《セルセ》その3
ヘンデルの《セルセ》の演奏について(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。
歌手で見事なのはファジョーリとツェンチッチ。この2人はまことに対照的で、あえて言えばファジョーリがマリア・カラス的でツェンチッチはレナータ・テバルディ的と言えるかもしれない。ファジョーリは、どこで劇的に音楽を盛り上げるかをプロフェッショナルに心得ていて決してはずさないし、超絶技巧にも乱れがない。一般的に言って、カデンツァのようなところでアジリタの超絶技巧をひけらかす部分は、音楽の進行が止まってしまうので下手をすれば音楽的には退屈になってしまったり、だれてしまったりするのだが、ファジョーリの場合そういうことは決して起らないのだ。
一方、ツェンチッチの歌唱は、叙情的な部分の歌い回しに美点がある。彼が歌うと、一音か二音の単純な旋律に、これほどの情感が込められるものかと不思議な気分になる。それでいてクサくない。それは彼が徹底して様式美を心得ているから、ギリギリのところで形を崩さない、崩すところまで行ってしまわないからだ。その意味で、彼が兄である王のセルセに恋人ロミルダを奪われかけるアルサメーネを歌うのはうってつけだ。アルサメーネの歌は、情けない自分の立場を嘆いた女々しいものが多いのである。その嘆き節を繰り返した挙句、ついに王に挑戦的な態度を取る、という劇的展開がある。そこでの変化も聴かせどころだ。
しかし、こうしたアリアごとの重唱ごとの歌手による歌い回しの変化もさることながら、この上演ではペトルゥの指揮による、伴奏の表情の変化が実に多彩で、聞いていて飽きないのだった。ヘンデルに駄曲なし、ということがしみじみ分かるのだ。彼の伴奏では、アリオダーテやエルヴィーロといった男性の低声のための曲も、ヘンデルが前半と後半で一筆伴奏の表情を入れ替えるとガラッと音色・表情が変わりアリア全体の振り幅が大きくなり、曲の魅力が大いに増すことが実感できた。指揮者、それに応えるオケがいいと、作曲家の偉大さがよく分かる。オペラを聴く楽しみが、歌手の美声、技巧を楽しむことであっても、劇のストーリーを楽しむことであっても、演出を楽しむことであっても良いが、作曲家の創意工夫を味わい、その天才にうたれることであっても良いではないか。
今回の指揮は、フレーズのアクセントの明快さによって、対位法や曲の構造がよりくっきりと浮かび上がり、旋律だけでなく、曲全体として伴奏も含めての美しさ、ダイナミズムがよく分かる演奏で、ヘンデルの無限の才能を味わうことができた。
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