『ラ・ボエーム』
プッチーニ作曲の『ラ・ボエーム』を観た(東京・初台、新国立劇場)。
演出は粟國淳(敬称略、以下同様)。新国立劇場の定番。パオロ・カリニャーニ指揮、東京交響楽団。ミミは、ニーノ・マチャイゼ。ロドルフォ、マッテオ・リッピ。マルチェッロ、マリオ・カッシ。ムゼッタ、辻井亜季穂。ショナール、森口賢二。コッリーネ、松位浩。
粟國演出は、奇をてらったところがなく、素直にストーリーに入れるし、音楽への集中を全く妨げない。評者にとっては好ましいものだが、劇としての刺激を求める人にとっては物足りなく感じるかもしれない。
音楽への集中と言っても、楽曲への集中と演奏への集中に分かれる(無論、両者は実演においては密接に絡み合っているが)。今回は、楽曲への集中に傾いた。演奏が始まってしばらくは、自分にとって初めての指揮者カリニャーニ、ミミを歌うマチャイゼがどんな指揮者、歌手だろうという思いもあったのだが、なるほどこういうスタイルか、という一定の方向性が見えた時点でなぜか頭が切り替わった。カリニャーノは、何度か歌手がテンポを落とすのに付き合っていたが、途中でテンポを回復せずに行くので、そこはオケのみの部分でさっと戻して欲しかった。プッチーニは、スコアにここでロドルフォがミミにキスをする、と言った動作の指示、ここはラレンタンド(テンポを遅くして)と言った演奏上の指示を細かく、細かく過剰なまでに書き入れている。
そのことからもわかるのだが、プッチーニが心血を注いでいるのは、劇の自然な流れと音楽の進行を一致させることだ。だから、アリア的な曲を完結したアリア風に歌ってしまうのは問題が多いと感じる。それでは、そこが前後と隔絶してしまうからだ。1幕でアリア的なものといえば、「冷たい手を」と「私の名はミミ」であるが、ナンバーオペラのアリアとは異なり、プッチーニは冷たい手をの始まりは、同一音を繰り返す、つまりレチタティーヴォのように開始しているし、「私のなはミミ」でもvivo sola soletta のあたりでオケがなく、明らかにレチタティーヴォ的だ。マチャイゼの歌唱は、むしろしっかりアリア的に歌うことに注力していたような感じだった。先日テレビで観たスカラ座の『トスカ』におけるメーリ(カヴァラドッシ役)もそうだった。あえてそうするというチャレンジもあるであろうが、原則としては、レチタティーヴォ的な部分とアリア的な部分がソフトランディングできるように工夫してプッチーニは書いているし、伝統的な歌唱はそれを踏まえたものであった。
そのことを思い起こし、以後、曲がどう書かれているかに注意を傾けて聞いたのだが、この時代、ワーグナーの影響はイタリアでも強く、イタリアでもヴェルディの『オテッロ』以降は音楽劇としての構築の仕方が変容しており(とは言え、ヴェルディはすでに『リゴレット』の時点で従来のナンバーオペラを大きく逸脱しているわけだが)プッチーニはこうした経緯を踏まえた上で、しかしながら、レチタティーヴォともアリアともつかない部分がだらだらと続くことを巧妙に避けているわけだ。従来であったならばレチタティーヴォ(アコンパニャート)だった部分のオケの扱いでメロディー的要素を混ぜ、前後のアリア的部分との落差を小さくしている。そういう点でいつも感心するのは第一幕である。
今回は、演出の自然な運びに助けられて、第四幕まで感情的な流れが途切れず、四幕でのミミが過去を回顧する場面もくどくどしくなかった。これは指揮者とオケの品位ある演奏の手柄でもあると思う。メロディーと重ねるようにこれでもかと書いてある部分もプッチーニにはあってやりすぎるとちょっと胸焼けしそうになるのであるが、そこの塩梅がよかった。
プログラムで井内美香氏の「初演までの紆余曲折ー手紙や当時の批評からみた『ラ・ボエーム』」には、2015年に第1巻が刊行され刊行中のプッチーニ書簡全集が反映されていて、大いに参考になった。
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