ハンガリーやチェコスロバキアの独立が認められ、オーストリアハンガリー帝国が解体したわけだが、チロルの一部(南部)がイタリアに割譲された。割譲された部分を南北にわけると南部がトレント県で、北部がアルトアディジェ県(南ティロル)である。

1920年12月4日になってティロルから最後のイタリア兵が撤退した、という。

インスブルックに第一次大戦後終結直後にイタリア軍が進駐していたことはまったく知らなかったし、第一次大戦の記述としてあまり見ないと思う。インスブルックの博物館ならではの情報かもしれない。

現在のイタリアにおいても、オーストリアから割譲されたトレンティーノ・アルト・アディジェは特殊な自治州で、北のボルツァーノ県(南チロル)では、イタリア語とともにドイツ語も公用語となっているし、学校教育もドイツ語がメインかイタリア語メインの学校かを選ぶことが出来るようになっている。

 

 

 

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2021年8月13日 (金)

パスクィー二作曲《イダルマ》その1

ベルナルド・パスクィー二作曲、ジュゼッペ・ドメニコ・デ・トーティス台本のオペラ『イダルマ』を観た(インスブルック、Haus der Musik).「我慢したものが勝ち」という副題がついている。

 ベルナルド・パスクィーニはあまり有名な作曲家とは言えないかもしれないが、数年前にインスブルックでオペラ『ドーリ』が上演されたアントニオ・チェスティとやや近い世代だ。チェスティの生没年は1623−1669年であるのに対し、パスクィーニは1637−1710年で14歳ほど年下ということになる。しかし、パスクィーニのオペラではアッポローニの台本を使っていることが複数回あり、アッポローニはチェスティと共作している台本作家であった。

 パスクィーニは、マッサ・エ・コッツィーレというピストイア県(トスカーナ州)の山奥の小さな村の出身だが1650年頃司祭をしていた叔父とともにフェッラーラに移った。50年代半ばにはローマに移り、オルガニストとして活躍している。1667年名家ボルゲーゼ家のジョヴァンニ・バッティスタ・ボルゲーゼのお抱えとなり、92年までその職にあり、93年からは息子のマルカントニオ・ボルゲーゼに召し抱えられている。

 ローマでの音楽活動には深く関わっており、それはフラヴィオ・キージ(叔父は教皇アレッサンドロ7世、石鍋真澄氏の近著『教皇たちのローマ』にもあるように、教皇の甥で枢機卿だった人が美術や音楽のパトロンとして重要な働きをした)、ベネデット・パンフィリ、ピエトロ・オットボー二、スウェーデン(元)女王クリスティーナの催す音楽活動に参加していた。名家の顔ぶれは、この後にヘンデルがローマにやってきて世話になる人たちと共通している—無論、世代的にはパスクィーニはヘンデルより50年ほど年上になるわけだが。

 1706年にはアルカディア・アカデミー(Accademia dell'Arcadia)に、コレッリやアレッサンドロ・スカルラッティとともに入会を認められている。鍵盤楽器奏者、作曲家としての彼の名声はアルプスの向こうまで鳴り響き、Muffat や Krieger といった人たちが彼の元を訪ね教えをこうている。ではあるが、彼の作曲活動は鍵盤楽器曲にはとどまらず、オペラ、オラトリオ、カンタータなど多くのジャンルにわたっている。

 オペラは1672年に処女作を書き、1679年にカプラ二カ劇場にデビューし、その翌年に今回上演の《イダルマ》を同劇場で上演した。

長くなるので、続きは、その2以降で。

このオペラはその後、イタリアの何カ所かでは再演されたようだが、初演からすれば、340年ぶりの蘇演ということになる(厳密に言うと、イタリアでの同時代の上演の最後が何年であったかによって変わってくるが、こちらの新聞やメディア報道では340年ぶりということが強調されていた。厳密性には欠けるが、おおよそのところでは間違っているというほどのことではあるまい)。

 

 

 

 

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2021年8月12日 (木)

Cafe' Zimmermann のコンサート

Cafe' Zimmermann のコンサートに行った(インスブルック、アンブラス城、スペイン広間)。

個々の演奏も上質であったが、プログラムの構成とそのプレゼンテーションが大変知的で魅力的だったので、やや詳しく紹介したい。

Cafe' Zimmermann というのは、もともとバッハの頃にライプツィッヒにあったコーヒーハウスの名前で、ドイツ語圏ではパブリックなコンサートはコーヒーハウスから始まったとのことだ。

この日の構成は4人でヴァイオリンが Pablo Valetti、フラウト・トラヴェルソがKarel Valter, ヴィオラ・ダ・ガンバがEtienne Mangot , チェンバロがCeline Frisch. (Celine はアクセント記号あり)。

ホームページにはテレマン、J.S.バッハ、C.P.バッハとのみ書かれていたが、3ユーロ出してプログラムを買ってみた。

前半がテレマン、J.S.バッハ、テレマン、休憩をはさんで、J.S.バッハ、C.P.バッハ、テレマンとなっている。バッハ親子と比較しつつテレマンの特長を浮かび上がらせる狙いかと思った。が、よく見ると、最初のテレマンのヴィオラ・ダ・ガンバのソロのためのファンタジアがG-Dur(ト長調)、J.S.バッハの一曲目トリオソナタがG-dur, J.S.バッハの2曲目はヴァイオリン独奏のパルティータこれがE-dur、テレマンの四重奏がE-moll だった(長調、単調は変わるがEである)。後半も同様で、J.S.バッハの平均律からB-Dur つづくC.P.バッハのトリオ・ソナタがB-Dur, しめくくりのテレマンの2曲は2曲ともA-Dur である。二曲ずつ調性を合わせていると気づいたが、実際の演奏ではその二曲が続けて演奏されるのだった。あたかも、休止符がはさまれているだけで、一つの曲あるいは一つの曲の2つの楽章であるかのように。

さらにこの2曲ずつの組み合わせは、調性をあわせているだけではなかった。一曲目がソロで二曲目は合奏なのである。最初はヴィオラ・ダ。ガンバの独奏、そして合奏、これでひとまとまり。次はヴァイオリンの独奏、そして合奏、これでひとまとまり。

こうして、同じ調(一組だけ長短に分かれるが)で独奏と合奏が対比される。独奏楽器が順繰りに変わっていくので、単独でのその楽器の響きも味わえる。あらためて、ヴァイオリンというのは、容積は小さいのに大きな音が鳴るし、よく通ることを実感した。アンブラス城のスペイン広間は奥行きの長い長方形なのだが、日本で通常みられるように短い方の一辺が舞台になっているのではなかった。長辺の途中に舞台を設営し、客は舞台を三方から取り囲む形。ぼくの席は、演奏者を横から眺める位置だった。この方向からだとヴィオラ・ダ・ガンバの弓使いは見えない。ネックに近い部分を指が動くのは見える。

独奏の時にその楽器の特性がわかるが、合奏になったときに4人でも別世界の豊かさ、音色の格段の多さを感じるのだった。独奏曲の魅力を否定するつもりはまったくないが、4つの楽器になると絡み方が2つの楽器、3つの楽器、4つの楽器と増減も可能だし、チェンバロやヴィオラ・ダ・ガンバがさらっと和音的な音型を弾いているときと、積極的にメロディーを弾く場合、あるいはまた激しい動きのあるフレーズを奏でる場合で表情の変化の幅も格段に大きい。それが実感できる。

さらに収穫だったのは、この合奏団の名前とも関係するが、J.S.バッハの独奏曲は精密に出来ていて聞き手の集中力を求めるところがあるが、テレマンやC.P.バッハは、もっとリラックスして聞ける社交的な音楽なのだということが自然に判るプログラムだった。コーヒーハウスで聞く音楽ということなのだろう。大バッハの場合、通奏低音の動きも精密に書き込まれていて、その動きを感じ取ると、瞬間瞬間の変化に耳をそばだててしまう。テレマンやC.P.バッハの場合、通奏低音はもうちょっとのんびりと同じ音型を繰り返したり、音楽的に積極的な意味をもたせずに流しているように聞こえる時間がある。そういった時、聞き手もリラックスしてのんびりと聞けるわけだ。それでいて、C.P.バッハは変化するときには不思議な大胆な転調をみせ、こちらをはっとさせることもある。

今回のコンサートでもそうだったし、このところC.P.バッハの魅力に気づき始めているのだが、おそらくこれは演奏や研究の趨勢とも関係があると思う。つまり、20年、30年前は、ロマン派につかりきった目、耳で、バロックやその前後の音楽を見ていた。そういう耳、目からすると、求心的なJ.C.バッハの魅力がわかりやすい。社交的な音楽は生ぬるく聞こえたろう。

ここ20年、30年の古楽の演奏や研究の進展にともなって、こちらも17世紀、18世紀の音楽、演奏に親しむようになった。そちらの側から下ってきたときのC.P.バッハは、ロマン派から遡ったときのC.P.バッハとは違って聞こえるのだ。

こういう社交的な音楽も面白いよ、ということをいろんな仕掛けのあるプログラムで気づかせてくれる洒落たコンサートだった。アンブロス城のこの大広間もこの城の一族の立像が壁画になっているのだが、こんな部屋でバロック音楽を聴くのはまことにふさわしいと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021年8月 9日 (月)

イタリアとオリンピック

イタリアは今回のオリンピックで10の金メダル、10の銀メダル、20の銅メダルを獲得し、史上最高の数であったが、日本へのオマッジョ(オマージュ)も様々なところに見受けられた。

オリンピック選手の持つスーツケースには、横書きではなく、縦書きでITALIAと書いてあり、しかもTは柱が一本になった鳥居を思わせるデザインである。

現在、イタリアのテレビで流れるスポットは、ジャーコブズ選手の100メートル走で、白黒画面でスローモーションなのだが、プッチーニの《蝶々夫人(マダム・バタフライ)》の〈ある晴れた日に〉が流れ、ジャーコブズが三色旗を背負う場面でカラーに変わる。Grazie Azzurri(ありがとう、イタリア選手)という文字が現れる。

今回のイタリアのユニフォームも日の丸をデザインに取り込んだものだったし、ずいぶん日本へのオマッジョは静かに、質の高いものだと感じた。

日本とは関係ないが、今回のオリンピックではイタリアのメダリストは5大陸すべての出身者がいるのだそうだ。イタリア・オリンピック委員会の代表が述べており、これはイタリ多民族化が進んでいることを象徴しているのである。

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2021年8月 7日 (土)

メディチ・リッカルディ宮

メディチ・リッカルディ宮に行った。

ここは以前に何度も見学しているので何をわざわざという感じでもあるが、エンリーコ・カルーソの舞台衣装展をやっているというので行ったのだ。今年はカルーソ没後100年なのである。

展示されているカルーソの衣装は3点で、《道化師》のカニオ役、《アイーダ》のラダメス、マスカーニの《イリス》のオーサカ役のもの。いずれも丁寧な作りで、生地も凝ったもの。現在の通常のオペラの衣装とは比較にならないものである。もう一つの部屋に3点展示があったが、その1つは三浦環が蝶々さんを演じる時に着た着物である。真っ赤で花や雲、波の刺繍がしてある。

展示数はいかにも少ない。衣装が6点と展示ケースに2つのスケッチがあるのみだ。そのせいか、建物の外にも派手に宣伝しているわけでもない。

ここで新しい体験は、グリーン・パス(ワクチン接種済みの証明)の提示だ。ヨーロッパの人は、入り口で係員にスマホでQRコードをしめしさらにIDカードを見せていた。スマホでなくて、印刷した紙のQRコードとIDカードを見せている人もいた。僕は、これが日本のグリーン・パスですと言って紙の証明書を提示し、それとパスポートを見せて同一人物のものであることを示し、無事に入ることができた。この手続きのため、入り口を通過してチケット売り場に行くまでに行列ができるのだった。

当分こういう手続きが各所で見られるのだろう。

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2021年8月 6日 (金)

ヴァレンティーノ・ロッシの引退

オリンピックたけなわで、イタリアの選手も競歩で金メダル、カヌーで銀メダルを獲得し、大きなニュースになっているが、そこへヴァレンティーノ・ロッシの引退が伝えられた。

ロッシはモトGPというバイクのレースの最高峰で9度チャンピョンになったイタリアではだれでも知っている人気者である。日本ではモトGP自体のメディアでの扱いが小さく、他の競技に較べて人気が高いとは言えないかもしれないが、たとえば自動車のレースと比較すると、バイクのレースは抜きつ抜かれつが頻繁に起こり、エクサイティングである。

ロッシが引退後に何をするかは明示されていないが、四輪(自動車)のレースに転じるかもしれない、と言われている。

 

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グリーン・パスポート

前に書いたことを修正しなければならないが、イタリアで8月6日からグリーン・パスポートが必要な範囲が変わった。

イタリアでは珍しいことではないが、法案が報道されると野党や労働組合などから批判や修正要求があったりする。場合によって

法案が修正されるのである。

当初は長距離列車に乗る場合、8月6日からグリーン・パス(イタリアでもヴェルデではなくグリーン・パスと呼ばれている)が必要とされていたが、9月からになった。

レストランやバールで屋内で飲食をする場合、劇場、映画館、会議場には8月6日からグリーン・パスが必要である。

グリーン・パスはいちいち見せないが、お店や郵便局に入るとき、マスク着用が求められる(図示や言葉で書いてある)し、レジや窓口でソーシャル・ディスタンスが求められる。床に印がつけられているし、皆、それを守っている。店員や郵便局員はマスクをしている。道行く人(路上)は、マスクをしている人が多いが、していない人もいる(持ち歩いてはいるものと思われる)。

イタリアは日本よりはワクチン接種が進んでいる(接種した人のパーセンテージが高い)のだが、デルタ型の感染力は強く、感染者は増加傾向にある。

また、イタリアも今は夏休みであるが、9月1日から教員はグリーン・パスまたはCovid19 の治癒経験あるいは検査の陰性を示さないと欠勤とみなされる。その状態が5日を越えると給与が払われなくなる。非常に厳しい措置である。

もちろん、接種を受けたい人は受けられる状態にあるからこそ、こんな法令が出せるわけである。逆に言えば、教職員の接種が終わることが想定できないうちに、対面授業を推進するというのは猪突猛進型の思考形態と思われる。

 

 

 

 

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2021年8月 5日 (木)

モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行

モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行(以下MPSと略す)は、ヨーロッパ最古、世界最古の銀行であるが、いまやウニクレディト銀行に吸収合併されようとしている。

もう何年も前にMPSは経営難に陥って、国の援助、増資がはいった。その結果、今では64%を国が所有しているのだが、EUによりそれは一定期間だけ認められた措置で、ずっとこのままでいるわけにはいかないのだ。しかもMPSは銀行のストレステストに通るためには、25億ユーロの増資が必要とされているのである。

ここ数日、政治問題となっているのはMPSがウニクレディト銀行に吸収される場合、今すぐにせねばならないのか、余剰人員は出ないのか(一説には6000人の余剰人員が出ると言われている)、MPSのシエナ本店の本店機能はどうなるのか、MPSというブランドをなくすべきではない、などなどの議論が出ている。

もとはと言えば、イタリアの銀行のビッグバンが起こったときに、銀行同士が合併した(日本も同じだ)。その時にMPSは、簡単に言えば失敗したのである。スペインのサンタンデル銀行からアントンヴェネタ銀行を買ったのだが、その価格はサンタンデルが取得した価格の数倍であった。その獲得のための資金を無理な融資で調達したところからMPSの経営がおかしくなったようだ。

MPSはシエナにとっては単なる銀行ではない。町の中核であった。もともと1990年代までは民営化もされておらず、シエナ市が所有する銀行であったのだ。民営化直後は市は銀行の半分を Fondazioneという形で所有していたのだが。

 

 

 

 

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イタリアの空港で

イタリアの空港での入国手続きで変わったこと。

グリーンパスポートがある場合、dPLF(EU Digital Passenger Locator Form)というもので、あらかじめ記入してプリントアウト(全部で3枚になるはず)しておくと、入国手続きがスムーズに進む。これを準備してない人は、空港職員に手渡された書式に手で書いていくしかない。

8月6日からは事情が変わるはずだが、私の場合8月2日に移動したので、空港からテルミニ駅、テルミニ駅からイタロという特急列車に乗るさいに特別なチェックは何もなかった。おそらく8月6日からはグリーン・パスポートのチェックが入るはずである。

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2021年8月 2日 (月)

イタリア入国

Covid19後、はじめてイタリアに入国した。

以前と変わったこと、変わらないことがある。

変わったことを中心に紹介したい。

8月1日のアリタリアで羽田を出発した。アリタリアという航空会社がもうじき新会社に姿を

変えるらしいことは覚悟の上だ。チケットは新会社に引き継がれるはずだが、最悪の場合は、新たに買い換えとなるだろう。

しかしその前に今回は滞在が半年強なのでビザが必要だった。ビザは三田のイタリア大使館に

赴いて書類を提出するのだが、ホームページを見るとネット上で予約ができるようになっているが

実際には電話での予約だけだった。イタリア大使館だけの話ではないのだが、ホームページやネット上の情報と

実際が一致しないことは、日本のワクチン関係でも何度も経験した。一つには、Covid−19の感染状況が変化し、

それに伴って規制やルールが変わるのだが、ネット情報を更新していない、と言う場合もあるだろう。

今回、イタリア側のお世話になる(なった)方と会って書類を提出する必要があったので、いつ(何月何日)イタリアへ来るのかということを

数ヶ月前から再三尋ねられたのだが、日本のワクチン接種は、先進国のなかで信じがたいほど遅遅として進まず、じりじりするばかりだった。

ようやく接種が高齢者以外にもまわるようになって私は3回予約を取り直した(より早い期日を求めてである)。それでも二回目接種のあと2週間で抗体ができるという基準からすると7月30日に抗体完成で、8月1日出発にはギリギリだった。

グリーンパスポート(ワクチン接種証明書)も、在住の自治体は、郵送でしか受け付けてくれず、郵送でしか送ってくれない。あらかじめ、なんどか直接受付、直接取りに行くことを至急の事情がある人には認めてほしいと電話で申し込んだが効果はなかった。他の自治体では即日交付が可能なところもあったが。。。

というわけで、7月28日になって、やっと飛行機を予約することができ、そこから毎日数十通のメール連絡を日本語、イタリア語でこなさねばならず、途中で眼がおかしくなった。やはり、一定時間の集中作業の後には、一定時間眼を休めることが必要なのだということを痛感。一度は

久しぶりに座ったままでめまいを経験し、長時間画面凝視の連続は危険、ところどころで休憩しましょう、と思い知った次第。

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ホテルの朝食

通常、このブログではホテルの朝食については書いてこなかった。

今回は、コロナの前後でどう変わったかという点で興味があったので書く。

フライトの関係で、ローマ・フィウミチ—ノ空港に接したヒルトンホテルに一泊。ここの朝食はかつては

なかなか豪華なビュッフェだった。

今回は、食べ物は自由に取れず、客が1人1人ならんで、係の人に、クロワッサン1つとかスクランブルエッグ、とか

オレンジジュースとか伝えて、係の人が取って渡す。つまり、客は食べ物の前に立つことは出来ない。食べ物ののった長テーブルが

四角になってその中庭に係の人がいるという感じ。

カフェやカプチーノその他は別のところで係の人に頼んでいれてもらう。

前と比較すると、選ぶことの出来る食材の種類は減った。自由にとることが出来ないのがやや不便だが、これは慣れるしかないのだろう。

客の動きをまったく自由にした場合の感染の危険性を思えば、このやり方は合理的だと思える。

 

 

 

 

 

 

 

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PCR検査

グリーンパスポートは幸い、イタリアやオーストリア政府が認めてくれた。ドイツも認めたようだ。

しかし7月29日にアリタリアに確認するとグリーンパスポートがあってもPCR検査の陰性証明が必要という。アリタリアのホームページにはこう書いてある(英語のサイトに飛ぶようになっている)と言っても、PCR検査が必要の一点張り。

泣く泣く、31日にクリニックで検査。3万8500円なり。

翌日空港に行くと、グリーンパスポートがあれば、PCR検査は不要だった!

ただし、チェックインの作業をしているのは、すべてJALの職員の方々だった。まわりは、イタリアのオリンピックチームの制服を着、エンポリオ・アルマーニのおそろいのスーツケースを持った集団がほとんど。

たまたま後ろに並んだ日本在住のイタリア人女性と話したが彼女もさんざん迷って結局PCRは受けなかった。もちろん彼女も搭乗できた。

アリタリアには旅行社からも連絡してもらったのだが、明確な答えがなかったのである。残念なことだ。アリタリアがもうじき解散して新会社になるらしいので、それどころではないのかもしれない。

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