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2021年5月29日 (土)

映画『私は隠れてしまいたかった』

イタリア映画祭2021『私は隠れてしまいたかった』(ジョルジョ・ディリッティ監督)をオンラインで観た。

アントニオ・リガブエという画家の一生を描いたもので、リガブエの画風は、晩年のゴッホの原色をつかった激しいタッチが似ていなくもない。その生涯も、ゴッホ的、山下清的な要素があって、社会的になかなか適合しがたいのだが、傑出した才能を持っていてやがてその才能が花開く、というのがあらまし。

映画の展開の仕方としては、最初にファシズム期(壁にムッソリーニの写真がかかっている)の医院で医者がリガブエを問診する形で、過去が回想されるのだが、それが次々に時間が飛んでいき、さらには、その問診よりも先に時間が進んでしまうので、枠構造とも言えない。観客が頭の中で時間を再構成する必要がある。

場所と言語の関係が興味深い映画で、最初はスイスで生まれ、いろいろ厳しい事情があって養子に出されるが、その後、イタリアに送還される。言語的には最初、なまりのきついドイツ語らしきものが出てきて(スイスのドイツ語なのだろうか?)、次にはなまりのきついイタリア語が出てくる。イタリア語の場合は、登場人物によって、かなり標準語に近い人となまりのきつい人がいる。イタリア語圏に限った話ではないが、標準語と方言の関係にはその中間もあるし、また同じところに住んでいてどれくらい標準語を話すかは、階層や教育歴との相関もある。

リガブエが思春期の時に、女の子に興味を持つと、母親が病気をうつされて死ぬかもしれないと言う。それを信じ続けるのだが、絵が売れるようになって車の運転手が雇えるようになると、彼から女性ほど良いものはないと言われ、目覚める。知り合いの宿屋?のふくよかな女性に憧れの気持ちをもつのだが、そこの女店主はリガブエが画家ということでまったくけんもほろろ、でリガブエの思慕の成就を妨害する。絵画の才能およびその稼ぐ力への評価の軸が、階層や個人によりまったく異なる点が、苦い味わいをもって描かれるが、それがまたリガブエの想像力、妄想力をかきたてているようでもあった。

言語のコントラストも興味深いが、都市部と農村部、双方の住人のコントラストも描き込まれている。イタリアの田舎の美しさを知らぬわけではなかったが、あらためて唖然とするばかりの光景がいくつもあった。

 

 

 

 

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