《アルチーナ》
ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。
去年のプロダクションの再演なので基本的な変更はない。演出も基本的には同じ(人と人との絡むアクションが少し激しくなっていたが、それはコンセプトが変わったというほどではなく、タイトル・ロールのアルチーナ役の歌手が去年は妊娠していることが誰の目にも判る状態だったが、今年は別の歌手で普通の状態だったせいなのかもしれない)。歌手もルッジェーロのデイヴィッド・ハンセンは同じで、彼のルッジェーロを1年前に観たことをまざまざと思い出した。しかし、その後で、ハンセンはどうでしたかと尋ねられた時にほとんど思い出せなかった理由もわかった。去年の段階でも、今年の段階でも、ああ、一生懸命歌っているけど、いくつかの点、いくつかの箇所でもの足りないなあ、こちらに十分な満足を与えてくれないなあ、というものであった。そういう歌手の場合、印象から消えてしまうのだ(画像や再演で見れば思い出すけれど)。
去年、ここで《アルチーナ》を観た時にはアンドレアス・シュペリングの指揮、ドイツ・バッハ・ゾリステンの演奏と、特別な大スターはいないもののカウンターテナーも古楽唱法に乗っ取った歌手もいて、様式的にととのった(バラバラでない)ヘンデル上演の素晴らしさを満喫したのだった。
しかし人間の贅沢は我ながらおそろしい。去年のヘンデル音楽のトリはファジョーリとポモドーロ(演奏団体の名前です)によるヘンデルのアリア公演で、何曲かの出入りはあったけれど、これが日本にもやってきて、ただしオケはヴェニス・バロック・オーケストラになったわけだ。ポモドーロは人数も少ないのだが、これほど柔軟で俊敏なオケがありうるのかとその音楽性も含め舌を巻いた。
同じドイツ・ヘンデル・ゾリステンでも去年は英語オペラ《セメレ》が再演で、そちらの指揮者はかなりもっさりしていた(音楽づくりが)ので、《アルチーナ》を振るシュペリングが颯爽として見えた(外見でなく、音楽がです)。ところが今年は、ペトルゥの指揮の後では、フツーに聞こえてしまう。おそらくシュペリングは、ケレン味を重視しているのではなく、自分の音楽的感性に忠実に指揮しているのだろうし、明らかにここぞという燃え上がるようなアリアでは髪を揺らせて(カーリーヘアのせいか振り乱してではなく、頭の揺れとシンクロして髪も揺れるのです)テンポを上げ、弦のアタック音もガツンと来るようにしていた。そういった激しい表情のアリアの場合、歌手も強い声、表情が求められるのだが、どこまで行けるかは歌手の力量あるいはコンディション次第なのだろう。ハンセンやブラダマンテ役のマッツカートは、かなり健闘していたと思うし、第2幕は相当にオケ、指揮者、歌手の表情の方向性が一体となる稀有な瞬間を顕現していたのだが、パワーが足りないというかもう一歩と感じるところも率直に言えばあるのだった。
モルガーナ役の歌手は第一幕ではアジリタのたびに相当テンポが遅くなり曲の形が崩れ聞き苦しかった。こういった歌手のコントロールは指揮者との力関係によるのか、あるいは練習時間がどれくらい確保されているのかによるのか。
1つ発見。この日の席は1階の階段状の座席の一番後ろの壁際だった。2幕が終わったところで、ドイツ人の婦人が終演後急いで帰りたいので席を代わってくれないかと頼まれ、4列ほど前に出た。音が全然違うのである。理由は簡単で、壁際の奥は、2階席が屋根上にせり出しているのだが、4列ほど前に出るとほぼその影響がなくなるのだ。やはり音がずっとスッキリ聞こえる。特に、弦楽器(テオルボも含め)のアタック音、こする音の表情のニュアンス、歌手の発声のニュアンスがより手に取るように聞き取れるのだった。あらためて、音にこだわる場合には、座席は重要である。
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