« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »

2018年11月22日 (木)

『宗教改革とその時代』その3

『宗教改革とその時代』の続き(3)です。

宗教改革の広がり
フランスではカトリックとカルヴァン派の争いが内乱に。カルヴァン派はアンリ4世のもとで「ナントの勅令」により宗教上の寛容を獲得するが、17世紀後半にはルイ14世のもとで再び信仰の自由を失う。
北欧の宗教改革
 スウェーデンとデンマークの宗教改革は国家形成と密接。デンマークとスウェーデン、ノルウェーはもともとカルマル同盟のもとで同一の君主をいただく連合王国だった。16世紀に強力な王権をめざすデンマークのクリスティアン2世(在1513-23)が即位。スウェーデンの貴族層の反発を招き、スウェーデンは1523年有力貴族グスタフ・ヴァーサのもとで独立。クリスティアン2世の王権強化の努力は、地元でも反発を招き、叔父のシュレスヴィヒ・ホルスタイン公フリードリヒがデンマーク王に。
シュレスヴィヒ・ホルスタインの教会はすでにルター派だったので、ルター派はデンマーク全体をルター派にしようとする。しかしフリードリヒの死後、カトリック教会が巻き返しをはかり内乱に。フリードリヒの子フリードリヒ3世(在1534−59)は司教制度を廃止、教会財産没収。こうしてデンマークの教会はルター派の国家教会となる。
一方スウェーデンの王グスタフは国庫が空っぽであることに気づく。教会財産を狙う。貴族層の反感かうが、1560年代までにルター派の支配下に。30年戦争の際も、グスタフは領土的野心をもちつつ、プロテスタンティズムの旗をかかげ参戦。
東欧の宗教改革
東欧の貴族はグーツヘルシャフトという農奴制にもとづく大農場を持っていた。
ベーメン(ボヘミア)ではフス派教会の影響力が強く、反カトリック的であったが、宗教改革がドイツ人の手によってもたらされたため、民族主義的抵抗を引き起こした。
ハンガリーを例外として東欧では宗教改革はあまり進まず。
ベーメンの王位をめぐるハプスブルク家とプロテスタント君主の争いが30年戦争。
カトリック宗教改革
教皇パウルス3世(在1534-49)は改革派。1537年「教会改革に関する勧告」
トレント公会議ではトマス・アクィナスを中心としてさまざまな知的伝統が論争を繰り広げた。教皇パウルス4世(在1550−55)は異端に対する呵責ない戦いを開始。
イグナティウス・ロヨラは1527年パリでルターの思想にふれたが感じず。1540年改革派枢機卿コンタリーニの支持を得て、イエズス会の創建が認められる。イエズス会の活動は海外が有名だが、ヨーロッパこそ戦いの本拠地で、ポーランドや南ドイツは彼らの活躍によりカトリック支配下に戻った。
まとめ
プロテスタンティズムを生き延びさせたのは、主権国家の出現という世俗的契機であり、神学的要素ではない。むしろ、主権国家を1つの宗教によって統合する国家教会を作り出す結果になった。だからプロテスタンティズムと進歩とは何の関係もない。
北米ではプロテスタントはネイティブ・アメリカンを人間として認めず殺戮を、神の摂理のもとに正当化した。アパルトヘイトの南アフリカ共和国はカルヴァン派の子孫たち。現在はカトリックとプロテスタント諸教会の間に敵意はない。めでたし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月19日 (月)

『宗教改革とその時代」その2

小泉徹著『宗教改革とその時代』の続きです。

ルターの95箇条に先立つ40年間に主権国家が出現した。イギリスではバラ戦争ののちテューダー朝(1485-1603)が成立。ドイツでは領邦単位の統合が進んだ。

 主権国家や領邦と、普遍的(国家を横断した組織である)教会が対立することはままあった。だからルターをザクセン選帝侯フリードリヒがかくまったのは偶然ではない。

 イングランドのヘンリ8世もプロテスタンティズムの神学の細部 には何の関心もなかった。エリザベスもそうで、自国内にローマ・カトリック教会から独立した国家教会を作ることが目的だった。

 カトリック教会から離れると、王権と教皇の権威が離れるので、王権神授説が必要になる。

 イギリスにおけるカトリックの差別は、統治の問題。カトリック神学を信じているのがいけないのではなく、国家教会の儀式に参加しないのがいけないとされた。イギリスではカトリックは1829年まで市民権を剥奪されていた。

 イングランドには1530年には800の修道院があったが1540年には全て解散して(させられて)しまった。修道院の解散は修道院の土地・財産を目当てにしているわけだが、主権国家は恒常的に財政難だったので、ここに目をつけたのはイングランドだけではなく大陸でも同様だった。

 宗教改革以前、民衆は異教に起源を持つ祭り(クリスマスやイースター)も楽しんでいた。が、プロテスタントはそれを攻撃。イングランドでは17世紀には宗教的演劇も絶えた。プロテスタントの一部には「安息日厳守主義」があって、教会での宴会や社交を禁じ、さらには居酒屋の営業も禁じたのでイングランドには「陰鬱な日曜日」が到来した。

(以下続く)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月12日 (月)

『宗教改革とその時代』

小泉徹著『宗教改革とその時代』(山川出版社、世界史リブレット)を読んだ。

非常に面白かった。面白かったし、蒙を啓かれたのは、われわれは(あるいはわれわれが中高で受けた教育は)ある種の進歩史観に支配されたものだったということに気付かされたことだ。この点は後述する。
教科書では、宗教改革はルターの「95ヶ条の論題」(1517年)からアウクスブルクの宗教和議(1555年)やイギリスのエリザベス1世の「礼拝統一法」で終わる。
しかし小泉によれば、これは宗教改革の入り口に過ぎず、宗教改革はずっと長く続くのだ。
またプロテスタントというとルターとなりがちだが、実際にはカルヴァンやその後継者テオドール・ベーズの影響力が及ぶ領域の方が広かった。
宗教改革の時期は短くとっても1517ー1648年。その政治的背景としてはハプスブルク帝国の興亡がある。ハプスブルク家にとって最大の敵はフランス王のヴァロワ家。
30年戦争には2つの対立項がある。1つはカトリック対プロテスタントで、もう1つはハプスブルク家とフランス王位を継承したブルボン家の対立である。
宗教的対立の背景には思想的対立がある。救済に関する伝統的考え方の1つが「
積善説」で善行を積むと天国に行ける。それに対しルターは、救済は人間の善行や功徳ではなくて、「神の愛」であるとした。カルヴァンはそれを一歩進め、裁く神によって救済があるかどうかは神があらかじめ決める予定説をとった。
プロテスタントの立場に立ちながら、人間には神の救済を拒絶する自由があると説いたのがアルミニウス。アルミニウス主義は、イギリスではカトリック的なものとして受け取られたが、本来は人文主義的伝統がプロテスタンティズムの中に再来したものと考えられる。
(以下次項)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ナタリア・ギンズブルグ著『小さな徳』

ナタリア・ギンズブルグ著白崎容子訳『小さな徳』(河出書房新社)を読んだ。

この本は「須賀敦子の本棚」(池澤夏樹監修)の1冊だ。つまり須賀敦子にとって、とても重要な本であったということ。
それは一旦置いておくとして、この本は1部と2部に分かれているのだが、1部は無条件に面白い。冒頭の「アブルッツォの冬」ではファシズム時代に一家が流刑にあい、流刑者の家族の日常が淡々と描かれ、しかし流刑の実情を知らなかった評者は、流刑というのは普通に家族で暮らしていること、それどころかお手伝いさんを雇ったりもしていることに驚いた。無論、トリノという大都会からアブルッツォの小さな村にやってくればかつてあったもので無いものだらけになって不自由もするのだが、住めば都で土地の人の風習や料理にも慣れて行く。それが描かれたあとで、「あの頃こそが、私の人生の、何ものにも代えがたい最高の時だったのだ」とくる。アブルッツォからローマに出た夫はレジスタンス活動で逮捕され獄死してしまうからだ。淡々とした筆致が逆に、読者に迫ってくる。
ギンズブルク独特のユーモアというかアイロニーもふんだんにあり、それは彼女のイギリス人観察に現れている。
イギリスの民度の高さ、隣人への敬意を讃えながら、女性店員は Can I help you? と言っても口先だけで、「客が買いたいものを探すために、視線を鼻先2センチ以上先には伸ばそうともしないのだ」といった調子。
パヴェーゼがいつまでも大きな子どもだったという愛情に満ちた苦言も味わい深い。
第二部は、複雑な味わいである。ギンズブルグは自分の価値観、世界観を明らかにして親の世代を否定し、独特の金銭感覚や、文筆業という仕事についての考え、経験を開陳する。貴重な証言であるが、その考え、感覚は、極めてリアリズムに傾斜しており、たとえば19世紀のオペラのような大言壮語的レトリックは大嫌いなのだ。多分そのストイックな感じが須賀敦子のエッセイにも通じる気がする。
訳者と池澤夏樹の解説付き。丁寧な訳注が付されており、時代背景やギンズブルグの家族関係を理解する助けになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月11日 (日)

『スペインのユダヤ人』

関哲行著『スペインのユダヤ人』(山川出版社、世界史リブレット)を読んだ。

新刊ではないが、非常に興味深かった。漠然とスペインが両カトリック王によって統一された1490年代にユダヤ人追放令が出たのだと思っていたのだが、それは一片の事実としては正しいが全体像としては正しく認識していなかった。
つまり、スペインにおいては中世からヨーロッパの中でユダヤ人の数が多かった。 スペインのユダヤ人はセファルディームと呼ばれ、ドイツを中心としたユダヤ人はアシュケナジームと呼ばれた。セファルディームの中からは出世して宮廷ユダヤ人となるものも出た。
11世紀末のムラービト朝、ムワッヒド朝では反ユダヤ政策が取られる。
各都市におけるユダヤ人はアルハマと呼ばれる自治組織を持っていた。
14−15世紀にキリスト教徒のユダヤ人観が根本的に変わった。それまでユダヤ人は理性的手段でいつの日かキリスト教に改宗する「潜在的キリスト教徒」と見なされていた。ところが14−15世紀になると高利貸しや徴税請負によってキリスト教徒を収奪する非道なユダヤ人のイメージが浸透。
14世紀末から大規模な反ユダヤ運動があり、コンベルソ(改宗者)を産んだ。
コンベルソには心からの改宗者と表向きの改宗者と両者の間で揺れ動く改宗者がおり、キリスト教徒、ユダヤ教徒、コンベルソの間には複雑な相互不信があった。
1492年のスペインからのユダヤ人追放令により、イスタンブルが世界最大のユダヤ人居住区となる。
コンベルソの中に内部的な相互不信、緊張があったが、フェルナンド・デ・ロハスの『ラ・セレスティーナ』やマテオ・アレマンのピカレスク小説にはその内面的緊張が反映されている。ロハスの父は異端審問裁判で火刑にされている。
バロック美術で有名なサンタ・テレサ(聖女)は、その祖父が有罪判決を受けたコンベルソだった。火刑とされたのではなくて微罪で教会と「和解」したのだった。
血の純潔規約というものがあって、3代−4代遡ってユダヤ人やイスラム教徒がいると排除されるという規則が各地で採用されたが、これが黄金世紀のスペイン演劇を代表するローぺ・デ・ベーガの演劇で名誉が中心テーマとなるのに深く関与している。
以上挙げたように、ユダヤ人およびコンベルソをめぐる問題は、スペイン文学と深く関わっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロベルタ・マメリのマスタークラス(2)

マメリのマスタークラスの続きです。

カッチーニの'Dolcissima sospiri'では現代化された楽譜のエディションを歌い手が使っていたのだが、全音符の上に時々〔tr〕と書かれている。普通に解釈すれば、ここはトリルなんだな、ということになるが、マメリによると、これはトリルと書いてあるが実はメリスマである。
トリルとメリスマは何が違うか。
トリルの場合、全音符が書かれた最初からドレドレドレドレと言った感じで音を規則的に動かす、しかしメリスマの場合、ド〜〜レドレドレと言った感じで、最初の音はある程度伸ばしてから(何拍分という規則的なものではない)音を動かす。しかも、メリスマの場合は、歌詞に合わせて(歌詞の内容に合わせて)情感をこめて音を振るわせるので、場合によってはテンポを揺らして良いのだ。この時代の曲では、歌詞が音楽より優先なので、あくまで音楽は歌詞にあわせてつけられている、ということもマメリは強調していた。これはモンテヴェルディの時も同じである。
 モンテヴェルディは歌劇オルフェオから'Signor, quel infelice' と’Voglio di vita uscir' が歌われた。マメリは、モンテヴェルディはfuturista (ここでは、未来を先取りした人、ぐらいの意味か)だから、ここはスイングするのよ、とリズム、テンポの揺れ(言葉の意味に応じてだが)を積極的に推奨していた。
   A.ノターリの'Ahi, che s'accresce in me'を歌う人もいた。
 マメリのアドバイスで興味深かったのは、自分がいきなり音(声)を出すのではなく、もう自分の後ろから音は鳴っていてそれに乗せて声を出すような感じで歌い始めよ、というもの。歌い始めのところで、たいていの歌い手は緊張して体の一部がかたくなってしまうので、もうすでに鳴っているという意識を持って歌い始めよ、ということらしい。
 母音に関しては、ウの音の注意があった。日本語のウよりもくっきりと唇を突き出して固めてウと発音するわけである。
 最後に彼女は受講生の健闘をたたえた上で、やろうと欲することが出来るにつながると言い、彼女は歌手を志したのが23歳と遅く、歌手になったのは30歳だったという。彼女の先生は彼女の進むべき道を示してはくれなかったから自分で探すしかなかったとのこと。古楽を志した人の苦難であろうか。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロベルタ・マメリのマスタークラス

ロベルタ・マメリのマスタークラスを聴講した(旗の台のえびらホール)。

えびらホールは個人のお宅的なホールで、天井は高いが椅子は30−40くらいが固定ではなく並べられていた。2日間のコースなのだが、私が聴いたのは2日目。午前中から夕方6時過ぎまで長時間のレッスンである。8人がレッスンを受け、最後は発表会。
レッスンを受けていたのは、乙顏有希、山口紗知、椿山芳、長島麻衣子、樋口由佳里、渡邊有希子、井ノ上歌歩、他お名前非公開の方が一人(敬称略)である。
このうち四人がカッチーニ(1545?-1618)を歌った。あのアマリリが有名なカッチーニである。モンテヴェルディが1567-1643 なので、1世代上で大雑把にいえば同時代人である。取り上げられた曲は 'Dolcissimo sospiro' と'Torna deh torna' と’Amarilli, mia bella' で、最初の 'Dolcissimo sospiro'を歌った人が2人いた。レッスンを聴講してわかったのだが、カッチーニの曲は楽譜を見るとシンプルに出来ているのだが、実際に歌うと難しい。マメリも、この曲は難しいのよ、でも選んだのはあなただから。と笑いながら言っていた。フレーズも長かったりする。息つぎについては、マメリは必ず歌手のお腹をさわってここは柔らかくして、しかしここまで息を入れてと。胸で呼吸するのではなく、お腹の底の部分から入れ、だんだん吐いたら、脇腹から出せという。実際、彼女が歌ってみせると、長い長いフレーズを一息で歌ってしまうのだ。その上で、もし息継ぎをするのだったら、この1音を2音のように歌い直し、そこで息を継げという実践的アドバイスもあった。
 シジスモンド・ディンディアの’Da l'onde del mio pianto' を歌った人もいる。僕はこの作曲家はじめて聴いたのだが、半音階を多用してアヴァンギャルドな感じがする。マメリもこの作曲家ははじめてだと言い、気に入ったと言っていた。
以下、事項に続く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月10日 (土)

日本音楽学会

日本音楽学会に行った(桐朋学園大学、調布)。

日本音楽学会に入会し、初めてその大会に参加してみた。まず驚いたのは、発表数の多さ。2日間に渡って4部屋で午前午後とある。4教室で同時並行だから60以上の発表・報告があるわけだ。僕が知っている学会でこの規模は日本英文学会くらいのものだ。
中身であるが、議論の緻密さ、精密さに驚いた。一々発表者のお名前をあげるのは差し控えるが、たとえばピアノのハンマーヘッドに使われていたフェルトおよび皮がどのように変化していったか、通説と、実際の調査で判明したこと、楽器修復家への調査で判ったことが写真つきのプレゼンテーションで示される。あるいは、また別の発表では、中世の音名がどのように確定していったかを、写本と写本の端の書き込みをたどりながら跡づける。さらに別の報告では、ケルンのフランコ『計量音楽技法』(13世紀に出現した、後世への影響大な本)の写本6つをとりあげたが、1つは個人蔵でアクセス不可能だったことや、先行研究の誤りなども明るく指摘された。
中世の発表があると思えば、ヴァーグナーの《神々の黄昏》についての発表もある。これは初演楽譜が消失してしまったという通説に挑むもので、実はバイエルン宮廷歌劇場のパート譜がそれだというものだ。その証明は、コピスト(作曲家の楽譜をコピーし、そこからさらにパート譜を作る人)の筆跡を丁寧にたどることで成り立っている。このコピストの同定によっての証明は、モーツァルトについての報告でも見られた。シェイクスピア学で印刷工の癖を論じたりするのと同様の議論である。
午後はモーツァルトのト短調交響曲(K550)の第四楽章の特異性を論じるもの、ハイドンの交響曲における変奏反復について論じるもの、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲(ピアノ協奏曲)K.175プラス382の史料伝承ーこれにコピストの問題が出てくる、シューベルトの交響曲のスケルツォ、メヌエット楽章がじょじょにソナタ形式に近づいていく様を論じたものを聴いた。いずれも、緻密かつ実証的なエビデンスに基づいた議論で、圧倒される思いがした。ほとんどの報告者がレジュメに参考文献をあげてくれており、さっそく何冊か自分に関わりのありそうな本を注文した。
これ以外にも興味を掻き立てられる報告はあったのだが、4つの発表が同時並行なので仕方がない。しかし8つの充実した発表を聞くと頭はパンパンになるのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »