《セルセ》その2
ヘンデルのオペラ《セルセ》を再び観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。
ツェンチッチの演出について再び。原作のリブレットで設定された時代を現代に移したり、王である登場人物を卑俗な人物に変えてしまうような読み替え演出は今や少しも珍しくはない。問題は読み替えが何をもたらすがである。読み替えが単に思いつきの範囲を出なければ、作品の新たな魅力は浮び上らず、小芝居がうるさく、音楽を味わう妨げになることさえ、残念ながらしばしば経験するところだ。
今回のツェンチッチの《セルセ》演出は、こういう解釈もあるのか、とこちらにいくつもの気づきを与えてくれる点で画期的だったし、オペラに対する深い理解や愛のない演出家の凡百の読み替え演出とは似て非なるものなのだった。
僕の考えでは《セルセ》という作品は性格がつかまえにくい。冒頭の'ombra mai fu' からして、楽曲としては魅了的だが、セルセはなぜプラタナスの木陰にこうも惹かれているのか。また、それをからかうロミルダも大胆と言えば大胆だ。無論、そのやりとりからロミルダとアルサメーネの仲にセルセが割って入るキッカケができるわけで、深く考える必要はないのかもしれないのだが、この2曲は妙に心に染み入る曲なのでなぜこういう曲なのかと考えさせられてしまうのだ。
ツェンチッチの場合は、一貫して喜劇的なトーンで通している。オンブラ・マイ・フは、弾き語りの売れっ子歌手がピアノを弾きながら歌うのだ。ロミルダの曲の時は綺麗どころの女性たちが7人ほどダンスを踊っている。バーというかキャバレーのようなところで客が見ているのだが、その客たちは男のカップル、女のカップル、男女のカップルがそれぞれいる。愛には様々な形があるというコンテクストがさりげなく与えられている中で、セメレとロミルダの本気とも戯れともつかぬ愛の駆け引きが始まる。
前回にも述べたがロミルダと妹アタランタ、セルセの婚約者アマストレという3人の女性の描きわけがこれほど分かりやすい演出は珍しいだろう。おまけに、身体的特徴も大きく変えているのだ。ロミルダ役のローレン・スヌッファーは小柄で細身。翌日たまたま《アルチーナ》の上演時に2人隣に彼女が座っていたのだが、その華奢なことに驚いた。妹アタランタ役のキャサリーン・マンリーは事あるごとに、姉および姉のお取り巻きから侮蔑的な扱いを受ける。アルサメーネからの手紙の宛名をロミルダではなく、私(アタランタ)だという策略には、彼女がアルサメーネに横恋慕しているということもあるが、今回の演出では姉ロミルダに対する積もるコンプレックスと恨みという点に説得力がある(この演出方法だけが正しいと言いたいわけではない)。アタランタが、人形を取り出し、五寸釘ではないが、針のようなものを突き刺すシーンもあり、ブラックな笑いを誘っていた。アタランタ役の女性は、おそらく体に詰め物をし、わざとスタイルを崩し、身のこなし、ダンスなどもミスタービーンの彼女を思わせる仕草で、ギクシャクとした動き、妙な歩き方で、醜女ぶり(彼女が本当に醜女だというわけではありません)を発揮していた。その一方、セルセの元々の婚約者アマストレは渡辺直美風に豊満で、原作では王家の王女ということなのだが、この演出では庶民的な雰囲気をプンプンと発揮し、お掃除人なのだ。しかし、妙に肉感的な色気は所々で発揮する。アタランタの屈折して男に迫っても不発に終わるお色気と対照的である。
今回の《セルセ》演出では現代における様々な愛の形の可能性(背景としてモック役の人物が演じている)と並行してセルセやロミルダやアルサメーネ、アタランタ、アマストレがそれぞれに愛を求めて彷徨う様が、コミカルな形で描かれる。
その視点が一貫しており、こういう解釈も1つ成り立ちうるのだと納得させられるのである。
(長くなったので演奏については別項で)。
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