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2019年2月27日 (水)

《セルセ》その4

ヘンデルのオペラ《セルセ》を再々度観た(カールスルーエ)。

今回は、音楽を聴きながらも、やや劇として楽しむ方向で観た。オペラの場合、音楽劇だから、音楽も劇も楽しむわけだが、指揮者やオーケストラを注意深く観察していると、劇の演出の細部を見逃したりしがちだ(両方、同時に細かくできる人がいるかもしれないし、そういう人の存在を否定するわけではありません)。
前回と前々回は、座席が2、3列目だが、やや端の席で、今回は7列目だが、指揮者のまっすぐ後ろという位置。1階の座席は結構傾斜している。指揮者の指揮ぶりは意外ことに斜めからの方が、正面からよりもずっとわかるのだった。また、オケの団員の仕草、表情も(単純に列が前の方が距離が近いということもあるだろうが)前回の方がよくわかった。
逆に、劇の進行、演出を観る点からは、正面でやや引いたところからの方が全体を見渡すのには便利だ。
最終日のせいか、指揮が、2幕で早いところは猛然と早いのがさらに輪をかけて早くなりちょっと音が荒くなっていた(縦の線が乱れるのと、弦楽器の音自体が荒くなっていた)が、3幕になるとすっと軌道修正していたのはさすがである。ペトルゥの指揮は、アクセントのつけ方が明快で、フレーズもノンレガートはノンレガート、フレーズの最初の音も曲想によって弓を弦に叩きつけるような音だったり、滑らかな音だったりそのコントラストがとても大きい。シュペリングの《アルチーナ》でもメリハリはきいているのだが、そのコントラストの強さ、大きさがペトルゥの方が強烈なのだ。2幕の幕開けや3幕の幕開け、あるいはカーテンコールの拍手から判断するにペトルゥの指揮ぶりはカールスルーエの聴衆に強く支持されているようだ。
彼が疾走するときにそれについていくオケも立派だと思うし(純粋に音楽的にエクサイティングだ)、それにのってスイングしながらノリノリの歌を聴かせるファジョーリやアリアナ・ルーカス(ファジョーリと比較すると気の毒だが、アジリタがうまくいく時と苦しそうな時があるーこのテンポでは無理からぬところかとも思う)ら歌手陣も大活躍だ。かと思うと、そのせいもあってのどかな曲想をたっぷりと歌わせるとこれはこれで映えるし、ファジョーリもツェンチッチもロミルダ役のスナファーも感情過多になりすぎずに、叙情性を表現していた。
バスの2人、アリオダーテのパヴェル・クディノフやアルサメーネの従者エルヴィーロのヤン・シューは、オペラ・ブッファにおけるバッソ・ブッフォの先駆者のような感じで、アリオダーテ(将軍だが、今回の演出ではレコード会社の宣伝部長あるいは営業部長?)は大スター歌手セルセの言うことをきかねばならず、エルヴィーロはアルサメーネの命令をきく。彼らの歌には特徴があって、音程が低いだけでなく、歌の最初の部分はレチタティーヴォ的でメロディ的でない。まるで、親分に命令されて、ボソボソと呟く、ぼやく部下のように始まり、徐々にメロディが出てくる。そこで何度か同じメロディを繰り返す時に、さっとヘンデルがひと刷毛伴奏音型を変えると、実に素敵な曲に聞こえる。これは指揮者のコントラスト重視の賜物でもあるし、2人の歌手の歌唱力も十分それに応えていた。興味深いのは、彼らの曲はダ・カーポ・アリアにならずその前にプツンと終わることだ。身分制の社会で生まれた芸術たるオペラは、身分によって声質の高低も決まってくるし、アリアやアリオーソの形にも差があるということか。
今回のツェンチッチの演出は、一貫してコミカルなのだが、ドラッグや売春といったダークサイドも描きこまれている。現代の愛ということを問う時に、異性間の愛も、同性愛もある。また美しい若者(男女とも)の身体は、商業化されやすいこと。ロマンティック・ラブというと美形の男女(あるいはそういう雰囲気を漂わせる男女)間のものというバイアスが19世紀のオペラにはかかりがちだが、アタランタやアマストレをわざと不恰好な女性として表象しているのは、コミカルな効果を狙っている面が第一にあると思うが、理屈を言えば、ロマンティックな愛は「美しげな」男女の独占物ではない、という主張もあるのかもしれない。売春宿の飾り窓のうちと外にはスタイル抜群の女性がいるのだがお茶をひいていて、その隣のドラッグが取り引きされていそうな怪しげな店の前には男性カップルが睦みあっているのも象徴的な光景だったかもしれない。単純な女性呪詛ではないし、女性賛歌でもない。単純な同性愛賛歌でもない。単純なストーリーに回収されず、しかし細部には徹底的にこだわって笑わせてくれる。
ジョークと音楽の進行も綿密で、例えば序曲のところで、ファジョーリが女性に抱きつくシーンは曲想が遅めからダッシュして早くなるちょうどそこで抱きつくといった具合に音楽の進行と、所作のすり合わせは綿密だし、だからポンと弾けるような可笑しさが生まれてくるし、リズムにのっている分、下卑た感じが薄れるのだ。飾り窓の女性(モック役)の前で男装したアマストレが嘆きの歌を歌う場面でも、窓の前に立たれては営業妨害というので女性がアマストレにしっしっあっちいけ、という仕草をする。アマストレは気付かずに歌い続けるが、曲想が変化するところで、女性はガラスをドンドンと叩き、アマストレは驚いて、脇にのく。きわどいと言えばきわどい情景、舞台背景が単にセンセーショナルなのではなく、音楽の進行と合わせたコントが組み合わされ笑いをもたらすし、原作にない電話や玄関チャイムの音などの使い方も秀逸。
決して説教くさい演出ではないのだが、見終わってみれば愉快な笑いは、単なる笑いではなくなっているかもしれない。

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