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2019年3月 1日 (金)

D.スカルラッティのレクチャー

インターナショナル・ヘンデル・アカデミーでドメニコ・スカルラッティについての講義を聞いた(カールスルーエ)。

ドイツ語のレクチャーなので、語学力が全く追いつかないのだが、ピアノとチェンバロが講義室においてあって1曲は通して演奏がなされ(日本の女性で、ここで開かれているマスタークラスを受講している方であった)、レクチャーの途中で講師がピアノを弾いたり、チェンバロを一節弾いて説明するところがあり、そういう箇所は俄然話が具体的でこちらにとってはわかりやすくなるのだった。
一番興味深かったのは、楽譜のエディションの問題だ。原典版とロンゴ版で同じ曲を並べて、冒頭のところをチェンバロとピアノで弾き比べてくれた。ロンゴ版は1906-13年に出版されたのだが、ピアノで弾くことを前提とし、原曲に大きく手が入っている。例えば、勝手にスラーを長々とつけている。さらに、メトロノーム(もちろんスカルラッティの時には存在していない)での速度表示を書き加えている。一層決定的なのは、和音を書き換えているのだ。
 スカルラッティのオリジナルの和音は、アヴァンギャルドな響きを持っている。それはチェンバロで弾くとカッコいいというか、複雑な内面、心境を表現するのにふさわしい響きを持っている。ところがその不協和音をピアノで弾くと、アルペッジョにでもしないと汚い、野蛮な響きに聞こえてしまうのだ。ロンゴはピアノで弾くならこう書き換えようということで、書き換えてしまったのである。
 現在のように、バロック・チェンバロでの演奏が相対的に身近になってくると、原曲をチェンバロでの演奏で聴くことの魅力がよく理解できる。とはいえ、スカルラッティはピアノの名手の演奏で聴いても(ピアニストによって使用しているエディションは異なるのだろうが)魅力的な響きがするのも確かで、それが作曲家の器の大きさなのかもしれない。

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