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2019年2月24日 (日)

《セルセ》

ヘンデルのオペラ《セルセ》を観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。

フランコ・ファジョーリのタイトル・ロール(セルセ役)、マックス・エマヌエル・ツェンチッチがセルセの弟アルサメーネ、彼らとCD録音などでおなじみのジョージ(ゲオルギオス?)・ペトルゥ(Petrou だが、日本語表記は様々、どれが正しいのやら、それとも本人が放任しているのだろうか.アテネ生まれのギリシア人 )の指揮。ペトルゥは、2020年よりゲッティンゲンのヘンデル音楽祭の音楽監督に就任が予定されているようだ。
オケはこの音楽祭でおなじみのドイツ・ヘンデル・ゾリステン。見覚えのある顔も何人もいる。驚いたのはペトルゥの指揮で音のダイナミズムやリズム感や楽器のアタック音がガラッと変わったこと。翌日の《アルチーナ》でこの変化はオケのメンバーの入れ替えなどによるのではなく、やはり指揮者の求めるものが異なり、オケがそれに反応しているのだと確認。通常のオケでも、楽器はそのままで奏法を変えると印象が変わることがあるが、バロック・オケで楽器はそのままでこれほど表情が変わることに感銘を受けた。
 ペトルゥの指揮は、非常にメリハリが利いていて、かつ、絶対にセンティメンタリズムに陥らない。叙情的なフレーズ、パッセージもインテンポで進めていく。個人的にはインテンポでテンポを落とさず、楽曲の流れが明快なままに、そこからこぼれ落ちる抒情が好ましいと思う。ロマン派以前の抒情は、基本的にはそうあるべきなのではないかとすら考えている。つまり、様式美がまずあって、それを確保した上でないと、抒情性になだれ込んだ場合には、型が崩れ、見苦しい、聞き苦しいと感じるのだ。
 ペトルゥの指揮は、総じて早めのテンポで、所々で大きく腕を振り下ろしアインザッツをとる。つまり、早めのテンポで縦の線が楽器群同士でずれかけた時に、そこでバーンと調整する仕組みなのだ。だから、オケは決してバラバラに崩壊したり、ハラハラすることはない。
 演出はツェンチッチ。この人は本当に多角的な才人で、歌も巧みだが、演出も、いやそれどころかオペラ全体のプロデュースのようなこともやっているようだ。ツェンチッチのアルバムを見てもわかるのだが、例えばナポリ楽派のアリア集はほとんどが世界初レコーディングである。売れ筋の曲をちりばめて売り上げを伸ばそうという方針は微塵も見えない。むしろ彼の野心は、音楽演奏の歴史に確かな足跡を刻み、我々一般聴衆の音楽的嗜好・認識に革新をもたらすことではないかと思う。
 今回の彼の《セルセ》の演出は、かなりキンキラで派手なもの、1970年代くらいのラスベガスが舞台。ご存知の通り、セルセは元々はクセルクセスで古代メソポタミアの話なのだが、元の話も史実に忠実であるわけではない。ツェンチッチは思い切ってセルセをラスベガスで弾き語りをする歌手に仕立てた。ファジョーリもノリノリでスパンコールの輝くジャケット、さらに孔雀のような大きな羽飾り(宝塚のよう)を背負って登場、冒頭の’オンブラ・マイ・フ’はファジョーリがピアノで弾き語りをするのだ。
 そもそも《セルセ》は不思議な作品で、コミカルな要素に事欠かない。セルセはいきなりプラタナスの木への愛情を吐露するし、それに対しロミルダがあなたは木にしかご興味がないのね、と粉をかけたところから、セルセがロミルダに興味を示し、ロミルダとアルサメーネの仲が引き裂かれることになるのだ。このオペラもお約束のように2組のカップルが出てくるが、それと2組の兄弟、姉妹が交錯している。
 兄弟なのは、王セルセと王弟のアルサメーネ。姉妹はロミルダとアタランタ。ロミルダとアルサメーネは元々相思相愛なのに、セルセが割り込んでくる。妹のアタランタはアルサメーネに目をつけていて、姉ロミルダがセルセの王妃になれば自分がアルサメーネと結ばれるチャンスが生まれるのではと虎視眈々と狙っている。自分の美貌にも自信があって、顔や笑顔でイチコロよ、という歌詞がある。しかし、今回の演出では、アタランタ役のキャサリーン・マンリーは、わざと不細工な仕立て。体にも詰め物を入れわざとスタイルを悪くみせ、メガネをかけ、ミスター・ビーンの彼女を彷彿とさせるギクシャクとした動き、ダサい感じを巧みに出しており、笑いを誘っていた(観客に受けていた)。これまでの典型的なアタランタ役の役作りとは全く異なっており、新しい画期的なアタランタ像ではないか。
 一方、実はセルセには婚約者アマストレがいる。アマストレは、王族の娘でロミルダより王妃にふさわしい血筋という設定なのだが、今回の演出では、掃除婦となって、下働きをしている。序曲の時に、セルセと舞台の袖部分でかなり露骨にイチャイチャしている女性がいるのだが、それが彼女なのだ。かなり豊満な身体つきで、ロミルダ、アタランタ、アマストレの3人の描き分けを、ツェンチッチはこれ以上ないほど明快に色分けしている。キャラが全く被らないのである。舞台はプールサイドだったり、セックスショップのある通りであったりするが、そこにバニーガールが出てくるかと思えば、バニーボーイも出てくるし、アルサメーネの部下エルヴィーロ(Yang Xu)が花売りとなる場面も、花というのは、様々なドラッグ(麻薬)なのだった。男女のカップルもいれば同性カップルもいるというLGBT的に配慮された?演出だ。
 《セルセ》の世界には虚々実々というか虚と見えたものが実、あるいは実と見えたものが虚ということが次々と現れ、さらに逆転していくことの連続で見ていて飽きない。
 価値や秩序の転倒、倒錯を楽しむ音楽劇となっている。
 ある意味でおふざけのオンパレードなのだが、アリアや二重唱、合唱の音楽的な緊密性はこの上なく高い。音楽的にダレるところが皆無。ヘンデルの手腕、指揮者の音楽的な把握、歌手およびオケの技量の高さに脱帽である!
この演出について、youtube に trailer がアップされています。
https://www.youtube.com/watch?v=WVS9lsmAGJQ&start_radio=1&list=RDWVS9lsmAGJQ

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