《アルチーナ》
ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(カールスルーエ)。
前回不調だったオロンテ役が交代して、カナダ人テノールのネイサン・ヘラーに交代。彼はチューリッヒから急遽やってきたとのことだった。歌手の場合、身体が楽器なわけで、マスタークラスの学生を見ていてもマフラーをしたり喉を守ることにはおこたりない。しかしそうしていても、不調になることは避けられない場合があるだろう。他人事ながら大変だなあ、と思う次第である。ネイサン・ヘラーは比較的イタリア語の発音がしっかりして、通る声であった。
ヘンデル音楽祭のヘンデル上演の唯一の弱点と思われるのは、イタリア語の発音が弱い歌手が多いことだ。全体として非常に高いレベルにあり、大いに満足しているのだが、その点には向上の余地がまだまだあると思う。英語圏出身の歌手で、最近はイタリア語の発音がしっかりしている人もかなり出てきているのだが、個人差は大きく、声(声量)を出すことを優先で、子音の発音が聞き取りづらく、その結果、なんと言っているかわからない、聞き取れない歌手も複数いた。
演出もストライキは終わり、通常に戻った。演奏も概ね変わらず。
ドイツ・ヘンデル・ゾリステンのメンバーはほぼ去年と重なっているわけだが、いろんな指揮者を経験することでオケとしても発見や成長があるのではないだろうか。とりわけ、今回のペトルゥのような指揮者、ピケのような指揮者を経験するとドイツ系の指揮者とは一味もふた味も違った世界をこちらも楽しむことができるし、オケが蓄える経験としても貴重なのではないかと思った。常任指揮者が変わって何年とかいうのではなくて、この音楽祭を契機として短期間に集中的な演奏会をこなしていくわけだが、同じオケからこれほど異なった響き、音色、ダイナミズムが現れいでるのかと改めて指揮者の存在意義に感銘を受けた。バロック時代に現代のような指揮者はいなかったであろうが、バロック時代にバロック楽器をもちいてバロック音楽を演奏するのと、現代にピリオド楽器を用いて、バロック音楽を演奏するという位相の違いを考慮に入れれば、指揮者の意義が大きいことをポジティブに捉えても良いのかと思う。
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