《タンホイザー》
ワーグナーのオペラ《タンホイザー》を観た(バイロイト祝祭劇場)。
指揮者ゲルギエフ。演出はトビアス・クラッツァー。読み替え演出で、これほどピンときたものは珍しい。つまり演出が非常に面白かった。そのことによって超多忙ゆえに、練習時間不足の令名高いゲルギエフの細部のアラ(具体的には合唱とオケのちぐはぐなど)がさほど気にならなかったと言える。
ゲルギエフの指揮も、クラッツァーの演出も、鮮やかといえば鮮やかで、あざといと言えばあざといもので、それが現代においてワーグナーを上演するということの意義を鮮やかに照らし出しているのだった。
序曲の部分で、サーカスの一団のような連中(実はウェーヌスと小人のオスカー(ブリキの太鼓)と黒人のドラーグ・クイーンとピエロの格好をしたタンホイザー)が風がわりなトラックに乗ってドイツの森を疾走しているのだがガス欠になり、ドライブインで無銭飲食をし、警備員を轢き殺してしまう。タンホイザーはショックを受けこの一味から離脱しようかと悩む、という感じ。
ウェーヌスのエロスが一人の女性歌手ではなく、エレナ・ツィトコーヴァ演じる生身の女性のウェーヌスと黒人で女装したドラーグ・クイーンのガトー・ショコラ(これが彼・彼女の芸名)と異界性を帯びた小人のオスカーに分散して表象されている。第一幕が終わった後の長い休憩時間にもパーフォーマンスは野外の庭(池のほとり)で続き、ガトー・ショコラが中心になって、ウェーヌス、オスカーと歌と踊りのショーを繰り広げるのだった。その部分は一般市民にも公開。
二幕になると舞台が上下に区切られていて、上はスクリーン、下が歌合戦の行われる(演じられる)舞台で、歌合戦は一幕からすれば意外なほどまともな衣装、まともに進行するのだが、上のスクリーンは楽屋からの視点で、歌手の楽屋での様子や舞台に出る瞬間や、様々なキューが出される現場を見せ続けている。タンホイザーの世界が芝居ごとなのだ(それは言われなくても分かっているわけだが)という点を強調しているのだろう。しかし最終的にはそこに第一幕のウェーヌス、ガトーショコラ、オスカーが闖入する。その部分は彼らがバイロイト祝祭劇場が上演中のため外部の者が入れないようになっているのに無理やりハシゴをかけてさらに楽屋口から舞台に出てくる様子が映し出される。
クラッツァーが上手いのは、彼らの動きと音楽の進行の合わせ方で、楽想が変化したり転調したりする部分を巧みに利用しているので本来リブレットにない人物、ない動きが違和感がない。むしろ自然でぴったり合っていると思える箇所が多い。
第三幕は例のトラックがドアも取れボロボロになっているどこともつかぬ野原。オスカーがスープのようなものを飯盒で作っているところへ、エリーザベトがやってくる。読み替えが最も強烈なのは第三幕だ。もちろん、序曲からの仕掛けがあってのことだが。エリーザベトはオスカーからスープをもらう。その後、エリーザベトを慕うヴォルフラムがやってくる。エリーザベトが倒れているのを見て、ヴォルフラムはタンホイザーが着ていた道化服をきてエリザベスを元気づける。エリザベスが熱く接吻をした後、ヴォルフラムは自責の念を感じたのかカツラをとって自分がタンホイザーではなくヴォルフラムであることを明かすが、エリーザベトは自らヴォルフラムにカツラをかぶせ、トラックの後部座席に引っ張り込みセックスらしき行為に及ぶ。これは従来のエリーザベト像を全く覆す読みである。清らかでタンホイザーのために自己犠牲するエリーザベトだったはず。この変化はなぜ生じたのか?筆者の解釈(無論、絶対的なものだとか、他の解釈がありえないというつもりは毛頭ありません)はこうだ。現代の欲望(エロスにおいても物欲においても)の世界に迷い込んだエリーザベトはオスカーのスープを飲むことで決定的に現代社会の欲望に染まり・汚染され、清らかさを失い、欲望に支配されるようになる。あるいは抑圧されていたおのれの欲望を自覚するようになる。その結果、自分をじっと慕ってくれていたヴォルフラムの好意に応じ、肉体の喜びに進んだのではないか。この女性像の変更は、相当に挑発的で、刺激的であると思う。というのも、エリーザベトの清らかさはイメージとして聖母マリアと重ね合わされおり、この変更はその重ね合わせに大きな亀裂、不協和音を生じさせるからだ。ウェーヌスも第二幕で、儀式的儀式的場面で、皆と一緒に儀式的行為をすることに非常な違和感があるということを身振りで表現していた。
しかし、現代において、欲望の象徴のウェーヌスと貞潔の象徴のエリーザベトを揺れ動くタンホイザーをストレートに描いても、時代遅れというか、ピンとこない恐れが濃厚なのに対し、今回の演出では現代のロードムービー的要素やLGBTQ的な要素を取り込み、現代におけるエロス、欲望の意味を根源的に問うと同時に、そもそもワーグナーの相対化、バイロイト祝祭劇場およびそこに巡礼する人々への痛烈な批判的眼差しを露出させたものになっている。こういう演出をする演出家も大したものだし、またこれだけサーカスティックに扱われても多少のブーイングはあれど圧倒的に支持の多い拍手の嵐を浴びせる観客層も懐が浅くないと感じた。
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