《セルセ》その5
ヘンデルのオペラ《セルセ》の演出について。
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ヘンデルのオペラ《セルセ》の演出について。
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ヘンデルのオペラ《セルセ》を再々度観た(カールスルーエ)。
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インターナショナル・ヘンデル・アカデミーのレクチャーを聞いた(カールスルーエ、音楽大学)
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ドイツ・ヘンデル・ゾリステンの室内コンサートを聴いた(州立劇場小ホール、カールスルーエ)。
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ヘンデル音楽祭周辺のコンサートを聴いた(クリストス教会、カールスルーエ)。曲目は
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ヘンデルの《セルセ》の演奏について(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。
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ヘンデルのオペラ《セルセ》を再び観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。
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ヘンデルのオペラ《アルチーナ》を観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。
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ヘンデルのオペラ《セルセ》を観た(カールスルーエ、ヘンデル音楽祭)。
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アルト歌手ロミーナ・バッソの演奏会を聞いた(カールスルーエ、クリスト教会)。ロミーナ・バッソをメゾ・ソプラノとする記述もよくあるが、カールスルーエのヘンデル音楽祭の公式プログラムにはAlt (アルト歌手)と記されている。考えてみれば、近年、ソプラノではない女性歌手はあまりにメゾソプラノばかりで、アルト歌手と呼ばれる歌手が少なくなっていると思う。何かコマーシャリズム的な理由でもあるのだろうか。低い声がよく響く歌手には、独自の魅力があると思うのだが。
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たまたまなのだが、何年か前にでた宗教改革についての新書と、新刊の廃仏毀釈についての新書を並行して読んでいて、気になったことがあるので記す。
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オペラ《紫苑物語》は、第一幕と第二幕が、対照的に出来ていて、第一幕はうつろ姫が活躍するわけだが、第二幕の冒頭は宗頼と千草のむつみあう様が技巧的な歌唱とともに描き出される。エロティシズムの違った様相が、異なった様相の音楽と演技で表現されるわけで、宗頼の高田智宏、うつろ姫の清水華澄、千草の臼木あいは三者三様の輝きがあり称賛のほかない。清水は、明るいオーラがあって、一見卑猥な歌詞でも下品にならず明るいエネルギーを発散するのだ。臼木あいは、それと好対照で、高田と睦みあう場面は妖艶であった。
エロティックな台詞も、その意味で表現幅の自由を作曲家に与えたと考えられる。佐々木氏の台本は、そういう意味で言葉の表情の振り幅、色数が多く、作曲家にとって大いにプラスに作用していると想像される。
監修者であり、原作を選んだ仕掛け人である長木氏は、「小説の論理からオペラの論理へ」という一文を寄せ、彼の日本語オペラに寄せる思いが語られている。その際の論点は3つで、1.ことばと音楽の関係、2.レシ(物語)のあり方と音楽の関係、3.オペラの論理への転換の仕方、である。長木氏がこれまでの日本オペラに満足できず、こういうものが作りたかったという話で、「原作に強く惹かれた大野和士さんとは、オペラの論理の点でも意気投合」とある点が注目で、このオペラの製作は、どういうオペラを、どういう日本語オペラを作ろうか、作らねばならないのか、という自分たちの置かれた歴史的な役割も含めて、入念に関係者の間で話し合いがなされている。座談会でも、実際の狐の鳴き声がシェーンシェーンとかキューンキューンだったというのを大野氏が見つけたのか西村氏が見つけたのかが判然とせず、佐々木氏が「2年間一緒にやっていると誰が言い出したのかわからない。共同作業ということはそういうことです。プライオリティなんて関係ない」という発言があり、心を打たれる。彼らは、そこまで2年間、練り上げ、練り上げてきたのである。
大野氏が特に注文を出したのは、2重唱、3重唱、4重唱を入れることだった。実際、第二幕第三場には4重唱があり、音楽のスタイルは全く異なるが、ヴェルディの《リゴレット》を想起させられるのだった。
長木氏が指摘しておられるように、仏の世界は必ずしも善なるものと一元的に解釈する必要はない。原作においても、仏像の首がなんども取れて、取れるたびに異様な表情となり、元の位置に戻ると穏やかな表情に戻るとある。漂ってくる鬼の歌もあり、解釈の余地を十分に残していると言えるだろう。
一度観ただけでは、一度聞いただけではくみ尽くせぬ豊饒な音楽世界、音楽劇世界を堪能した。ぜひ、もう一度観てみたいと思った。
なお、字幕は日本語字幕と英語字幕が同時に表示されていた。このオペラが海外でも上演されることを願わずにはいられない。
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《紫苑物語》は、世界初演であり、原作者の石川淳は別として、作曲家も台本作者も演出家も指揮者も監修者も存命であり、その方々がプログラムに寄稿しているのは実にありがたい。筆者が、モーツァルトやロッシーニやドニゼッティやヴェルディ、プッチーニの初演状況を調べようとしても、彼らの創作プロセスを窺い知ることは困難なことが多い。
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西村朗氏は続いて、「演出を笈田ヨシ氏にお引き受けいただき、創作が本格的に始動」。いかにも現代らしいと思われるところだが、リブレッティスタ(台本家)がリブレットを書いてテクスト(歌詞)が確定する前に創作が本格的に始動している。演出家が重視されている点も現代的である。
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西村朗作曲、佐々木幹郎台本のオペラ《紫苑物語》を観た(東京・初台・新国立劇場、世界初演)。
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