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2020年2月20日 (木)

ヘンデル『トロメーオ』(1)

ヘンデル作曲のオペラ『トロメーオ』を観た(カールスルーエ、州立劇場)。

リブレットは・ニコラ(ニッコロ)・ハイムだが、これはドメニコ・スカルラッティのオペラ『トロメーオとアレッサンドロ』のカルロ・シジスモンド・カペーチェの台本にならったものと言う。

この台本が曲者だ。形式的にはオペラ・セリアで、トロメーオと言う王子がセレウチェと言う妻とともにエジプトから追放になる。追放したのは母クレオパトラだが、ジュリオ・チェーザレ(カエサル、シーザー)のクレオパトラとは別人。プトレマイオスとかクレオパトラは何世と言うのがついて何人もいるのだ。このオペラのクレオパトラは直接には出てこず、伝聞で間接的に出てくる。彼女は息子のトロメーオを追放して別の息子アレッサンドロを後継者にしようとしている。そこから舞台は始まる。

トロメーオが流されたキプロスで自分の運命を嘆いているところに、ある男が溺れて流れつく。よく見るとアレッサンドロである。憎しと思うが助ける。一方、キプロスの王の妹エリーザはトロメーオ(キプロスでは羊飼いオスミンを名乗っている)に心惹かれていて、自分の身分で羊飼いに恋することへの戸惑いがある。アレッサンドロは倒れて気がつくとエリーザが介抱していて、エリーザに心惹かれる。アレッサンドロは自分の身を明かす。

場面変わって、キプロスの王アラスぺの別荘。そこでセレウチェ(トロメーオの妻で、キプロスではデリアと言う羊飼いを名乗る)は夫を探しているが、アラスペがセレウチェに横恋慕する。セレウチェは夫一筋。

エリーザがオスミンの所にやってきて、オスミンは眠ってしまう。セレウチェがきて、彼が夫と気づくが、それをアラスペが覗き見ており、自分を拒絶しておきながら羊飼いふぜいと仲良くしおってと怒り、オスミンを殺そうとする。セレウチェは彼を起こし、逃げる。トロメーオはデリアなど知らぬと言うが、王はトロメーオを追放する。トロメーオはセレウチェが忘れられない。

第二幕

エリーザは、オスミンを探しているが、オスミンは自分がトロメーオだと明かす(ここらが台本としては不思議)。アラスペが来て、追放されたのにまだいるかと怒る。エリーザは、オスミンをデリアに会わせてみようと言う。トロメーオは妻に再開して喜ぶが、セレウチェはエリーザに

警戒してこんな男は知らないと言う。呆然とするトロメーオにエリーザは、自分を愛してくれれば命を助け、エジプトの王座に戻してあげると言う。トロメーオはセレウチェ一筋ではねつけ退場。エリーザ怒る。アレッサンドロがきて、アラスペからエリーザとの仲が認められたと喜ぶ。エリーザは、アレッサンドロにトロメーオ殺しを勧める。アレッサンドロ困惑。エジプト王には兄トロメーオがふさわしいと考えている。エリーザへの愛と彼女の要求の板挟み。

森の中。セレウチェとトロメーオが互いを探している。アラスペがセレウチェを見つけ抱こうとするがそこにトロメーオが割って入り身分を明かす。アラスペは激怒し、トロメーオを捕らえさせる。トロメーオは泣きながら妻と別れる。

第三幕

アレッサンドロは母クレオパトラの死の知らせを読み、兄トロメーオとともにエジプトに帰国しようと思う。トロメーオを捕らえたアラスペはアレッサンドロに兄を殺せと言う。アラスペはアレッサンドロが兄殺しを恐れているので別の人に殺させればいいと提案。エリーザはセレウチェにトロメーオを諦めるように迫る。そうすればトロメーオの命は助けると言う。トロメーオが来て、説得しようとするが言えない。トロメーオはセレウチェに彼女を失うなら死ぬほうがマシと言う。エリーザ怒ってセレウチェを連れ去る。トロメーオは連行される。

森の奥。アレッサンドロは連行されるセレウチェを見て、救出する。自分は味方だといい、トロメーオの救出に向かう。トロメーオはエリーザから渡された毒杯をあおる(ここで有名なアリア)。駆けつけたアレッサンドロは倒れたトロメーオを見て驚き、アラスペはこれでセレウチェは自分のものだと喜ぶ。エリーザはセレウチェ処刑の命令を出し、毒杯は睡眠薬にすり替えたと言う。目を覚ましたトロメーオはアレッサンドロが救出したセレウチェと再開し、二人は喜び合う。兄弟は和解し、セレウチェとともにエジプトに戻り王になることになる。めでたし、めでたし。(アラスペとエリーザはめでたいのか?)

最後の毒杯をあおる場面は音楽も深刻なのだが、そこからの展開は全く御都合主義で会場からは苦笑、失笑が漏れていた(ちなみに、会場には舞台上方に英語字幕とドイツ語字幕が上下に並んでいる)。

台本を書いたハイムはこの時点でいくつかヘンデルのオペラ台本をものしている。全部で9作(そのうち2作は共同執筆)もヘンデルのオペラの脚本(リブレット)を書いているのだ。」

評者に浮かんだ疑問がある。ハイムは、明らかに稚拙と思われるキャラクター設定(トロメーオは妻一筋、セレウチェは夫一筋で揺らぎがない。文学作品の登場人物としては面白みにかけよう)。主人公が毒杯をあおった後の、とってつけたようなハッピーエンドへのバタバタとした展開。アレッサンドロがいい人すぎるし、しかもそれを芝居の早い段階でタネあかししてしまっている。これって、従来のこうしたオペラのパロディなのではなかろうか。ロンドンの連中はゲラゲラ笑いながら見ていたのかも。ヘンデルの音楽は、ドラマの展開に沿って実に適切に心情を描き出すものとなっていて冗談音楽ではない。そこも、2通り考えられる。ニヤつきながらお笑いを語る芸人もいれば、苦虫を噛み潰したような真面目くさった顔で、おかしなジョーク、ブラック・ジョークを言う芸人もいる。ヘンデルがリブレットのパロディ性を認識しつつ、そうでない作品と同様の音楽を書いた、と言う可能性はどれくらいあるだろうか。

それを知るには、今思いつくのは、18世紀イギリスの演劇の風土を知ることだ。悲劇的要素と喜劇的要素を分離すると言うメタスタジオに代表される台本改革の大陸での動きはどれくらい共感されていたのか。あるいは、そんなん言うたかて、と敬して遠ざけられていたのか。

時代は遡るが、1600年代のシェイクスピアの芝居では、周知のように、悲劇にも喜劇的要素はふんだんに盛り込まれている。ただ、やはりここでは18世紀のイギリスの演劇シーンのチェックが必要だろう。すぐに結論は出ないので、いずれ調べてみたいと思う。

 

 

 

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