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2018年8月28日 (火)

ヘンツェ《The Bassarids》その2

ヘンツェ作曲のオペラ《The Bassarids》を再度観た(ザルツブルク、フェルゼンライトシューレ劇場)。

2度見ることで、演出クリシュトフ・ワルリスキの意図がよりよく理解できたし、音楽についてもより細部まで確認できたが、それによってより感銘を受けた。2度見ることで理解が進むのは映画でもオペラでもあることだが、それで感銘が深まるとは限らない。

この劇場はそもそも奥行きは狭く、左右が長い舞台なのだが、ワルリスキはこの舞台を柱によって4つの空間に区切っていた。空間と空間の間にドアのようなものがある場合もある。1度めに見たときには、向かって右側の前列かぶりつきのような席だったので、眼前のものはすごい迫力なのだが、左側の空間で同時に何かが進行している場合、そこが認識しにくいのだった。全体を俯瞰しにくい位置にある座席だった。しかし、歌手の俳優・女優としての存在感、ダンサーのダンスに圧倒されるという演劇の体験にとっては絶好の場所であったとも言える。

二回目の座席はこの会場が大きく二段に分かれている上の段でしかも舞台向かって左よりだったので、前回よりは全体が俯瞰でき、左側で進行する事象がより理解できた。頭での理解がより促進される位置で、両方の座席を経験できてラッキーであった。

今回の上演では、オーデン&カールマンのリブレットにないプロローグがあった。オケが演奏をする前に、ディオニソス役の歌手が、モノローグで、私はディオニソスで自分の母はセメレ、父はゼウスなのだが、セメレの姉妹は自分の出自を認めていない、という状況説明をする。最初、これは演出家が創作したのかと思った(何故なら、出版されているオーデンのリブレット集にはプロローグがなかったから)が、現地で買ったプログラムの註によると、これはヘンツェが1968年のアメリカ及びイギリス初演に際して付け加えたものだった。筆者も、エウリピデスの『バッコスの信女』とオーデン&カールマンのリブレットを読み比べ、後者の方が状況説明が足りなくて(モダニズム以降の文学者にありがちなのだが、古典を既知のものとして知っていることを読者に要求し、状況説明的セリフ、叙述をカットしてしまう)不親切な面があると思った。むしろエウリピデスの方が説明的セリフが結構あるのだ。ヘンツェはプロローグを付加することにより、観客に登場人物の基本的人間関係と状況説明をしている。プロローグがあった方がはるかに観客に親切だ。そうでなくても20世紀後半のオペラは一般になじみがうすく音楽も「難解」と受け止めている人も少なくない。入り口はオープンである方が良いと思う。劇が進行するにつれ、音楽も劇も、エウリピデスの創り出したそしてそれを20世紀にヘンツェとオーデン・カールマンが再生したとてつもない世界に入っていくことに違いはないのだ。周知のように、古代ギリシアものとオペラは切っても切り離せないが、エウリピデスのこの作品は極北的なところがあるし、ヘンツェはそれにふさわしい音楽を作り出したと言ってよいのではないか。

このプロローグの後で、オーケストラが鳴り、合唱がペンテウスが王になった、と歌い始める。(なお、分かりやすさを優先して本項ではゼウスやディオニソスと表記しているが、英語台本のためゼウスはズュース、ディオニソスはダイオニサスと英語訛りで発音されている)。

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