『宗教改革とその時代』その3
『宗教改革とその時代』の続き(3)です。
宗教改革の広がり
フランスではカトリックとカルヴァン派の争いが内乱に。カルヴァン派はアンリ4世のもとで「ナントの勅令」により宗教上の寛容を獲得するが、17世紀後半にはルイ14世のもとで再び信仰の自由を失う。
北欧の宗教改革
スウェーデンとデンマークの宗教改革は国家形成と密接。デンマークとスウェーデン、ノルウェーはもともとカルマル同盟のもとで同一の君主をいただく連合王国だった。16世紀に強力な王権をめざすデンマークのクリスティアン2世(在1513-23)が即位。スウェーデンの貴族層の反発を招き、スウェーデンは1523年有力貴族グスタフ・ヴァーサのもとで独立。クリスティアン2世の王権強化の努力は、地元でも反発を招き、叔父のシュレスヴィヒ・ホルスタイン公フリードリヒがデンマーク王に。
シュレスヴィヒ・ホルスタインの教会はすでにルター派だったので、ルター派はデンマーク全体をルター派にしようとする。しかしフリードリヒの死後、カトリック教会が巻き返しをはかり内乱に。フリードリヒの子フリードリヒ3世(在1534−59)は司教制度を廃止、教会財産没収。こうしてデンマークの教会はルター派の国家教会となる。
一方スウェーデンの王グスタフは国庫が空っぽであることに気づく。教会財産を狙う。貴族層の反感かうが、1560年代までにルター派の支配下に。30年戦争の際も、グスタフは領土的野心をもちつつ、プロテスタンティズムの旗をかかげ参戦。
東欧の宗教改革
東欧の貴族はグーツヘルシャフトという農奴制にもとづく大農場を持っていた。
ベーメン(ボヘミア)ではフス派教会の影響力が強く、反カトリック的であったが、宗教改革がドイツ人の手によってもたらされたため、民族主義的抵抗を引き起こした。
ハンガリーを例外として東欧では宗教改革はあまり進まず。
ベーメンの王位をめぐるハプスブルク家とプロテスタント君主の争いが30年戦争。
カトリック宗教改革
教皇パウルス3世(在1534-49)は改革派。1537年「教会改革に関する勧告」
トレント公会議ではトマス・アクィナスを中心としてさまざまな知的伝統が論争を繰り広げた。教皇パウルス4世(在1550−55)は異端に対する呵責ない戦いを開始。
イグナティウス・ロヨラは1527年パリでルターの思想にふれたが感じず。1540年改革派枢機卿コンタリーニの支持を得て、イエズス会の創建が認められる。イエズス会の活動は海外が有名だが、ヨーロッパこそ戦いの本拠地で、ポーランドや南ドイツは彼らの活躍によりカトリック支配下に戻った。
まとめ
プロテスタンティズムを生き延びさせたのは、主権国家の出現という世俗的契機であり、神学的要素ではない。むしろ、主権国家を1つの宗教によって統合する国家教会を作り出す結果になった。だからプロテスタンティズムと進歩とは何の関係もない。
北米ではプロテスタントはネイティブ・アメリカンを人間として認めず殺戮を、神の摂理のもとに正当化した。アパルトヘイトの南アフリカ共和国はカルヴァン派の子孫たち。現在はカトリックとプロテスタント諸教会の間に敵意はない。めでたし。
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