マテウッツィのマスタークラス(3)
マテウッツィのマスタークラスの続き。
午後の最初、今日の4人目はソプラノのOさん。Mozart の《コジ・ファン・トゥッティ》の'Una donna a quindici anni' (女性も15歳になったら)。デスピーナが婚約者のいる姉妹に自由恋愛をそそのかす軽妙洒脱なアリアだ。マテウッツィはデスピーナは'carattere molto, molto, molto...interessante' と言い、デスピーナのキャラを立たせることを強調。デスピーナのずる賢さをジェスチャーや顔の表情、歌のフレーズでの表情づけで表現するようにと。
繰り返しになるが、perche の pの音に息が入らないようにという注意。前にも述べたがこれは多くの学生が注意を受けたところであり、語頭のみならず、音を伸ばした時にもそこに h が入っている、入ってはいけないという注意があるのだった。
また、この歌でもレガートの指示をモーツァルトは1ページで16個も書き入れており、それは書いてある通りにしなければならない。モーツァルトはその手間もインク代も惜しまなかったのだから、という冗談とも教訓ともつかない説明まであった。
ここでは途中からフィオルディリージとドラベッラ役の学生が参加して掛け合いをやったのだが、マテウッツィはこのやりとりは演技や間合いが大切だとして、実際にやって見せる。フィオルディリージやドラベッラが最初はデスピーナの言うことにとんでもない!とややブリッコなくらい大げさに拒絶反応を示しながら、ドラベッラは興味を示して行く。それを目の表情で示すべき、など。演技は実際に彼が女性を大げさなくらいはっきり演技して見せるので、よくわかるし、可笑しくてオーディエンスも笑ってしまう。これが《コジ》の楽しさだよと心で相槌を打つ。また、見事だったのは、3人ともマテウッツィの演技をすぐに取り入れて、最初とは演技、表情がぐんと変わるし、ドラマとして実に生き生きしてくるのだ。先生も偉いし、学生も優秀で、見ている方も嬉しい。一人で歌うアリアは音楽的な完成度を目指す方向に向かいがちだが、重唱でやりとりがあると、演劇的要素が浮かび上がってくる。それに音楽がどう絡むか、演技がどう絡むかが見どころ、聞かせどころだということを改めて認識した。
5人目はバリトンのSさん。曲はロッシーニの《セビリアの理髪師》のフィガロの’Largo al factotum'(俺は街の何でも屋)。ここでは母音をはっきり発音する指導。Largo al という時に、急いで発音すればラルゴのオと次のアルがくっついてしまいがちだが、ゴをはっきり出せという指示。また、息をまわすという指示も。これは口で言うとわかりにくいと思うが、息が頭の後ろの方に回すと言う感じなのである。フレーズが長くなって息を大事に使い回す時に、積極的に前から息を排出せず頭の後ろの方に回すと言う表現をしている。
この曲の最後の 'della citta' デッラのラはロで構わないということだった。
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