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2020年2月25日 (火)

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンの室内コンサート

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンの室内コンサートを聴いた(カールスルーエ、州立劇場小ホール)。

ゾリステンの全員が出るわけではなく、曲目がトリオ・ソナタが中心であったので、演奏者は4人から8人であった。しかし、プログラムが進むにつれて、4人が7人になった時、これはもうオーケストラだという感じがあった。量だけではなく、質の転換を感じるのだ。

この日のプログラムは前半が4曲、休憩を挟み後半3曲、アンコール1曲であった。

最初はアレッサンドロ・ストラデッラ(1639-1682)のシンフォニア  d-Moll 。 シンフォニアといってもヴァイオリンとチェロと通奏低音のためのシンフォニアであり、通奏低音をテオルボとチェンバロが担当していたので奏者は合計4人。名前はトリオ・ソナタではないのだが、実質上、トリオ・ソナタのようなものだ。

次はジョヴァンニ・ベネデット・プラッティ(1697-1763) のトリオ・ソナタ D-dur. ヴァイオリンとチェロと通奏低音のためのトリオ・ソナタで、編成は前の曲と全く同じ。通奏低音を1人で演奏することもあるだろうし、2人で演奏することもあるようだ。

3曲めはヘンデルのトリオ・ソナタ、F-dur。バイオリン2丁とチェロとチェンバロ。4曲目はプラッティでトリオ・ソナタ B-dur. ここではバイオリン、チェロ、チェンバロの他に、ヴィオローネが加わった。ヴィオローネは大雑把に言えばコントラバスのような楽器であるが、大きさも弦の数も不定だった。この日のヴィオローネはかなり使い込まれたとおぼしき、なで肩の楽器で、弦は5本。ちなみにチェロもエンドピンは付いていない。ヴィオローネはなんともふわっとした音色で柔らかく音楽の進行をサポートするかと思えば、ダンダンダンと低いリズムを刻む。これをステレオ(スピーカー)で再現するのは難しいだろうな、と思った。いわゆるドンシャリのドンではないのだ。

室内楽では、よくあることだが、予習でCDやyou tube で聞いていると、のんびりとして、間が抜けていて、エクサイティングでないなあと思うのだが、実演を聞くとずっとワクワクすることがある。同じ旋律を二丁のヴァイオリンで受け渡す時、生だと、奏者によって音色の違いやアタック音、フレージングの違いがよくわかる。音源の分離は最高度である。旋律自体が、挨拶や日常会話を交わしているような穏やかなものでも両者の間の測り合う感じが伝わってくるのだ。

休憩が入って後半の方が相対的に華やかな曲が多かった。

後半の冒頭はプラッティのトリオ・ソナタ  C-Moll でオーボエ、チェロ、チェンバロ、テオルボだった。全体が20−30人のオケでオーボエが1−2人いるときは感じないのだが、全体が4人だとオーボエの音は大きい。またオーボエが入ることによって音色の複雑さが格段と増す。

後半第二曲はヴィヴァルディのトリオ・ソナタ C-Moll. これが意外だった。ヴィヴァルディらしくない、いつも聴き慣れているヴィヴァルディの流麗さと、その中に憂いを帯びた感じがない。これがドイツ風ヴィヴァルディか。ヘンデルをこれだけ見事に奏でる人たちだから時代様式や指が回る回らないのテクニックが問題なのではない。イタリア人だとこれが逆で、ヴィヴァルディは水を得た魚のように生き生きと弾くのだけれど、ヘンデルはなんか違う癖があってちょいと弾きにくそうなことがある。こういうローカリティを発見するのも、またいいものだ。〇〇合奏団が世界一とかいうレッテルの無意味さがわかるというものだ。

最後は再びプラッティで協奏曲in D-dur. チェロ独奏、ヴァイオリン2丁、ヴィオラ、チェンバロ、テオルボ、ヴィオリーノ。7人なのだが、まさにチェロ協奏曲という趣きを感じた。アンコールはヘンデルのシンファニアを8人全員で。

こうやって聞いてくると、3、4人のトリオ・ソナタも良いのだが、やがてオーケストラが全盛になっていくのもわかる気がする。7人、8人になった時に、ぐっと音楽が壮麗で華やぐのである。

 

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2020年2月24日 (月)

ヘンデル『セルセ』(再)

ヘンデル作曲のオペラ『セルセ』を観た(カールスルーエ)。

今回は、舞台向かって右手の前の方だったので、ツェンチッチ演出で使用する張り出し舞台が目の前という感じであった。

ここは第一幕の冒頭でセルセ・ショーという歌あり踊りありのエンターテイメントを演じている時の楽屋裏であり、その後もメインの舞台と

別の場所(例えばセルセとアリオダーテが電話をしている)にいることを明示するための場所なのだが、座席の関係でここで歌うと、僕の座席からごく近いので迫力があった。人物の存在も生々しくなることは言うまでもない。歌舞伎の花道がそうなわけだが、単純な額縁舞台以外の要素をどう取り入れ、どう使うかも演出家の工夫の一つだが、ツェンチッチのこの工夫は機能していたといえよう。

指揮のぺトルゥは全く見事な指揮で、彼の指揮ぶりそのものが音楽的で指揮(指示)を見て、出てくるオケの音の表情を聴いているだけで十二分に満足できるレベルなのだ。弦楽器に滑らかに奏でさせるところ、アタック音をざらつかせるところ、リズムの刻みを強調するところ、そういった区別、組み合わせが絶妙で、聞き慣れた曲から新しい表情が生まれるのだが、それがこれ見よがしではなく、ああ、こういう可能性が埋もれていたのだと気づかせ、深く納得させられるのである。

その一方で、この指揮者は、歌手への配慮が行き届いていて、前奏でダッシュして入っても、セルセ役のハンセンがテンポを落とせばそれに合わせ、またオケだけになるとテンポを戻す。こう書いてしまうと、テンポがメチャクチャになっているように聞こえるかもしれないが、2つのテンポを駆使しながら曲の枠組みはすこしも揺らぐことなく進んでいく。端倪すべからざる才能の持ち主だ。

スノウファーの歌は声質も表現も見事だった。ツェンチッチは兄王に許嫁を奪われる悲哀を遅めのテンポで嫋嫋と歌い上げていた。アマストレ役とアタランタ役の歌手は、演技を含めての歌で見どころ、聴かせどころを作っていた。パルランテを上手く生かして場面に合わせた演技、歌になっていてお芝居として大いに楽しめルもので、観客の笑いを誘っていた。

この日は上演後にサイン会があるせいかカーテンコールは短めで初日の時の合唱アンコールはなかった。またハンセンのお尻丸見えはアクシデントだったようでこの日は無事???パンツを履いたままでした。

 

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ヘンデル『トロメーオ』(再)

ヘンデル作曲のオペラ『トロメーオ』を再び観た(カールスルーエ)。

前回はやや舞台から遠く上の方だったが、今回は舞台に近い。この劇場は古典的な馬蹄形の劇場ではないので、平土間と桟敷席に分かれているわけではない。比較的左右の幅が広く、二階(これも厳密に一階と分かれているわけではない)部分と重なる席は最小になっている。舞台向かって左の3列目には車椅子用の列があることに感心した。障害者の席が後ろの方の座席にあるのは日本でも見たことがあるが。車椅子の直後の座席は車椅子の人と同じ高さ(通常の部分は前席と後席が階段状になっているが、この席は車椅子の移動しやすさのため平らになっている)だから舞台が見えにくくなる。僕の席は、車椅子用の直後なのだが、たまたま車椅子の方がいなくて空いた状態になっていた。

ここで観ると(聴くと)前回よりもオルリンスキーの表現の細部がよくわかった。レチタティーヴォはやはり声を張り上げるわけではないので距離が離れると細部がぼけやすいのだ。全体として、セルセを歌っている歌手たちの方が声量が大きいように思う。キャリアも違うのだと思うが。オルリンスキーは、表現の細部の詰めがやや緩いのだが、流れにそってメリハリはついている。

舞台装置は豪華である必要はないのだが、衣装が現代服でしかもカジュアルなのは残念だった。舞台に登場人物が椅子に座ったりして、背を向けてはいるが居続けるのも意味不明。衣装がそれなりなのは、エリーザのみなのだ。音楽に集中すべき舞台である。ならCDでも良いか、というとさにあらず。ここのオーケストラは大変優秀でかつ古楽器(ピリオド楽器)を使っていて、それを生の音で聴けるのは貴重である。

セルセと比較するとトロメーオは登場人物が少ない。5人しかいない。合唱団もいない。最後に登場人物が一緒に歌うだけである。前にも書いたがレチタティーヴォはほとんどなくアリアやアリオーソが続くが駄曲がない。あとは指揮者、歌手次第だ。今回の歌手は5人の歌手のレベルの凸凹が少ない点はよかった。最後に近い Stille amare のテンポは歌手が求めたのか、指揮者が指定したのか、どちらだろうか。個人的にはもうすこし早くい方が良いと思った。そこだけ浮いてしまう、という印象を受けた。

 

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2020年2月23日 (日)

『セルセ』

ヘンデル作曲のオペラ『セルセ』を観た(カールスルーエ、州立劇場)。

セルセの台本(リブレット)は、作者不明だ。元々はカヴァッリの『セルセ』の為にニコロ・ミナートがリブレットを書き、その後、

ボノンチーニ作曲の『セルセ』の為にシルヴィオ・スタンピリアがリブレットを改定した。それをさらにヘンデルの『セルセ』の為に誰かが改定したのだが(主にレチタティーヴォを短くしたらしい)それが誰かは不明なのだ。

今回の上演は、昨年とほぼ同じ。指揮はジョルジョ・ペトルゥ、演出ツェンチッチ。タイトル・ロールが昨年はファジョーリだったのが、今年はデイヴィッド・ハンセン。ロミルダはローレン・スノーファー、セルセの弟アルサメーネはツェンチッチ。セルセの婚約者アマストレはアリアーナ・ルーカス。ロミルダの妹アタランタはキャスリーン・マンリー。

歌手はデイヴィッド・ハンセンを除き、昨年と同じ。スノーファーは去年よりずっと成熟した歌を聞かせていた。声量も十分あるし、それぞれの歌で実に的確に表情をつけていたし、アジリタも問題なし。さて注目すべきはハンセンだが、期待よりずっと良かった。ツェンチッチの演出ではセルセは1970年代のロックスターで歌の売り上げが伸びて大得意といったキャラクターなのだが、そういう単純さとか、ロミルダの気持ちをなかなか読み取れず一人よがりだったり、アタランタの策謀にコロッと騙されるそういうキャラになりきっていた。ファジョーリの場合歌の細部に神経が行き届いているためかここまで単細胞なキャラのリアリティが微妙に歌の精妙さで突き崩される部分がある。それに対し、ハンセンは声の特徴として、高い音はパーンと強い音なのだが、その下の部分ががくんと響きにくく歌詞も聞き取りずらい。音がメロディにそって高くなるとあるところでスフォルツァンドが必ずかかるのだ。ンンンウォン!という感じ。ファジョーリの隅々まで音色のコントロールまで神経が行き渡っている歌とは別物だ。しかしその荒さがこの演出にはふさわしい面も多々あると感じ、演劇的には大いに楽しめた。二幕でロミルダに迫る場面では、後ろ向きだったがお尻丸出しになる場面があり、あれは演出が去年に比べヒートアップしたのか、それともアクシデントだったのか、もう一度見てみないとなんとも言えない。二幕は麻薬や同性愛カップルが道端でオーラルセックスを示唆する仕草などがあり、拍手とブーイングが入り混じった。ブーイングは演出に対するものかと思われる。三幕ではブーイングはなかった。

改めて、ペトルゥの指揮は、断然素晴らしい。アリアの中できちっと枠を作っておきながら歌手の自由を与え、しかしテンポは巧みに戻す。またスロウな曲の後に、劇的な曲が来た時の猛烈なアタック、ダッシュが同じオケかと思うほど、エッジが立ってゾクゾクとする音を聴かせる。この人の手にかかると、ビオラやチェロの伴奏的音形が音楽的に意味を持った生き生きとしたものに聞こえる。内声が充実してくるから、旋律も生きる。これほど優れた指揮者に出会えた幸せを感謝。

カーテンコールの最後に、終幕の合唱のワンコーラスをオケと合唱団でアンコールしたのは指揮者の粋なはからいだった。

 

 

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2020年2月21日 (金)

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのコンサート

ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのコンサートを聴いた(カールスルーエ、州立劇場、大ホール)

指揮はジョリー・ヴィニカー(Jory Vinikour).シカゴ出身で1990年からはパリ在住とのこと。チェンバロを弾きながら指揮をする。チェンバロは、非常にテンポが速く、細かい微細な表情よりは曲の進行がどんどん進むことによって曲の形をあらわにすることを良しとする弾き方だ。指はおそろしくまわる。

この日のプログラムは前半、後半に分かれて1回の休憩。各曲の前にこの音楽祭の芸術監督ミヒャエル・フィヒテンホルツ氏のユーモアに富んだ解説が入る。

前半は、ヘンデルのオペラ『ロドリーゴ』から序曲、レンテメンテ、ジーグ、サラバンド、ブレー、マテロ、パッサカリア。管弦楽のみでの演奏である。次はジャン・フィリップ・ラモーのオペラ『イポリートとアリシ』から序曲、マーチ、ガヴォットI&II,恋するナイチンゲール、シャコンヌ。恋するナイチンゲールは本来ソプラノが入るのだが、その部分は今回は独奏ヴァイオリンによって演奏された。ヘンデル・ゾリステンによるラモーは独特である。フランス風のそれと比べると、線が太いというか強い線で描かれている。メロディを描くときの筆圧が強い感じなのだ。その分、どっしりと荘重になる。しかし、そうは言っても、現代オケではないから、バロックの響きな訳で、そこが独特の味わいなのである。

後半は、バッハ親子のチェンバロ協奏曲。もう少し正確に言えば、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(大バッハの長男)のチェンバロと弦楽と通奏低音のための協奏曲、F.41  とヨハン・セバスチャン・バッハのフルート、チェンバロと通奏低音のための協奏曲 BWV 1050(1852)(いわゆるブランデンブルク協奏曲第5番)。フリーデマン・バッハは初めての経験だったが、非常にチャーミングな音楽で心を奪われた。編成もそうなのだが、バッハから受け継いだものにヴィヴァルディ的な要素が加わった感じなのだ。流麗で、ところどころ愁いにとみ、不思議な転調にハッとさせられる。ハレのバッハと呼ばれているが、ハレの有力者とはうまく行かなかったようだ。これからもっと彼の作品を聴いてみたいと強く思った。

ブランデンブルクになると、楽団員の動きが身体的にも、音楽的にも明らかに違う。自分たちの自家薬籠中の音楽を自信を持って弾いているという感じがありありとある。リズムが跳ねている。こちらもそれに身体を揺すぶられる。自分が知らなかった曲の新しい魅力を教えてもらうのもいいものだが、こういう定番を真正面から直球勝負も心地よい。バッハ親子、それぞれに大満足です。

アンコールはヘンデルのオペラ『忠実な羊飼い』からシャコンヌ。管弦楽の演奏。二曲目はドメニコ・スカルラッティのチェンバロ曲K535を指揮者が嵐のようなスピードで駆け抜けるように弾いた。

名人芸を楽しませると同時に、ヘンデルを中心として同時代、前後への目配りの行き届いたインテリジェントなプログラムでもある。この長所は、この音楽祭のすべてのプログラムに通底している。そこもこの音楽祭の素晴らしいところだ。今年はマスタークラスがないのが少し寂しいが。

 

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ヘンデル『トロメーオ』(2)

ヘンデル『トロメーオ』(カールスルーエ)の続き。

指揮はフェデリーコ・マリア・サルデッリ。トロメーオはヤクブ・ヨゼフ・オルリンスキ。現在人気の歌手である。セレウチェはルイーズ・ケメニー。エリーザはエレオノーレ・パンクラーツィ。アレッサンドロはメイリ・リー、中国人である。アラスペはモルガン・ピアース。彼だけがバス。演出は、バンジャマン・ラザール。

指揮はかなりカッチリとした棒で、歌手にほとんど自由を与えず決めたテンポでグイグイ行く。個人的には、もう少し、曲の中間部では手綱を緩めて歌手に表現の工夫の余地を与えても良いかと感じた。ただし、彼のような指揮の場合、曲の音楽的構造は極めて明確になるし、テンポがダレてしまうことは決してない。歌手の方からいえば、言葉や曲想に合わせて細かなニュアンスを付加することが困難になる。もっともニュアンスを過剰に付けようとする歌手は往々にしてテンポが遅くなり、様式感も崩れてしまったりすることもあるので、このバランスをどうとるのかは肝心でかつ困難な問題なのだと思う。サルデッリは、ある意味で、ストイックな指揮ぶりだったわけだが、会場ではそれが大いにうけていた。

トロメーオのオルリンスキーは、人気が高いのは知っていたが、舞台を見るのは初めてで、容姿や歌いぶりからある程度人気が出るのは無理もないとも思ったし、オペラは興行だから、誰か大スターがいることは必要なので、誰がスターでも良いので、日本でも誰かバロック・オペラのスターとして認識され、バロック・オペラの上演が今よりずっと頻繁になってくれればと思う。この日の演出では、トロメーオは王子なのだが、流浪の身で、羊飼いに身をやつしているところをさらに現代化したのか、工事人か配達人か何かの労働者風に見えた。セレウチェはペロッとした1枚のネグリジェ風ドレス(ドレス感は最小)。キプロスの王はタキシード風。妹のエリーザはワンピースで登場人物の中で最もブルジョワ的だった(と言うのも変な話なんだが)。アレッサンドロも、上下の色がちぐはぐでカジュアルというか、全く王子らしくはない服装だった。舞台の真ん中に砂場のような四角く窪んだ空間がある。舞台転換がほとんどなく、舞台の上手、下手を移動すると別の場所ということになっていた。その意味では象徴的な空間である。 二幕以降、部屋の壁とおぼしきところに海、波の映像が投射されていた。

エリーザというのが心の揺れもあり、なかなか見所の多い登場人物であるが、コルシカ出身のパンクラーツィは確かな技巧とメゾらしい深みのある声で聞かせていた。彼女はテンポが速くなっても細かいニュアンスをそこに流し込めるところが見事。王アラスペのモルガン・ピアースも堂々とした歌いぶりが役柄にふさわしく、声量もたっぷりあって喝采をうけていた。オルリンスキーはちょっと疲れているのか、そこそこ高いレベルが続くのだが、ここで決めるという感じに欠けるところがあった。所作もフツーに動いていき、決めポーズ的なものはない。もっと様式美に覚醒してくれると良いのだが。。。

『トロメーオ』はレチタティーヴォがほとんどなくて、アリア、アリオーソでつながれていき、メロディのある音楽にあふれている。聴いて楽しいオペラである。

 

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2020年2月20日 (木)

ヘンデル『トロメーオ』(1)

ヘンデル作曲のオペラ『トロメーオ』を観た(カールスルーエ、州立劇場)。

リブレットは・ニコラ(ニッコロ)・ハイムだが、これはドメニコ・スカルラッティのオペラ『トロメーオとアレッサンドロ』のカルロ・シジスモンド・カペーチェの台本にならったものと言う。

この台本が曲者だ。形式的にはオペラ・セリアで、トロメーオと言う王子がセレウチェと言う妻とともにエジプトから追放になる。追放したのは母クレオパトラだが、ジュリオ・チェーザレ(カエサル、シーザー)のクレオパトラとは別人。プトレマイオスとかクレオパトラは何世と言うのがついて何人もいるのだ。このオペラのクレオパトラは直接には出てこず、伝聞で間接的に出てくる。彼女は息子のトロメーオを追放して別の息子アレッサンドロを後継者にしようとしている。そこから舞台は始まる。

トロメーオが流されたキプロスで自分の運命を嘆いているところに、ある男が溺れて流れつく。よく見るとアレッサンドロである。憎しと思うが助ける。一方、キプロスの王の妹エリーザはトロメーオ(キプロスでは羊飼いオスミンを名乗っている)に心惹かれていて、自分の身分で羊飼いに恋することへの戸惑いがある。アレッサンドロは倒れて気がつくとエリーザが介抱していて、エリーザに心惹かれる。アレッサンドロは自分の身を明かす。

場面変わって、キプロスの王アラスぺの別荘。そこでセレウチェ(トロメーオの妻で、キプロスではデリアと言う羊飼いを名乗る)は夫を探しているが、アラスペがセレウチェに横恋慕する。セレウチェは夫一筋。

エリーザがオスミンの所にやってきて、オスミンは眠ってしまう。セレウチェがきて、彼が夫と気づくが、それをアラスペが覗き見ており、自分を拒絶しておきながら羊飼いふぜいと仲良くしおってと怒り、オスミンを殺そうとする。セレウチェは彼を起こし、逃げる。トロメーオはデリアなど知らぬと言うが、王はトロメーオを追放する。トロメーオはセレウチェが忘れられない。

第二幕

エリーザは、オスミンを探しているが、オスミンは自分がトロメーオだと明かす(ここらが台本としては不思議)。アラスペが来て、追放されたのにまだいるかと怒る。エリーザは、オスミンをデリアに会わせてみようと言う。トロメーオは妻に再開して喜ぶが、セレウチェはエリーザに

警戒してこんな男は知らないと言う。呆然とするトロメーオにエリーザは、自分を愛してくれれば命を助け、エジプトの王座に戻してあげると言う。トロメーオはセレウチェ一筋ではねつけ退場。エリーザ怒る。アレッサンドロがきて、アラスペからエリーザとの仲が認められたと喜ぶ。エリーザは、アレッサンドロにトロメーオ殺しを勧める。アレッサンドロ困惑。エジプト王には兄トロメーオがふさわしいと考えている。エリーザへの愛と彼女の要求の板挟み。

森の中。セレウチェとトロメーオが互いを探している。アラスペがセレウチェを見つけ抱こうとするがそこにトロメーオが割って入り身分を明かす。アラスペは激怒し、トロメーオを捕らえさせる。トロメーオは泣きながら妻と別れる。

第三幕

アレッサンドロは母クレオパトラの死の知らせを読み、兄トロメーオとともにエジプトに帰国しようと思う。トロメーオを捕らえたアラスペはアレッサンドロに兄を殺せと言う。アラスペはアレッサンドロが兄殺しを恐れているので別の人に殺させればいいと提案。エリーザはセレウチェにトロメーオを諦めるように迫る。そうすればトロメーオの命は助けると言う。トロメーオが来て、説得しようとするが言えない。トロメーオはセレウチェに彼女を失うなら死ぬほうがマシと言う。エリーザ怒ってセレウチェを連れ去る。トロメーオは連行される。

森の奥。アレッサンドロは連行されるセレウチェを見て、救出する。自分は味方だといい、トロメーオの救出に向かう。トロメーオはエリーザから渡された毒杯をあおる(ここで有名なアリア)。駆けつけたアレッサンドロは倒れたトロメーオを見て驚き、アラスペはこれでセレウチェは自分のものだと喜ぶ。エリーザはセレウチェ処刑の命令を出し、毒杯は睡眠薬にすり替えたと言う。目を覚ましたトロメーオはアレッサンドロが救出したセレウチェと再開し、二人は喜び合う。兄弟は和解し、セレウチェとともにエジプトに戻り王になることになる。めでたし、めでたし。(アラスペとエリーザはめでたいのか?)

最後の毒杯をあおる場面は音楽も深刻なのだが、そこからの展開は全く御都合主義で会場からは苦笑、失笑が漏れていた(ちなみに、会場には舞台上方に英語字幕とドイツ語字幕が上下に並んでいる)。

台本を書いたハイムはこの時点でいくつかヘンデルのオペラ台本をものしている。全部で9作(そのうち2作は共同執筆)もヘンデルのオペラの脚本(リブレット)を書いているのだ。」

評者に浮かんだ疑問がある。ハイムは、明らかに稚拙と思われるキャラクター設定(トロメーオは妻一筋、セレウチェは夫一筋で揺らぎがない。文学作品の登場人物としては面白みにかけよう)。主人公が毒杯をあおった後の、とってつけたようなハッピーエンドへのバタバタとした展開。アレッサンドロがいい人すぎるし、しかもそれを芝居の早い段階でタネあかししてしまっている。これって、従来のこうしたオペラのパロディなのではなかろうか。ロンドンの連中はゲラゲラ笑いながら見ていたのかも。ヘンデルの音楽は、ドラマの展開に沿って実に適切に心情を描き出すものとなっていて冗談音楽ではない。そこも、2通り考えられる。ニヤつきながらお笑いを語る芸人もいれば、苦虫を噛み潰したような真面目くさった顔で、おかしなジョーク、ブラック・ジョークを言う芸人もいる。ヘンデルがリブレットのパロディ性を認識しつつ、そうでない作品と同様の音楽を書いた、と言う可能性はどれくらいあるだろうか。

それを知るには、今思いつくのは、18世紀イギリスの演劇の風土を知ることだ。悲劇的要素と喜劇的要素を分離すると言うメタスタジオに代表される台本改革の大陸での動きはどれくらい共感されていたのか。あるいは、そんなん言うたかて、と敬して遠ざけられていたのか。

時代は遡るが、1600年代のシェイクスピアの芝居では、周知のように、悲劇にも喜劇的要素はふんだんに盛り込まれている。ただ、やはりここでは18世紀のイギリスの演劇シーンのチェックが必要だろう。すぐに結論は出ないので、いずれ調べてみたいと思う。

 

 

 

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James Hall & Mahan Esfahani リサイタル

James Hall と言うカウンターテナーのリサイタルをMahan Esfahani のチェンバロ伴奏で聴いた(カールスルーエ、クリストゥス教会)。

このリサイタル、予定ではカウンターテナーが Cameron Shahbazi のはずだったが、病気のため、急遽、James Hall に変わった。町ではShahbazi とEsfahaniの並んだポスターを見かけた。開演前の主催者側の挨拶でHallが与えられた日数は3日だったと言う意味のことを言っていたと思う。

曲目が大幅に変更になるのかと思ったら、ほぼ予定通りで、何曲かが省略されただけだったのは、Hall の力量をたたえねばなるまい。

Hall はRoyal College of Music で学び、グラインドボーン音楽祭では、ヘンデルの『リナルド』の魔術師クリスティアーノでデビューしたと言う。

非常に透明感のある声で、かつ高音域に素直に伸びていく。聴いていて気持ちの良い声である。音楽表現は曲によるし、今回は準備期間が特殊事情で短いのでそのあたりを考慮しなければいけないと思うが、パーセルなどは綺麗に聞かせようと言う傾向がうかがわれ、ヘンデルにおいてはやや劇的な表現を取っていた。もともとの曲にそう言う違いがあるとも言える。パーセルでは半音階的な進行の際に、音色の変化を加え、豊かな表情を与えているのが印象的だった。

チェンバロのMahan Esfahaniは以前に同じところでリサイタルを聴いたがイラン出身のチェンバロ奏者で、流麗さを追求すると言うよりは、構築的にバリバリと弾き進めるタイプである。教会という場所からそうなるのは必然なのだが、残響がとても長く、歌手にとってはバロック曲は歌いやすい面があると思うがチェンバロは速いパッセージになると音がかぶってしまうのだった。

プログラムは、

Antonio Caldara (1670-1736) のSoffri, mio caro Alcino,  Henry Purcell(1659-1695) のMusic for a while, One charming night,  John Blow (1649-1708)のA Pastoral Elegy,  チェンバロで Johann Pachelbel (1653-1706)のCiaconna, G.F. Handel (1685-1759)のVedendo Amor (HWV175), PurcellのIf music be the food of love, Eegy on the death of Mr John Playford, チェンバロでDomenico Scarlatti (1685-1757)のSonata K87, K534, Handel のSon stanco, ingiusti Numi...,  Deggio morire, o stelle (Siroe から)。

その他、アンコールが2曲。

盛大な拍手を浴びていた。

 

 

 

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2020年2月18日 (火)

映画『蜜蜂と遠雷』

映画『蜜蜂と遠雷』を観た。

この映画は日本映画として画期的!なところがいくつかある。

ストーリは単純でピアノコンクールの参加者たちの葛藤。

画期的なことの1つは、課題曲、春と修羅のカデンツァをピアニストたちが

それぞれに作って弾くわけだが、これが藤倉大の作曲したもので、本格的なクラシック音楽(の伝統に沿った現代曲)であること。

また、コンテンスタントが決勝で選ぶ曲がプロコフィエフのピアノ協奏曲2番、3番や、バルトークの

ピアノ協奏曲の第3番なのだ。

もちろん、現代曲に慣れ親しんでいる人から見れば、古典中の古典だ。

しかし、今でも日本の現実の音楽コンクールなどではベートーヴェンやチャイコフスキーやブラームスの

コンチェルトで競われていて、バルトークのバイオリン協奏曲を弾いた女性もいたがむしろ例外的だ。

どうにかラベルのピアノ協奏曲あたりまでなのである。無論、ラベルのピアノ協奏曲は名曲であることは言うまでもない。

しかし、20世紀ならではの、鋼鉄の叙情を叩き出したのはプロコフィエフやバルトークではなかったか。

この映画を機に、プロコフィエフ、バルトークの音楽を楽しんで聞く人が爆発的に増えてほしい。

バルトークのピアノ協奏曲の第3番は、アメリカに行ってからの作曲で、抑制がききつつもノスタルジックな思いにみち

た2楽章、終わり方がこの上なくスタイリッシュな第3楽章といい名曲中の名曲であると思う。

商業ベースの世界であまり取り上げられないこうした楽曲を前面に取り上げている点でこの日本映画は日本映画史上に燦然と輝く存在となるだろうと夢想する。そう、ピアノ協奏曲で素晴らしいのはショパンやチャイコフスキーやブラームスで終わってしまったわけではないのです。

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日々是好日

樹木希林の最後の映画『日々是好日』を観た。

評者は茶道の心得が全くない、と言う立場からの感想であることをお断りしておく。

面白かったのは、型について。主人公とその従姉妹がお茶を習い始め(その先生が樹木希林)、最初は細かい所作に戸惑うし、何の意味があるのかとも思うのだが徐々に考えなくても手が動くようになってくる。型とか様式とはそう言うものだ。お稽古に来ている人が女性ばかりなのも、おそらくは現実を反映しているのだろうが、日本の伝統文化としてため息をつくしかない。

台本的には主人公の女性をめぐる男性関係がナレーションのみで済まされていて、味気なくさみしい。カメラワークも、もう一つ独自の

美意識を開陳してくれると良かったかと思う。主人公や従姉妹がお茶の先生宅に行くところなども、フツーに説明的なのだ。

型は大事、と言うのと、季節とともに茶事の所作も変わる、と言うところに収斂してしまうのは、もったいない気がした。

 

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映画『シュターン夫人』

アナトール・シュスター監督、アハマ・ゾンマーフェルト主演、「シュターン夫人」を観た。機内でドイツ映画の選択肢はこれだけだったのだが、

渋い面白さのある映画ではあった。

主人公は90歳の老婦人(今日では何歳から老をつけて良いのか良くないのか、どんどん後ろにずれていて、60代なら子供から見れば老人なのだが大人の世界に入ると、60代ではまだまだ70代、80代は層が厚く、90代も決して珍しくない現今で、中年くらいの感じが強いのではないか)がフラフラと生きている物語。

 冒頭からこのひと、もう生きているのが嫌になったから死にたいと思うのだが、なかなか銃が手に入らない。このあたり物騒だから、と言う理由を述べると、じゃ催涙ガスがいいでしょう、と言われてしまうのだ。淡々としたユーモアの中で、近所の訪問床屋からマリファナを作ってもらったり、娘や孫娘との交流が描かれる。ありがちだが、孫娘は母親には本音を言わず、祖母には本心を吐露するのだ。祖母は、一歩引いた所にいるから、あれしろ、これはするなと言う物言いはしないのである。

 いかにもドラマチックなことはあまり起きないのだが、不思議と退屈はしない映画だった。

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映画「バングラ」

イタリア映画「バングラ」を観た。

機内であったが、日本語字幕付き。主人公は、両親がバングラデッシュ人だが本人はイタリア生まれのイタリア育ち。

ローマの郊外の移民の多く住む地域に住んでいて、自分の入り組んだアイデンティティーを強く意識している。

全体としてくくればコミカルば恋愛映画と言えないこともない。主人公ファイムの友人は同じようなバングラデッシュ系の

若者ばかりで、民族系のバンド活動などもしているのだが、仕事としては美術館の監視員をして、フラッシュを焚かないでください、とか

線を超えて美術作品に近づかないでください、といった注意をしている。

そこで非バングラデッシュ系の、フツーのイタリア人と出会う。友人からはやんわり反対される。というか友人は

バングラ系でない女の子には興味を持たないという。その友人はかなり母親の言うなりなので、異性に対する選好も母親からの

影響が強いのかもしれない。

一つ個人的に興味深かったのは、この中でイスラム教徒だから豚を食べないと言う話題がなんども出てくる。それに加えてだから臭いとか

臭くないと言う話だ。今まで考えたことがなかったのだが、そう言うこともあるかもと想像したのだ。筆者はベジタリアンではなく、豚肉を日常的にいただいている。ただ、20、30年前には職場で、会議中も禁煙ではなかったのだが、最近は職場でも多くの公共の場でも禁煙になった。するとたまにタバコの臭いがすると臭いと感じてしまうのである。以前より一般的な臭覚が敏感になったのではなく、タバコに関してはタバコレスが日常化したために、ある状態に対して敏感になったのだと思う。とすると、豚肉を食べる食べないでも、食べない状態が当たり前になったら、食べた人の口臭や体臭がきになると言うことが生じるのだろうか、と言う疑問がわいた。

ムスリムはお酒も飲まないのだが、仲良くなった彼女の友人がカクテル的なものを飲ませてしまい、ひどい目にあう。

もう一つの最大なテーマは、結婚前は純潔を保たなければならない、と言う点をめぐってだった。主人公は自分に性欲があることは認めているのだが、戒律を守らねばと言う意識も強い。一方、仲良くなったアジアは、父はアーティストで離婚しており、性に対する抑制はほぼない。その葛藤は

性を巡るもの、家族をめぐるもの、仕事や住居に対する考えなど、多岐にわたり、かつ、生々しい現実の問題でもあり、惹きつけられる。ファイムはアジアと思わず、キスをしてしまう。そこで悩み、宗教上の師に相談したりするのが、新鮮であり、ユーモラスでもあり、宗教が違うとこう言うことになるのか、と言うことでもあった。

ファイムの母がロンドンに憧れ、ロンドンにさらに移住したいと思っているのもなかなか皮肉である。

ファイム・ブイヤンが主演、監督。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年2月 4日 (火)

ツェンチッチ「ヴィヴァルディのカンタータ」

カウンタテナー歌手Max Emanuel Cencic のThe Vivaldi Album というCDを聴いた。指揮はKarsten Erik Ose, オーケストラはOrnamente 99. 中身は、ヴィヴァルディのカンタータを歌ったもの。

新譜ではなく、2003年の録音。

カンタータというと、バッハの教会カンタータのイメージが強いが、これはそうではなくて、愛、しかも世俗的な愛を歌ったカンタータで、5つのカンタータが録音されているのだが、3曲はアリアーレチタティーヴォ−アリアの形を持ち、2曲はレチタティーヴォーアリアーレチタティーヴォーアリアの形を持っている。アリアの部分ではソロ(独唱)とオケのリトルネッロ(繰り返しの部分)が交互に来て、主調が確立されたのち、転調し、最後に主調に戻る。指揮者の書いたライナーノーツによると、楽譜には通奏低音でファゴットの指定はないのだが、ヴィヴァルディの他作品でのファゴットの使用を参考にしてここでは用いているという。

歌詞は例えば、「彼女がつれなくても、神よ、僕は彼女が好きです」「おお僕の傷ついた心よ、お前は囚われた。。。しかし彼女の美に囚われたのはお前が最初ではないし、お前だけではない」と言ったもので、愛の神が出てきたり、自分を嵐の海で難破しそうな船にたとえたり、あるいは牧歌的な世界を描いたりと、バロック・オペラの一部を抜き取ったような感じである。

ツェンチッチの歌唱も、オゼの指揮も、まっとうなもので、最近のバロックものと比べると尖った感じは控え目だが、このレパートリー自体が評者には新しかった。

 

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