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2018年8月21日 (火)

《トリスタンとイゾルデ》

ヴァーグナーのオペラ《トリスタンとイゾルデ》を観た(バイロイト)。

カテリーナ・ヴァーグナーの新演出になって確か4年目なので切符が入手できたのかもしれない。2年前に観た《指輪》の独善的な演出に比べれば、まっとうな演出だったと言えよう。が媚薬を飲まないで二人で媚薬の瓶を持ち二人の手にかけてしまうことの意味は、納得がいかなかった。
指揮はティーレマン。オケの統率は取れていて、うねる感じも見事なのだが、軽みに欠けるところがある。あるいはここでもっとテンポが上がってきてほしいというところでじっくり構えてくるところがあり、筆者個人との相性(全く個人的な好みについて申し上げているのは言うまでもないことですが)は微妙なところだ。
トリスタンはヘルデン・テノールのステファン・グールド。アメリカ人。この人とイゾルデのペトラ・ラングには唖然とさせられた。どこまで声が出るのか。澄んだ声で、力みなく、どこまでも出る感じだ。筆者は数日前までロッシーニを聴いていたため、大きな落差を感じる。
歌手に関して言えば、絶対的な音量の差である。ヴァーグナーにはアジリタはないが、ともかく長時間、大音量を生成することを要求されるわけで、歌手にとって過酷だなあと思う。だから、バイロイト祝祭劇場はオケに蓋がしてあるわけだ。蓋がしてあっても、相当な音量の楽音が会場に満ち渡る。ただし、オケの音が一番鋭い部分がブレンドで打ち消しあって柔らかくなっている。歌手の声は直接音なので、そこが唯一歌手への配慮と言えよう。
この日の演出ではリブレットから大きく逸脱した点が2つある。
1つは媚薬。前述のように、トリスタンとイゾルデが会って、仇の関係を認識し、イゾルデが毒を飲んで死のうと持ちかけるが、イゾルデの侍女ブランゲーネ(クリスタ・マイヤー:堂々たる歌唱で喝采を浴びていた)の機転で媚薬を渡して飲むことになっているわけだが、今回の演出では飲まずに二人の手にかけてしまう。だから二人の愛と媚薬は無関係なのだ。さらに二人が会って媚薬の場面の前に抱擁するのもその点からは筋が通っている。
さらにもう1つは、瀕死のトリスタンはイゾルデに会わないことだ。次々にイゾルデの幻想が現れ、消えていく、という設定。トリスタンが息絶えた後でイゾルデがやってくるが、最後の最後の場面(もうこの演出も4年目だから書いてしまって良いと思うが)で、イゾルデは死なず、マルケ王にそっとうながされて、二人で舞台奥へ歩み去るのだ。
決定的にアンチ・ロマンティックで、決定的にアンチ・クライマックスなのである。そのせいか、イゾルデの第二幕、第三幕の歌唱も通常のリブレット設定から期待されるような溺れる愛と言うよりは覚めた要素の感じられる歌だったと思うが、その歌唱がラングの個性なのか、演出の解釈に沿った歌い方なのかは、僕には判断できない。
少なくとも新しいイゾルデ像が提出されていることを強く感じた。
バイロイトの祝祭歌劇場では、席は平土間のうんと後ろの方で28番という劇場の左右の中心に近い位置だった(右から30人、左から30人で1列が構成されている)。2年前にも感じたが、この劇場はヴァーグナーの意図で観客をぎゅうぎゅう詰めにしている。ヴァーグナーの時代より西欧人そして我々も大きくなっているから悲劇である。左右が体格の良い男性だと腕周りがリラックスできず肩がこるし、なおかつ劇場の中央は一種の酸欠状態になって、幕の初めに必ず猛烈な眠気に襲われる(演奏が退屈なためではないのです)。酸欠状態に慣れると観客として復活し、また普通に観られる。酸欠状態に耐性がどの程度あるかは個人差が大きいだろうと想像する。僕は弱いのだと思う。
演奏は4時に始まり、2回の休憩を挟み終演は10時を回っていた。ヴァーグナーは歌手も指揮者も観客も体力勝負である。

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